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2012年2月21日 (火)

ユニクロとメディアリテラシー

ベンジャミン・フルフォード『騙されるニッポン』読んだが、彼がメキシコに住んでた小学生時代、午前中はメキシコの教科書、午後はアメリカの教科書を使って同じ「アメリカ=メキシコ戦争・1846〜1848」の授業を受け、その記述の違いに驚いたそうだ。これぞ、まさにメディアリテラシー教育の見本である。

人間は自分が持っている情報でしか物事を考えられない。
そもそも「考え」とは「情報の編み物」である。
高度な考えとは多様な情報が複雑に、そして独自の仕方で編まれている。
物事を深く考える人は、そのように複雑に編まれた、高級なオーダーメイド服を着ているようなものである。
一方、自分ではあまり物事を考えない人は「常識」で物事を判断するが、その状態は、みんなと同じでお手軽なユニクロのセーターを着てるようなものだと言える。

メディアリテラシーを高めることは、有り体に言えば、大人として成長することである。
子供はリテラシーが未発達なのであり、大人になってもリテラシーが不十分な人は、子供と同じである

仕事が忙しい大人は、勉強する暇がなかなか取れず、勉強しても頭が固くなっていて、なかなか覚えられない。
だから子供のうちにできるだけ多くの知識を吸収すれば、それらは大人になってからメディアリテラシーの重要な「資源」になる。

メディアリテラシーにとって、「選択の結果を悔やまない」という心構えも必要と言えるかもしれない。
例えば、放射能を危険視したため職や家族を失っても、放射能を安全視したため癌になっても、自分で調べ自分で決断した結果を悔やまない。
例え情報を読み誤ったとしても、その失敗を受け入れ、次の対策を立てるためのリテラシーこそが大事なのである。
その心構えがない人は、情報を集めてもただそれに振り回されることになる。

メディアリテラシーは、自分の中の、知識のネットワークを広げることで強化される。
ネットワークの広がりが一定方向に偏ると、得られる情報も偏りリテラシーが損なわれる。
全方向に広くネットワークを広げる人ほど、高いリテラシーを獲得できる。
結局、努力無しにリテラシーは得られないし、リテラシーもまた人格の反映だと言えるのだ。
「普通で満足」と思う人は、分相応にユニクロ的リテラシーを身にまとうことになる。

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