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2012年5月

2012年5月25日 (金)

糸崎公朗写真展『反ー反写真』TAPギャラリー会場写真

遅ればせながらアップしますが、TAP Galleryにて2012/4/3〜4/15に開催された、糸崎公朗 写真展『反-反写真』の会場記録写真です。
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問題解決と鍋の蓋

現実世界とは実に複雑であり、人間も自分を含め実に複雑精密であり、しかも人それぞれ多種多様である。
だから世界を「ありのまま」に見ようとすればするほど、本当の意味での問題解決などあり得ず、世界には絶望しか存在しない。

世界に対し、正直に、誠実に向き合うと、そこには絶望しか存在しない。
その絶望に、真正面から向き合うことが、アートであり、哲学なのだ。

だから世界を「自分の分かる言葉」に置き換え、納得することで問題解決を図る方法論は、一種の詐術にすぎない。
しかし人間は誰でも《想像界》という詐術の世界に生きるので、詐術としての問題解決は(逆説的だが)現実的に有効なのである。

つまりあらゆる問題解決の方法は、デザインにしろ、現代思想にしろ《想像界》において作動する。
これに対しアートや哲学は《想像界》の外部で作動する。
世界認識とは《想像界》の否定であり、それが般若心経の「色即是空」なのである。

そして、アートとは実に、《想像界》の否定という逆説の上に成立している。
例えば、仏教もキリスト教も「偶像の否定」を明確に説いているが、後の時代に仏教美術もキリスト教美術も発生し公認され、そのような矛盾の上にアートは成立し、その矛盾に向き合う事が「世界認識」としてのアートなのだ。
あるいは古代ギリシアの大哲学者ソクラテスはアートを「一段低いものである」と説いたが、ルネッサンスの大芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチはそれを踏まえながらアートを「一段高いもの」へと押し上げたのだ。

****

相手が自分に対し、どれだけの量の嘘をついているのかをよく観察すること。
そうすれば、自分が相手に対し誠実に接することが、必ずしも相手のためになるわけではないことが、了解できる。

「いかに考えるか?」と「いかに考えないか?」を同時進行させ、「いかに真実を語るか?」と「いかに嘘をつくか?」を同時進行させること。

「真実」は《想像界》の内に存在しない。
「誠実さ」も《想像界》の内に存在しない。
それらは《想像界》を打ち破るものであり、《想像界》を「現実」と思いなして生きる人は、誰もそれを望んではいないのである。

《想像界》の精神のみに生きる人たちに対し、《象徴界》の言葉を投げかけることは無意味であるばかりでなく、無用なトラブルの元になる。
《想像界》の精神に生きる人に対しては《想像界》の言葉だけを投げかける事が有効で、しかも《想像界》の言葉とは、「嘘」であり「詐術」であり「真実」ではないのである。

孫子は『兵法』で「敵に勝つためには、まず相手のことをよく調べる事」と述べているように、問題解決のためには対象物を調べ良く認識することが重要である。
しかし物事を真面目に認識すればするほど、あらゆる問題解決は詐術に過ぎない事が明らかとなる。

世界を詳しく調べれば、調べた分だけ問題は解決する。
しかし調べた分だけ、問題が解決不可能であることも明らかになる。

あらゆる問題解決は鍋の蓋のようなもので、鍋の中身の問題そのものは決して消去できない。
例えば、人間は自分を変えることはできても、世界そのものや他人を変えることはできない。
自分にしても、可能な範囲内でしか変えることができず、せいぜい「鍋の蓋」でしかないのだ。

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あらゆる苦悩は《想像界》との対決にあり、《想像界》の内部での苦悩はたとえそれが自殺に至ったとしても、真の苦悩とは言えない。
《想像界》の中で悩んだフリをして、自己満足の内に自殺する人がいる。
少なくとも自分の父親がそうであり、その意味では幸せな人だったと言える。
自分への死刑宣告を甘んじて受け入れた、ソクラテスやキリストと比べるべくもない。
つまり自分の「小さな都合」で自殺するのと、ソクラテスやキリストのように「大きなものを背負って」死を選ぶのは、意味が違う。

