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2012年4月29日 (日)

《象徴界》の言語と《想像界》の言語

2012/4/3〜4/15にTAP Galleryで開催した個展『反ー反写真』を観た友人が、後日ぼくのことを心配してくださって、メールを送ってくれた。
その後、長めのメールのやりとりになり、ぼくとしてはずいぶん考えが進んだので、自分が返信したぶんだけ掲載してみる。
きわどい内容が含まれるため、名前は伏せ字にした他、内容も一部改変した。
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○○さま

メールありがとうございます。

> あとから考えると重大な話だったかもしれないのに、
> 笑いものにしてしまったかのようでたいへん失礼しました。

いや、特に気にしてないので大丈夫です。
一般的には想定内の反応ですw

> もし、このままじゃまずいとか苦しいとか抜け出したいとお考えなら、
> 精神的依存状態なのでしょうから、もっと強い依存先をつくりだすしかないように思います。
> いきなり「依存するな、強くなれ」ったって無理でしょう。
> で別の依存先ですが、次のようなものが思い浮かびます。

親切にありがとうございます。
しかしどうも、ぼくとしてはあまり精神的に弱っているような、ヤバイ状態という自覚がないのです。

いちおう説明というか、釈明を試みますと、ぼく自身としてはまず「宗教とはなにか?」に昔から興味があり、それで橋爪大三郎や小室直規などの入門書を読み、旧約聖書に新釈聖書、初期仏典から大乗仏典、論語や荘子など、原著(現代語訳)もいろいろ読んだのです。
プラトンもけっこう読みましたが、昔は哲学と宗教が未分化で、ソクラテスも死に際は神と死後の世界について長々と語ってます。
そういえばその昔はオウムにもハマって、入信する気はさらさらありませんでしたが、機関誌や漫画はけっこう買って、今も部屋のどこかにしまってありますw

で、そういう風にいろいろ読んで、「宗教にもいろいろある」という事をある程度知ると、自分がどんな宗教を信仰するのか?を自分の意志で選択できるようになります。

これは高田明典さんが書いていたのですが、お金をたくさん所有すればお金から自由になり、時間をたくさん所有すれば時間から自由になり、知識たくさんを所有すれば知識から自由になれます。
そして、お金を所有してない人はお金に不自由で、時間を所有してない人は時間に不自由で、知識を所有してない人は知識が不自由な人です。

この理屈で行けば、宗教をたくさん所有する人は「宗教から自由な人」であり、宗教を所有してない人は「宗教から自由でない人」である、と言うことができます。
そしてぼくは、現時点のレベルで十分とは言えませんが、少なくとも勉強して研究したぶんは、宗教を所有しているのであり、宗教から自由なのです。

これに対しもし○○さんが、宗教については世間並みの知識しかお持ちでないのだとすれば、それはぼくからは、宗教を所有してない「宗教から自由でない人」に思えてしまいます。
まぁ、○○さんはともかく、日本では「世間の人」の多くが「自分は無宗教だ」といいながら、「世間教」とも言うべき宗教にどっぷりはまり、自分が気付かないだけですっかり洗脳されているように、ぼくには見えます。
ですからぼくは日本に特有の「世間教」から抜け出すためにも、さまざまな宗教との比較を通して、「宗教から自由な人」を目指してきたわけです。

もっとも○○さんは、大学では哲学を専攻した方ですから、哲学によって宗教=世間教の問題を乗り越えられているかも知れません。
そもそも思想史的には、宗教の問題は哲学や現代思想によってとっくに乗り越えられているわけです。
しかし専門外の世間レベルでは、依然として「世間教」が呪術のように蔓延っている、というのがぼくの認識です。

とは言えぼくから見て、○○さんご自身は「世間」というモノを対象化して捉え、そして嫌悪されているように思えます。
しかしブログを拝見すると、○○さんが嫌悪されているのは「王様の耳はロバの耳」に象徴される「権力」で、自身の立場は「庶民」に置かれているような・・・?
いずれにしろ、そういうところに○○さんの「哲学」があるような気がするのですが、いかがでしょう?
哲学の問題は、プラトンを読めば分かるとおり宗教とも通じてますので、興味があるのです。
__

○○さま

返信ありがとうございます。

> あとから思い返したら少なからず深刻さを匂わせる節があった気がしたのですが、
> 気のせいだったのでしょう。

そう思って気にかけていただいたことについては、ありがたく思います。

> 依存は宗教とはさしあたり別の問題だと思いますがね。

「宗教はアヘンだ」という言葉がありますが、自己に厳しい求道者はともかく、世間の多くは神や仏に依存するように、「世間教」にも依存しているようにぼくには思えます。
その「依存」を断ち切るためには、前回のメールでお伝えしたように「宗教から自由になる」必要があり、その発想は文化人類学から派生した現代思想から来ているわけです。
ですからこの問題は哲学とは無関係ではなく、○○さんの哲学的態度にも興味があるのです。

