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2012年3月 4日 (日)

認識と例え

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認識とは「違うものを分ける」よりむしろ「似たものを寄せ集める」ことだと言える。
全ての個物を「違うもの」と認識するなら、認識そのものが成り立たない。
まず「似たものを寄せ集める」行為があり、次に似たものの中から「違うものを分ける」行為があり、「認識」が成立する。

認識がまず「似たものを寄せ集める」行為だとすれば、認識とは本質的に「例え」だと言える。
例えば、人は「ミカン」をいうものを、「それは例えばリンゴやブドウやイチゴのようなもの」という具合に認識している。
あるいは同じミカンを「例えば河原の丸石や野球ボールのようなもの」と認識している。

「ミカン」はリンゴやイチゴなどに例えられる事によって「果物」と認識され、河原の石やボールに例えられることで「球体」と認識される。
このような「例え」の事例が多いほど、認識はより深まる。
認識のための「例え」をより多く知る人は「知識がある」とか「教養がある」などと言われる。

アートとは何か?を知るために、アートについての勉強するだけでは意味がない。認識とは他のものの「例え」でなされるのだから、アート以外の、アートの「例え」になる事例を、より広範な分野から収集しなければならない。例えば、生物進化を知ることで、アートを生物進化の例えで知ることができるのだ

以上、例えとは何か?を例えを使って説明したりとかw

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