ソクラテスについては、プラトンの著書を読めばわかるとおり、積極的に死を選んだのではなく、「逃げない」ことを決意した結果、死刑を受け入れたに過ぎない。
だから「逃げる」ことの結果としての自殺は道場に値しないし、実に大したことでもないのである。と、考えることもできる。

「逃げる」という結果として自殺したり、「逃げる」という結果として死から逃れることがある。
また「逃げない」という結果として自殺を思いとどまったり、「逃げない」という結果としてしを受け入れる場合もある。

「弱い人」についての解決策は「強い人になる」と「弱い人のまま保護される」の二種類がある。
「弱い自分」についてもまたしかり。
自分の場合は、大嫌いだった父親が自殺したせいもあって、自殺者や、まして自殺をほのめかして気を引こうとする人に対しては、非常に冷たい。
『天才バカボン』で「自殺する!」と口走った後輩にパパが「だったら死ぬとこ見てみたい、すぐ死ね!」と迫る話があったが、それに同調する自分も病気だ。

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デザインと問題解決

@Stakesh: デザインとアートの違いとは何か? http://t.co/ZjsIEvJJ デザインとは問題解決であり、アートとは自己表現である

これを「デザインとは問題解決であり、アートとは世界認識である」と言い換えると、さらに「自己表現とは世界認識である」と言い換えることができる。
「自己」とはとてもちっぽけなもので、だから「アートとは自己表現である」というようなちっぽけなものではない。
そうではなく、アートとは、自己がどのように世界という大きなものを認識したのか?その反映であり、表明なのである。

アートには、アーティストの世界認識そのものが現れている。
世界を深く捉えているアーティストの作品は深く、世界を浅く捉えているアーティストの作品は浅い。

「問題解決:世界認識」という対比は、デザインとアートだけではなく、現代思想と哲学の関係にも当てはまる。
高田明典さんによると、現代思想は現実の問題解決を目指し、形而上の思索に耽る哲学とは袂を別けた。
つまり現代思想はデザインなのである。

ぼくは高田明典さんの影響で、自分の思索を問題解決の方法として自覚していた。
しかし彦坂尚嘉さんには「糸崎さんは何でも自分のわかる言葉に置き換えてしまう」と非難された。
つまり、難解な概念や複雑な現実問題を「自分の分かる言葉」に置き換えると、それはデザイン化であり、だからこそ具体的な問題解決に結びつく。

結局のところ《現実界》を「身体」という別の言葉に置き換えたこと自体、彦坂尚嘉さんに非難されたのだが、しかしまず自分のやりたいようにやって失敗してみないと、理解できないこともある。
それだけ《現実界》という概念は、自分にとって現実離れして難しい。

《現実界》が「身体」の領域であれば、産業革命以後は「身体の拡張の時代」であり、だから《現実界》の台頭なのであり、《現実界》の精神だけの人間が現れてもおかしくない。
それは産業革命によってもたらされた「拡張された身体」に見合った精神のありかたと言えるかもしれない。

あらゆる生物は「種」に別れている。イヌなイヌであり、エンマコオロギはエンマコオロギであり、キンポウゲはキンポウゲであり、ヒトはヒトなのだ。
だからどれだけ自分が嫌いで問題があると思える他人でも、どれだけ凶悪な犯罪者でも、どれだけのキチガイでも、全部「自分自身」の問題でしかない。

…などといろいろ考えてみたのだが、ともかく、言葉とは光のようなものである。
光を当てると「そのもの」が何であるか認識できるが、同時にそれは「光の反射」に過ぎず、何ら実態を認識したことにはならない。
だからこそ、様々な角度から見て、様々な種類の光を当て「そのもの」を認識せざるを得ない。
言葉と「そのもの」の関係もまた同じ。

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「心が無い人」についての仮説

以下はあくまで仮説です。
実のところ「心が無い人」が本当に存在するか否かよりも、その言葉によってぼく自身が自己治癒できるかどうかが重要で、言葉には本来そのような治療効果が備わっているのです。
__

人間の精神は構成要素が多く複雑で、それだけに多くの人が何らかの欠落を抱えており、完全な人間や、ほぼ完全な人間は、極めて少ない。
だから人間でありながら「心が無い人」がいても、驚くに値しない。
「心が無い人」は特に犯罪者でもなく精神病患者でもなく、普通人に混じって普通に生活している。

