芸術と完全犯罪
文明社会は、根源的に「暴力」に支えられてる。
社会を成立させるためのルールとは、本質的に「暴力を抑えるための暴力」であり、「暴力はいけない」というルールも「暴力」によって支えられている。
つまり「暴力はいけない」という言葉は、「国家に管理されない暴力はいけない」という意味を示している。
文明の本質が暴力なら、文明の産物である芸術もまた、暴力と言えるのかも知れない。
野蛮な暴力は直接的で小さな暴力しか生み出さないが、文明的に高度な暴力は間接的により大きな暴力を生み出す。
暴力としての芸術にも、同じことが言えるかもしれない。
野蛮な方法の手作りでは「小さな芸術」しか生み出せないが、文明的に高度な方法はより間接的に大きな芸術を生み出す(例えば建築や映画など)。
芸術は本質的に暴力であり、だから暴力それ自体は芸術にならない。
芸術には暴力的な芸術と、非暴力的な芸術が存在する。
「非暴力的な芸術」とは、大人しく、平和で、人に癒しをもたらすが、箸にも棒にもかからない芸術でもある。
芸術はまた、本質的に犯罪でもあり、だから犯罪そのものは芸術になりえない。
芸術としての犯罪は「芸術としての法」を犯すことであり、だから「芸術としての法」をまず学ばなければ、犯罪のしようがない。
何も知らずにデタラメをしても「芸術としての法」の範囲内に収まるだけで、例えば芸術を爆破しても、凡庸な芸術にしかならない。
完全な芸術を成すことは、誰にもバレない完全犯罪を成すこと同様に難しい。
そして、高度に仕組まれた完全犯罪が、犯罪だと誰にも気付かれないように、高度な芸術もまた、多くの人に芸術だとは気付かれることはない。
安易な、誰にでもすぐそれと分かるような芸術は、犯罪としては中途半端で、犯罪のフリをした小心者の善良な振る舞いにすぎない。
「芸術は、爆発だ!」と叫んだ岡本太郎は、誰もが思い描く「非常識」を演じた常識人だったのであり、芸術的には犯罪者ではない善人に過ぎない。
警察が無能だと安易な犯罪が横行するように、評論家が無能だと安易な芸術が横行することになる。
完全犯罪を計画するように、完全な芸術を計画すること。
「そんな計画は思いつかないよ!」と思うアーティストは、善良な小市民に過ぎないのである。
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