> むろんいかがわしい宗教者には、
> 信者との間に依存関係を巧妙に形成して服従させる才能に長けた者もいるでしょうけれど。
> H氏もひとの弱みを握ったり相手を精神的に丸裸にしたりして
> そういう関係に持ち込もうとするのでしょう。

まぁこうした場合、何を言っても「騙されている人の典型」として受け取られるでしょうねw

> その意味では類似はしてると思いますが、
> すべての宗教が信者をそういうふうに支配しようとするわけではないし、
> すべての信者がみんな宗教に依存しているわけではない。

ぼくはもちろん全部の宗教を網羅したわけではないですが、『法華経』など大乗仏教経典読むと、まず大衆からの「依存したい」というニーズがあって、それに応えるかたちで経典が成立したようにも読めます。
現代日本社会でも、多くの人は実は「依存したい」と思っていて、○○さんも独自の仕方でそれを非難しているように、ぼくには見えます。

> まあラカンと弟子たちの一種異様な関係は有名で、
> ラカン派精神科医と患者たちとの関係でそれが反復されることも多いらしいですが、
> ラカンを読んだのかどうか疑問だけれどラカンをふりかざす父性的要素の強い人物が
> それと同様の人間関係に陥ってしまうというのも味わい深い話です。
> 理解してるかどうかはともかく、自分と同種のものを嗅ぎ取っているのでしょう。

まぁ、「他人のやり方をコピーして繰り返してしまう」というのもラカンの理論ではありますが、それを無自覚に行うと時として「症状」となり、自覚して行うと「方法論」になるわけで、ぼくはそれを実践し試してるつもりでいます。
それをもって「ラカニアン」と言えるかどうか、ぼくには不明ですがw

いやもしかすると、ぼくと○○さんでは「父性」なるものに対する態度が異なるのかも知れません。
ぼくはいわゆる「世間」からの落ちこぼれであることを自覚し、それゆえに「世間」を恨み、そして「父性」なるものに惹かれ、それを「芸術」に重ね合わせているのかも知れません。

対して○○さんは、ブログを拝見するとむしろ「芸術」にまつわる権力性を批判し、「父性」なるものを嫌悪しているようにも思えます。
○○さんは「世間」を批判しているように見えて、その実「権力に惑わされる世間」を非難しているのであり、「世間」そのものはむしろ肯定的に捉えられているのかも知れません。

そう考えると、○○さんが「表現」を捨てて「技術」に走る気持ちも、理解できるような気がします。
「表現」は結局のところ「父性」的な価値のヒエラルキーに晒されるのに対し、「技術」それ自体にとっては誰に対しても平等に開かれているからです。
別の言い方をすれば、「芸術表現」は特権的な才能を持ったものだけが可能なのに対し、「科学技術」は条件さえ揃えば誰でも同じ結果をもたらすことが可能です。
○○さんがブログで書いた『王様の耳はロバの耳』で例えれば、「王様の耳」は庶民には見えない貴族だけの「特権的価値判断」をあらわし、「王様の耳はロバの耳だ!」という子供の指摘は特権的価値判断を無効にする「科学的価値判断」をあらわしていると、解釈できます。
だから○○さんのぼくに対する批判も、『反ー反写真』によって芸術にまつわる「権力」に反発したと思わせて、実はそうでもないので「煮え切らない」「クダラナイ」と思われたのかも知れません。

以上、いろいろ想像で書いて申し訳ないですが、ぼくとしては○○さんを非難するつもりは全くなく、反対に自分について肯定して欲しいと思う気持ちもなく、ただ興味としてお互いの「違い」を認識してみたいのです。
もちろんただの興味本位ではなく、「宗教」にしても「世間」にしても「父性」にしても、それはその人の「芸術観」とは無関係ではなく、それぞれの違いを認識することは、お互い益のあることではないかと思った次第です。

もちろんぼくの立場では無理強いできませんが、興味がありましたらもう少しだけおつきあいいただければと思います。

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○○さま

率直なご指摘ありがとうございます。

この件についてはじっくりやりとりするつもりが、忙しくて時間が無くなってきてしまいました。

そこで端的に言いますと、○○さんのご指摘がもっともなことだとしても、しかし「キセル常習者」の○○さんに言われては、説得力がないのです。
いや、○○さんは前回お会いした際「最近はキセルはしていない」とおっしゃってましたが、しかし同じ日に「糸崎さんもキセルすればいいのに」とそのやり方を具体的に述べていましたし、少なくとも2010年夏に一緒の電車に乗った際に、○○さんはぼくの目の前でキセルをしていたのです。