「心が無い人」が普通に生活できるのは、世間ではまさか「心が無い人」が存在するとは思われておらず、誰からも見逃されてるのが一つの理由だ。
「心が無い人」本人も、まさか自分に「心が無い」とは思っておらず、人並みに「心が有る」と信じ込んでいる。

「心が無い人」にはいくつかのパターンが有るようだが、独特の「キョトンとした表情」も特徴の一つだ。
「心が無い人」は他人の心が理解できないため、こちらが何か心情を訴えても、意味が分からないのか独特のキョトンとした表情を見せることがある。

いやむしろ「心が無い人」はいついかなる時も他人の心が理解できないため、いつでも独特のキョトンとした表情をしているように見える。
あるいは特有の「困ったような薄ら笑い」を終始浮かべている人もいる。
いやパターンは様々だが「心が無い人」はリアクションに困っており、それが表情に現れている。

「心が無い人」は、心が無いが故にリアクションがおかしく、他人とズレている。
例えば、全く笑うべき場面ではないのに笑うのもパターンの一つで、自分に「心が無い」ことを他人にも自分にも隠すように、終始「無意味な笑顔」を絶やさない人がいる。

あるいは終始おどけた調子で、わざとらしく素っ頓狂なリアクションを人もいる。
これも「心が無い人」に特有のパターンで、「心が有る人」の真似をしているに過ぎない。
あるいは感情による自然なリアクションができないため「こういう場面では、こうリアクションすべき」と頭で理解し行動している。

「心が無い人」は、他人の情熱や真心を全く理解できないため、それらを平気で踏みにじる。
しかし彼らに悪気は全く無く、そもそも他人の感情を理解できる「心」が欠落してるために、こちらがいくら不平や怒りを訴えても、全く悪びれることもなく、反省もなく、取り合ってさえもらえない。

「心が無い人」は、聞いてるこちらが呆れるほど、ありきたりでステレオタイプな事を言う場合がある。
それは自分の「心」で物事の価値判断ができないため、世間に流布している価値判断を、そのままトレースしていると解釈できる。

世間に流布しているステレオタイプの価値観を、そのまま信じ込んで同調する人は大勢いる。
しかし、どんな価値観も信じる「心」がなく、それ故に世間に流布するステレオタイプの価値観を、表面的にトレースする「心が無い人」も、少なからず存在する。
前者と後者の違いは、微妙なリアクションの差に現れる。

「心が無い人」とそうでない人の差は、微妙な表情やリアクションの差となって現れる。
敏感な人はある種の違和感として察知し、時としてその事に思い悩む。
しかし大抵の場合、そのような微妙な差異は見過ごされている。

「心が無い人」は心が無いが故に「笑顔の絶えない人」や「ひょうきんな人」や「常識的な人」を演じており、多くの人はその演技に気づいていない。
それだけに彼らの「演技」に気づいてしまう人にとって、その「わけの分からなさ」がたまらなく不安であり、不愉快であり、まさに心が圧迫されるのだ。

「心が無い人」は恒常的にさまざまな嘘をつき続けるが、彼らは「心が無い」人が故に、「心が有る」フリをするために、嘘をつかざるを得ないのである。
従って、彼らを「嘘つき」という理由で、責める事はできない。

「心が無い人」が「正直」に振る舞うと、何に対しても全く無反応な人になる。
しかしそのように無反応な人は、社会生活を営めない。
逆に言えば社会は「心が無い人」に対し何らかの反応を強いる。
だから彼らは無理をして反応する振りをするのであり、同時に「無反応な素顔」も垣間見る事ができるのだ。

一般に嘘をつく事は悪い事であり、嘘つきは責められるべきだが、嘘をつかざるを得ない事情のある場合は、それを理解し許す必要がある。
「心が無い人」の問題はまさにそれであり、さらに「心が無い」という事自体も本人の責任ではなく、これを責める事はできない。

人間の精神は極めて多くの要素から複雑に構成されており、だからこそ「完全な人間」は概念でしかなく、誰もが何かを欠落させたまま生きている。
だから「心が無い人」がいてもおかしくないし、彼らを特別視して差別する必要もない。
「心が有る」ことは人間にとって必要条件でしかなく十分条件ではない。

