メガデスで認識の実験
ロックが分からない、と言うかただウルサイだけでキライだったのだが、実験的にここ一月くらいずっと「メガデス」ばかり聴いてたら、だんだん好きになってきた。
はじめは単なる雑音にしか聞こえず、どの曲も同じに思えて区別が付かなかったのに、徐々に音が分離し始め音楽だと認識できるようになった。
キライだった「メガデス」を聞き続ける実験をして分かったのは、認識とは「分離」であり、要素が分離して認識されることで「空間」が認識される、ということ。
ぼくにとってメガデスは、はじめはベチャッとした平面でしかなかったが、我慢して繰り返し聞いてると、徐々に要素が分離し始め「空間」が立ち上がってきた。
と言うわけで、メガデスに続いて今はスレイヤーを繰り返し聞いてるが、慣れると大好きになってしまうので現金なものだ。
そもそもみんなが美味しいと言って食べてるものを、自分だけが嫌いなのは「食わず嫌い」による先入観でしかない。
先入観は「自分本来の感覚」ではなく、感覚とは本来開拓すべきものだと言える。
ところで、先日のアートスタディーズで「絵画にとっても建築にとっても“空間とは何か?”を語り出すと話が難しくなるので鬼門だ」などと話してる人がいた。
だが、そもそも認識とは「空間認識」なのであり、音楽はもちろん、優れた料理も食べると口腔内に「豊かな空間」が広がる。
認識とは「空間の認識」なのだが、そもそも絵画や建築は空間の表現なので「そこに空間が表現されてるのか?」と問うのはおかしな事だ。
だが音楽や料理に「空間」が感じられるのは、その場合の空間とは「比喩」なのである。
だから絵画や建築も「比喩としての空間が表現されているか?」が問題になるのだ。
と考えると、「絵画にとっても建築にとっても“空間とは何か?”を語り出すと話が難しくなるので鬼門だ」などと言う人達は(たとえ専門家であっても)そもそも「比喩」というものを理解しているかが疑わしいのである。
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