ぼくとしては、○○さんに「キセルは良くないから止めろ」というような常識的で陳腐なで諭すつもりはないですが、大学の哲学科を出てアートに携わる人間としては「考えが甘い」という指摘だけはさせていただきたいと思います。
○○さんは酒も飲まずにシラフで、こちらが頼みもしないのに「キセルのアドバイス」を持ちかけてましたが、そのご自身の「異常性」を棚に上げて、ぼくの「異常性」を指摘したのだとすれば、「考えが甘い」と言う他ないのです。

総合的に判断すると、○○さんのぼくに対する「依存」だとか「マインドコントロール」だとか「自己弁護」だとか言う指摘は、陳腐な常識でしか無く、「○○さん独自の考え」というものが感じられません。
○○さんは一見、常識や世間や権力に反抗しているようでいて、本質的にその価値を認めた上で、ダダをこねているような「甘さ」がぼくには見えます。
哲学的に、人間個人の独自の考えは(ソクラテスが「無知の知」を説いたように)「反省性」において成立しますが、○○さんの「反省性」を欠いた思考は、だからこそ個性を欠いて常識的で陳腐なのだと、ぼくは解釈します。

もちろん○○さんが「キセル常習者」である立場を根拠に、反社会性、反権力性を語るなら、場合によってはその主張を認め支持しないとも限りません。
しかし、実際はそこまでは考えておらず、単に不徹底で甘い考えのもと、世間に対して子供のように拗ねているだけのように、見受けられます。
当初はもっと何か深いものがあるかも知れないと思い、メールのやりとりを続けてきましたが、事はもっと単純だったのかも知れません。
○○さんが提示された「父性」という言葉を使うなら、「父性」に象徴される「大文字の他者」を否定して「軽犯罪」に走ることは、少なくとも哲学者や芸術家の態度ではなく、あえて汚い言葉を使えばDQN並です。

まぁ、ぼくと彦坂さんの関係について、疑問や批判があるのであれば、ブログなど公の場でいくらでもお答えすることは出来ます。
しかし、○○さんはご自身が「キセル常習者」であることについてブログなどで質問された場合、キチンと返答する準備があるのでしょうか?
もちろんぼくは、○○さんにそういう「意地悪」をするつもりはないですが、結局やましいことがある人の意見は説得力を持ち得ないし、そのことだけはこの場でお伝えしようと思った次第です。

ともかく、ぼく自身の認識は深まったことは確かであり、言葉のキャッチボールにつきあっていただいたことには感謝いたします。

__

○○さま

すばやいお返事ありがとうございます。

> 私の予告通り、平行線となりました。

いや、ぼくのつもりとしては、当初から平行線状態を是正するつもりはなく、「お互いの違いを明らかにしたい」と以前のメールにも書いているのです。

> 黙ってればいいのに、相手が言われたくないことを言ってしまうのは私の悪い癖です。

ぼくの場合は批判は歓迎で、むしろ嘘で褒められたり、黙っていられたりする方が困ってしまいます。

> 今度は議論のすり替えですか。関係ないでしょう。
> このように自分が形勢不利になったと見るや、
> 議論とは別の相手の弱点(と思い込むもの)を持ち出して責め立てるのも……
> やめておきます。

実は、○○さんのブログの「王様の耳はロバの耳」の話題に興味を持って、返信を書こうと考えたところ、○○さんからメールが来たので、この話題を含めやりとりすることにしたのでした。
○○さんがブログで問題にしていたのは「権力」であり、ぼくへの洗脳云々の批判も「権力」の問題であり、そうであればキセルの問題も「権力」なのだろうなと、思ったわけです。

> そもそも私は糸崎さんを非難しているわけではありません。
> そうではなく、困っていて私に何かを伝えようとしてくださったのだったら
> 少しでもご助言ができればと思っただけです。
> どうして、自分が攻撃されている、と思ってしまうのでしょう。

ぼくとしては○○さんから「あなたは洗脳されていることに気付いていない」というような批判を受けたと捉えていますし、それ以前にTAPの会場で「こんな展示は意味がない」みたいは批判も受けていましたが、ぼくの中では批判=攻撃とは考えていません。
日本の写真界もアート界も、批判がタブー視された生ぬるい状況にありますから、○○さんの痛烈な批判はありがたいことだとは思っていました。
ただ、やりとりを重ねているうちに、○○さんの批判の根拠が実にあやふやであることが判明し、それでこのことを問題として指摘したのでした。

> 私の立場を批判したからといって、
> 糸崎さんが抱えているかもしれない問題はいっこうに解決しないのですよ。
> よく考えてみてください。
>
> いや、問題などない、現状でいいとおっしゃるのでしたら、
> 再三申し上げた通り、とやかく言う気はありません。
> 私は気づいていただこうと思って指摘しただけです。
> 言い方が適切ではなかったかもしれず、それについては落ち度だったと思っています。