さて、 「心が無い人」から「心とは何か?」の問題が浮上したが、「心」は恐らく《想像界》の産物である。
だから《想像界》の精神だけの人は、自分の「心」に振り回される。
同時に周囲の人も、コロコロ変わりゆくその人の「心」のあり様に、終始振り回される。

「心」が人間精神の《想像界》の産物だとすれば、それは実体のないイメージであり、移ろいやすく、他人の影響を受けやすい。
そんな「心」を調教しうまく飼い慣らすために《象徴界》の精神が存在する。
例えば安易な同情心はトラプルの元だが、《象徴界》でそれを律すれば「社会正義」にもなり得るのだ。

「心が無い人」がいるのと同時に「心だけの人」も世間には存在する。
「心だけの人」は同情して親切にしてくれる一方で、急に心変わりして冷たくなったりする。
「心だけの人」は自分の心のあり方を客観視できず、自分の「心変わり」も認識できない。

人間の「心の移り変わり」を律するのが《象徴界》の精神で、ありていに言えばモラルである。
モラルはあくまで「心」がベースになっており、「心」をより良く活かすためにモラルが存在する。
だから「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠いている。

ラカンが提唱した三界を、《想像界》=心の世界、《象徴界》=モラルの世界、とあえて日常語に置き換えてみる。
そして「心が無い人」は、心もモラルも否定し、その精神は第三の《現実界》に依拠している。
この《現実界》に当てはまる言葉を日常語から探ると、《現実界》=身体、がしっくりくる。

あえて言えば、人間の精神は「心」と「モラル」と「身体」の三要素からなっている。
「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠き、そして「身体としての精神」によってのみ生きている。

人間にとって最も動かし難い《現実》は、人間は人間である以前に「生物」だということだ。
生物はそれぞれの種に固有の「身体」を持つ。
動物の脳も身体であり、人間の精神のありかたは、「身体としての脳」のありかたに依拠している。

人間の精神は、「心」や「モラル」の存在以前に、「身体としての脳機能」の反映として存在する。
例えば1+1=2などの数学は、言語が違う人間同士でも理解できる。
これは人間の外部世界に数学的秩序が存在するためではなく、人間の脳機能に数学的秩序が存在するからである。

1+1=2というような数学的秩序が、人間にとって言語や文化を超えた、動かし難い《現実界》なのは、それは人間の「身体としての脳機能」という動かし難い《現実界》の反映だからである。
人間は器用に動く五本指の手や、直立歩行する二本の足など、種に固有の身体的特徴を持つ。
と同時に哺乳動物として、他の動物と共通する要素も備えている。
同じく「身体としての脳機能」も、人間に固有の要素と、他の動物と共通する要素を併せ持つ。

人間の精神が「心」「モラル」「身体」の三要素で成っているとすれば、例えばネコの精神は「心」と「モラル」を欠き、ネコ特有の「身体」としての精神があるのみである。
しかしもし、ネコの脳機能がアップし、人間並みに数学を理解し、言語を話せるようになったら、当然そのネコは人間として社会に受け入れられるだろう。
しかしそのネコは、言葉は理解できても「心が無い」ために人間の心も理解できない。

言葉が話せても「心が無い」ために人間の心に無反応なネコに対し、人間社会は無理にでもリアクションを強要する。
そこでネコは困った顔をしながらも、見よう見まねで微笑んだり、おどけて見せたり、彼なりに努力して社会に溶け込もうとする。

つまり「心が無い人」とは「リアクションに困ったネコ」なのであり、そう思うとそれなりに対処しながら、うまく共存できそうな気がしてくる。

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2012年5月18日 (金)

『みんなの森』のお話

昔々あるところに「みんなの森」という楽園があました。
そこでは、みんながみんなに紛れてひっそり安楽に暮らしていました。
しかしある時、ある若者が「みんなの村の掟」で禁じられている「智慧の実」を、好奇心に任せて食べてしまいました。

  すると若者は、急に自分が何の智慧も知識もない「丸裸」であることに気付きました。
そして恥ずかしくなって、本棚から本を取り出し、それで顔を隠してしまいました。そうしたら若者はみんなから浮き上がっしまい、みんなに紛れることができなくなり、とうとう「みんなの森」から荒野へと追放されてしまいました。

