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2012年2月22日 (水)

構造と歴史

カメラというのは、元はカメラオブスキュラという絵を描くための道具で、だから写真は元々絵画だったのだ。
その意味で現代においても「絵画」の意識の無い写真は写真じゃないし、画家の意識の無い写真家は写真家ではない。
つまり写真の表面をなぞった写真と、写真の元の絵画を含む写真との違いである。

と考えると、構造主義の《構造》とは《歴史》のことだったのか!と気付くのである。
レヴィ=ストロースの《親族の基本構造》も過去から連綿と受け継いできたものだし、フロイトの《無意識》にも意識できない歴史が隠れてる。
目に見える表層は《現在》で、目に見えない《構造》は《歴史》だったのである。

歴史が《構造》だとすれば、歴史を意識してない写真には《構造》が無く、《現在という表層》だけで出来ている。
つまりぼくの作品『反ー反写真』も、我ながら今ひとつ捉えどころが無いと思ってたが、それは自分の中に写真の《構造》が、十分形成されてないためだったのだ。

そう考えると、自分はどうも、これまで「印象派」という言葉が揶揄するところの、本当の意味を理解してなかった。
念のため解説すると、「印象派」という名称は、発表当時のモネやルノアールの絵を評して、新聞記者が「印象しか描かれていない」と揶揄した言葉が元になっている。
つまり《印象》とは目に見える表層だけで、見えない《構造》すなわち《歴史性》を欠いている事が非難されたのだった。

だが結局は「印象派」がメジャーになり、近代において《構造=歴史》を欠いたアートこそが、新たな時代に相応しいとされたのだった。
そして現代日本においては、「《構造》が無いのが現代アート」という概念が疑う余地なく自明化され、だからアーティストも《歴史》を学ばないのである。
だが実際はアートは《構造》によってのみ新しくなるのであり、《構造》を欠いた表層がいくら変わっても、本質はどれも同じに過ぎないのだ。

まさに、自分に足りないのは《構造》だったのだ!
自分は「構造主義者」を自称していたのに、何とも情けない話だが、でもそれに気づけたのも《構造》のおかげなので、まぁとしよう(笑)

しかしぼくはカメラの歴史は知っているので、カメラについては《構造》が認識できる、と言えるかも知れない。
例えば、戦前のライカにはカメラとしての《構造》があるが、ライバルのコンタックスはメカに凝りすぎてカメラの《構造》がおざなりにされてる。
オリンパスのフィルム一眼レフOMはライカから《構造》を引き継いでるが、デジタルのOMは表層をなぞっただけで《構造》が無い。
一般には見分けは付かないだろうが、《構造》が認識できるカメラマニアには、この微細な違いがどうしても期になってしまうのだ。

あと、ぼくは『五つの王国―図説・生物界ガイド』や日高敏隆『動物という文化』など読んで、生物の歴史はだいたい把握してるから、その意味での《構造》は理解してるつもりだ。
しかし、アートや写真については、そのように言い切れる自信が全くなく、まぁ、色んな事情もあって遠回りしながら考えているのだった(笑)

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