> キセルについては、おすすめするわけではない、と何度も申し上げました。
> 交通費がかかるとおっしゃるから、こういうやり方もある、と話題の一つとして申し上げただけです。
> 実際私は最近ほとんどやってません。
> 百歩譲って、違法乗車していた私には他人を非難する資格などないとしても、

まぁ、この度は○○さんの「程度」というものがよく分かりました。
「哲学」とか「アート」以前の問題として、小悪党としてあまりにもセコ過ぎで、おまけに人が良すぎで、脇が甘すぎです・・・
それを含めて○○さんの「愛すべきお人柄」と言えるかもしれませんが、いずれにしろぼくの○○さんに対する「見る目」は変えざるを得ません。
いやまぁ、○○さんからしたらぼくの方が愚か者に見えるかも知れず、そうだとすればそれも仕方のないことだと思いますから、特に言い訳するつもりはありません。

__

○○さま

理解されることを全く期待しないで書きますが、今回のやりとりを通して、○○さんは一貫して《想像界》の言語で語っているのに対し、ぼくは《象徴界》の言語で語っていることに、あらためて気付きました。

《想像界》の言語とは、めくるめくイメージの世界であり、「鏡の森」のようにコピーが繰り返される反面、大事な事柄が隠されてしまう世界でもあります。
○○さんの理論展開には、この《想像界》の言語の特徴が、非常に良くあらわれているように思われます。

対してぼくは、最近は特に意識的に《象徴界》の言語を使用しています。
《象徴界》の言語とは、「法」や「正義」や「理性」などにより秩序立てられた言語であり、良く整備された都市国家のような世界です。

具体的には、○○さんがぼくにされた「心配」とは、まったくの想像の産物に過ぎません。
例えその想像が結果として「図星」だったとしても、その内容が想像の産物であることには変わりません。
○○さんはご自分が想像された「心配」に基づいて、わざわざメールをぼくにくれたのです。

対してぼくが○○さんに個展に来ていただいたのは、○○さんならではの辛口評価をいただきたい、ということもありました。
しかしそれ以前に、○○さんにはその前にお会いした際に人として「義理」を欠いてしまったため、その修復の意味もあったのです。
そしてメールでのやりとりの際は、「法」を軸に話を進めようとしたのです。

ラカンが提唱した《象徴界》とは、人間の《言語》を指しますから、人間は誰でも《象徴界》の精神を持っています。
この人間の《象徴界=言語》を生物学的に何かと考えると、それはDNAの外部化だと言うことが出来ます。
DNAを生物機能としての《象徴界》だとすれば、あらゆる生物の身体は《象徴界》による秩序で出来ていると言えます。
しかし、多数の生物が共存する、森やジャングルのような自然環境には、《象徴界》と呼ぶべき確固とした秩序は存在しません。

と考えると、人間は《象徴界》の精神によって《言語》を話すことは出来るけど、その理論の組み立て方に《象徴界》的な厳密性を欠いた「《想像界》の言語」が存在しうるのです。
《想像界》の言語で組み立てられた理論は、言わば自然のジャングルのようなもので、秩序が皆無とは言えないけどそれが非常に緩やかな、カオス的な状況です。
そして○○さんのメールでの理論の進め方は、まさにカオス的であるようにぼくには思われたのです。

対してぼくは、「義理」や「正義」や「法」という秩序=コスモスを意識しながら、《象徴界》の言語で話を進めてきました。
生物のDNA機能の外部化が《言語》だとすれば、その《言語》機能の外部化が「《象徴界》の言語」です。
「《象徴界》の言語」とは、「《象徴界》の《象徴界》」という具合に二重化しているのです。
「《象徴界》の言語」とは、まず第一は「法」であって、だからユダヤの神はモーゼに「十戒」を与え、ブッダは「法(ダルマ)」を説いたのです。

《想像界》の言語がジャングルだとすれば、《象徴界》の言語は整備され洗練された都市です。
実際、《象徴界》の言語=法は、人間が都市で生きるようになった文明において必要になり、発生したものです。
それ以前、人間が親族単位で、森の中で暮らしていた、狩猟最終段階では、必要のないもので、だから存在しなかったわけです。
ただ、文明社会においても、誰もが「《象徴界》の言語」で物事を考えているわけではなく、昔ながらの「《想像界》の言語」で思考し語っている人々が、多く含まれるわけです。

以上のことは、○○さんとのやりとりを通じて、あらためて気付いたことで、お陰で考えがだいぶ進みました。
○○さんにとっては、ご自分と無関係なことだと思われるかも知れませんが、ぼくのほうは感謝してます。

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