おしまい。

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同調圧力と生贄

相手がどんなタイプの人間か分かっていて、相手がどんなタイプのひどいことをしそうな人間なのか把握できているならば、その範囲でどんな酷い事をされても怒ったり傷つく事はない。
だからこそ、様々に異なる人間から同一のパターンを抽出し、分類し、レッテルを貼って整理する必要があるのだ。

人間の精神は極めて複雑な要素からなり、だからこそ人それぞれ驚くほど多様である。
しかしだからこそその一方で、一定数の極めて似通った赤の他人も存在する。
つまり、人間はお互い異なる要素と似通った要素が混在し、どこが違ってどこが同じかも人同士によって異なる。それが同じ人間同士での、悩みやトラブルの種になる。

人間はお互い異なる要素と似通った要素が混在し、それが人間関係を複雑にしトラブルを生み出す。
これを解消する一つの方法として、あらゆる差異を抑圧する「同調圧力」が存在する。
それは実のところ、同調圧力からはみ出す「生贄」の犠牲の上に成り立っている。

「同調圧力」のための「生贄」となることは、多くの人にとって最大の恐怖である。
だからそこからはみ出ないよう様々に画策し、全エネルギーを注いで努力し続ける。
だが一方で、自ら進んで「生贄」を買って出る人間も、必ず存在する。

なぜなら単なる犠牲は無意味だが、「生贄」には「社会を支える」という意味があるからだ。
それでソクラテスもキリストも命を落としたのであり、哲学者や宗教者のみならず、アーティストとは本来、そのように身を挺して社会を支える存在なのである。

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2012年5月13日 (日)

嫌いな人が好きになれるお経w

悪い世界をより良く変えようとして、にもかかわらず世界が変わらないならば、怒りが生じる。
しかし、どんなに悪いと思える世界も、よく観察して全てをありのままに受け入れるならば、それだけで世界は「良い世界」として認識され、怒りも生じない。

間違った考えを持つ他人を、良い方向に変えようと説得して、にもかかわらずその人が聞く耳を持たないならば、怒りが生じる。
だが、どんなに間違っていると思える他人も、よく観察して全てをありのままに受け入れるならば、それだけでその人は「好ましい人」と認識され、怒りも生じない。

孫子は『兵法』で、「戦いに勝つにはまず相手をよく認識することだ」と説いているが、相手をよく認識するほど争いの元は消えてゆくのであり、大抵の争いは相手をよく認識しないことによって起きる。

人は自分が嫌いな相手のことを知りたくもないと思っているが、嫌悪の感情は相手を知らないことによって起きる。
たとえどれだけ相手が愚かでも、愚かである理由を知って納得すれば、嫌悪の感情は消え失せ、好感に反転することもある。

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2012年5月 8日 (火)

創造的自殺と生ける屍

ロラン・バルトは「作者の死」という概念で「読者(観客)の創造性」を説いたが、実はこれは作者の問題でもあって、「創造的自殺」というのもある。
もちろん肉体的自殺は創造的ではないが、アーティストは精神的自殺でリフレッシュできるし、むしろ「現在の自分」にこだわり続けると、アーティストとして生ける屍となってしまうのだ。

実のところ、アーティストの、アーティストとしての寿命は短い。
アーティストが、アーティストとして生き生き活動できるのはせいぜい5年程度で、以降は次第に勢いが衰え、しまいには生ける屍、ゾンビアーティストになる。
これを防ぐには「創造的自殺」をして、全く新たなアーティストに生まれ変わるしかないのだ。

アーティストのみならず、優れた人間は「創造的自殺」を繰り返し、より優れた人間に生まれ変わり続ける。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
これに対し、多くのアーティストは「創造的自殺」によって生まれ変わるよりも、「現在の自分」を大切にし続け、ゾンビアーティストになることを望んでいる。
なぜなら「創造的自殺」は生きること以上の苦痛が伴い、そして生ける屍として存在し続けることは生きることより楽なのである。

「創造的自殺」によって「旧い自分」を完全に焼き尽くすと、「旧い自分」は背後霊となって自分を守り助けてくれる。
「創造的自殺」を繰り返すほど、より多くの「旧い自分」の背後霊達に守り助けられることになる。

しかし「創造的自殺」を拒否するアーティストは、そのうち自分自身が「生き霊」「生ける屍」になってしまうのだ。

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2012年5月 6日 (日)

自己治癒のための物語

ブッダ神々との対話』(岩波文庫)読了したが、これでまた「知恵遅れ」の状態から「普通の人」の状態に一歩近けたかもしれない。
知恵遅れといえば、ぼくが通っていた小学校は、知的障害児だけを集めた「10組」というクラスがあった。
そして今の日本国は、世界の他の国々から見て「10組」のようなものかもしれない。
もちろんぼくも「10組」のクラスメート一員で、しかし少しでも「普通学級の生徒」に近づこうとして、ぼくは仏典などを読んでるのだ。

その「10組」のことでぼくが聞いたところによると、ある大人が「10組」のある児童と仲良くなり、普通に話すと利口だし良い子なので意外に思っていたのだが、苦手な算数を教えようとすると普通の子供が理解できるようなことが全く理解できず「やっぱり普通の子供とは違うんだ」と思い直したそうだ。

しかし3.11をきっかけに判明したのだが、現代日本の「普通の大人」達は、普通に話していると利口で良い人なのだが、人として理解できて当然の《象徴界》の概念を全く理解できず、人として備えているべき《象徴界》の精神を欠いており、そこで「10組の児童」の話を思い出したのだった。

ここで言う《象徴界》とは、法を重んじ、理を重んじ、筋を重んじ、正義を重んじ、倫理を重んじ、義務を重んじ、覚悟を重んじ、もし自分がそれらから外れた場合には謝罪し、反省する精神のことである。
その《象徴界》の精神が多くの日本人には欠けており、「あなたにはそれが欠けている」と説明しても全く理解されないのだ。

《象徴界》の精神を欠いた人間で典型的なのは、例えば唐沢俊一である。
彼は他人のブログやウィキペディアの文章をコピペし、自分の原稿をでっち上げる「盗作」の常習者なのだが、それを他人から指摘されても謝罪せず、指摘の意味も理解できずに反省もせず、人としてトータルな機能の一部を欠いているように思える。

しかし3.11以降の世間の反応を見ているうちに、唐沢俊一は単に「目立っている」から攻撃の矢面に立っているだけで、実は日本人の多くが唐沢俊一と同じように、《象徴界》の精神を欠いていると、ぼくには思えるようになってしまった。
唐沢俊一は特殊事例ではなく「日本人の平均」であって、単にそれが目立ってしまっただけなのだ。

唐沢俊一が「日本人の平均」ならば、彼が盗作について謝罪も反省もしない態度は「正しい」。
その証拠に盗作発覚以降、彼の仕事が減りつつもなんだかんだでゼロにはならず、今年も新刊が出続けている。
日本は《象徴界》の裏切りに寛容な国であり、それは原発事故の責任者に対しても同様なのである。

現代の日本国そのものが、知的障害児学級の「10組」のようなものだとすれば、自分は少しでもマシになろうと哲学や宗教を学ぼうとするのだけど、それでも「普通学級」に編入されるのは不可能だろう。
それと同時に、同じ「10組」の不勉強なクラスメイトを嫌ったり軽蔑することはできない。

なぜなら 自分がいくら努力し望んだとしても「普通学級」に編入できない以上、同じ「10組」のクラスメイトと共に生きていかなければならず、そのような「同胞」を嫌ったり軽蔑したりすることは、《象徴界》の精神が許さないのであり、その事は仏教経典にも聖書にも明記されているのだ。

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2012年5月 3日 (木)

万能感と共同作業

自分一人で悩みを抱え込んでも、何も解決できずに悩み続けるだけである。
同じように、自分一人で仕事を抱え込んでも、はかどらないまま何もできずに終わってしまう。

自分の悩みは共同体の中でしか解決し得ないし、自分の仕事は共同体の中でしか遂行し得ない。
自分の事は他人の為だと思い、他人の事は自分の為だと思えば、どんな作業も捗る。
それが共同作業の、本来の利点だと言えるだろう。

この共同作業の利点を、スポイルする要因に「万能感」がある。
万能感のある人間は、悩み事も仕事も一人で抱え込み、何も解決せず達成もせず、万能「感」の中に閉じこもる。
万能感を克服した人間は、悩み事も仕事も他人と共有し、あらゆる事を解決し遂行する。

劣等「感」は、万能「感」の裏返しであり、どちらも《想像界》の産物の、単なるイメージにすぎない。(*注)
実際に優れている事と、実際に劣っている事は、ともに実際的には意味がない。
優れている事や、劣っている事に、特別の意味を見出すのは、優越感や劣等感など《想像界》の産物のイメージでしかない。

そもそも物事の優劣は、物事それ自体に具わっているのではなく、自分の「万能感」が作りだしたイメージに過ぎない。
物事の優劣にこだわる人は、自身が自分の「万能感」に縛られているのを知らない。
自分の中の「万能感」を野生のまま放置する人は、これに振り回されて「自分」というものを失っている。
誇り高い人は、自分の中の「万能感」を撃ち殺すことなく、上手く手懐けてコントロールする。

実のところ、自分の欠点を愛せない人に、物事の優劣は判断できない。
「劣った自分」を受け容れ愛する事が、物事の優劣を判断する「基準」となる。
「万能感」に支配された人は「劣った自分」を受け容れられず愛せず、物事の優劣を判断する「基準」を持たず、その為に常に間違える。

「万能感」に支配された人は、それが満たされないと「劣った自分」を憎悪し、劣等感にさいなまれる。
あるいは「劣った自分」を認めることなく、ひたすら他人を憎悪する。
そして自らの「万能感」が満たされたことの喜び(ナルシシズム)は、「万能感」が満たされない場合の憎悪と表裏一体であり、相殺されて無意味である。
従って「万能感」が克服されれば全ての憎悪は消滅し、ナルシシズムも消滅する。
__

*注
この箇所の補足説明だが、まず人間は、目に写る像が何であるか?という世界像を、「言語」を介して理解する。
人間は目でものを見るが、自分が見たものは何であるか?は言葉によってしか理解できない。
そして、言葉と言葉は互いに連鎖し合い「物語」を形成し、それがその人の「世界観」となる。
だから人間にとって、世界とは「物語」なのであり、同時に「世界=物語」ではないわけで、だからこの場合の「物語」とは「喩え話」なのである。
人間は「喩え話」を使って世界を認識するのであり、人間にとって世界は「喩え話」として存在する。
つまり「物事の優劣」もそんな「喩え話」の一つに過ぎず、だからこだわって振り回されたりするのは損なのだ。

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想像界と大霊界

《象徴界》の精神とは、良識、正義、道理、道徳、などに従う「正気」の精神だが、ふと油断すると《想像界》の精神に引き込まれることがある。
つまり《想像界》とは「引き込まれる場」なのであり、それは霊界や魑魅魍魎の世界が《想像界》の産物であることと符合する。
というよりも、《想像界》とは単に霊界や魑魅魍魎の世界だった、と言えるかも知れない。
つまり《象徴界》を欠いた、《想像界》の精神だけに生きる人は、生きながらにして霊界や魑魅魍魎の世界に取り込まれているのだ。

《象徴界》を欠いた、《想像界》の精神だけの人々にとって、この世は霊界と地続として捉えられる。
だから例えば「原発」という魑魅魍魎が火を噴き瘴気をばらまいたとしても、彼らは驚いたり恐れたりせず「糸崎さんは心配しすぎですよ」などと楽天的なのだ。
結局のところ、霊界も、魑魅魍魎も、地獄も、極楽も、全ては《想像界》の産物であり、その意味で全てはこの世に「実在」する。
全ての「この世ならざるもの」は、《想像界》の精神によって「この世」に投影された「実在物」なのである。

言い方をかえると、「想像の産物」は実在物ではないが、「《想像界》の産物」は実在物である。
なぜなら、日常的な意味での「現実」の全ては《想像界》の産物だからである。
つまり「現実」が実在するのと同じレベルで、「霊界」や「妖怪」や「悪霊」や「呪い」は実在する。
この話は《想像界》のみの精神の人には理解できない。

「妖怪」も「幽霊」も「悪霊」も「魑魅魍魎」も《想像界》の産物であり、だから「実在」する。
このような物の怪は外見上は人間と変わらず、遺伝子も人間と100%同じで、人間に混じって人間と同様の生活を送る。
しかしその精神は人間とは異なり《象徴界》を欠き《想像界》の世界にのみ生きている。

つまり「日本国」はSF小説『家畜人ヤプー』で蔑まされた「邪蛮国」そのものであり、《象徴界》を持つ人間によってではなく、《想像界》の精神に生きる「妖怪」や「幽霊」によって支配された、非文明的な三等国家に過ぎない。
そしてこれは、《象徴界》の精神にとっては、何ら悲観すべきことではなく、実に素晴らしいことなのである。
なぜならば、自分が初期仏典『ブッダのことば』で学んだことによると、《象徴界》の精神は、何事に対しても恨んだり憎んだりすることがなく、全てが慈しみの対象となる。
だから日本国の(広い意味での)支配者である、《想像界》の精神のみに生きる妖怪や幽霊どもも、愛情や慈しみや感謝の対象になるのだ。

そして、妖怪や幽霊や悪魔が《想像界》の精神の産物なのだとすれば、それは同じく《想像界》の精神の産物である「神々」に容易に転ずることができる。
つまり、《象徴界》の精神を欠き《想像界》の精神だけに生きる妖怪どもは、これすなわち「神々」なのであり、感謝と崇拝の対象となるのである。
世間にあふれる「平気でうそをつく人々」は、《象徴界》を欠いた《想像界》の精神のみの持ち主であり、だから他人の足を引っ張る「妖怪」であると同時に、《象徴界》の精神の成長を助けてくれる「神々」でもある。
この場合の「神々」とは「呪術の神様」であり、《想像界》の精神の産物である。

『ブッダの言葉』を読むと、「神々」や「夜叉」が登場し、人間と同様にブッダに対し教えを乞うている。
この話を「喩え」と捉えるならば、「神々」や「夜叉」は《想像界》の産物であり、そしてブッダ(が説く法=ダルマ)とは、《象徴界》の精神そのものなのである。
そして、ユダヤ、キリスト、イスラム教に共通の「唯一神」や、儒教の説く「天」も、同様に《象徴界》の精神の反映なのである。

《象徴界》の精神の持ち主は、《想像界》の産物である「呪術の神々」も、《象徴界》の産物である「唯一神」も、どちらも対象化し尊重する。
しかし《想像界》だけの精神の持ち主は、自分自身が「神々」なのであり、だから「私は宗教を信じない」と主張する。
人間は「神々」を対象化するが、「神々」それ自身は「神々」を対象化せず「私は宗教はインチキだ」と信じ込む。
そして少なくとも現代日本は、そのような「神々」であふれ、「神々」による「神々」の支配がなされている。

あらためて考えると、永井豪『デビルマン』で描かれる「デーモン」は《想像界》の精神をあらわし、だからデーモンは哺乳類、爬虫類、昆虫、植物など異質なものが合体している。
漫画『デビルマン』のクライマックスで、デーモンたちは人間たちに次々に合体する「攻撃」を行う。
その結果、各国の首脳が全てデーモンに成り代わってしまい、核ミサイルのスイッチが押されてしまう。
しかし、現実の日本では、首脳がとっくに「デーモン」になり代わっており、《想像界》だけの精神によって国内に原発を多数建造し、《想像界》だけの精神によって絶対安全だと信じ込み、《想像界》だけの運営管理によって事故を起こしてしまう・・・という漫画のようなことが起きているのだ。

3.11の原発事故は《象徴界》に対する裏切り行為だ、と言うこともできる。
「原発は絶対に事故を起こさない」と言い、「管理運営は徹底してます」と言い、それらの言葉=《象徴界》を、《想像界》だけの精神の持ち主はことごとく裏切ったのである。
《象徴界》に対する裏切りのうち、法に触れるものを「犯罪」と呼ぶが、《想像界》だけの精神の持ち主は、犯罪以外の《象徴界》に対する裏切りを、平然とやってのける。
《想像界》だけの精神の持ち主は、《象徴界》の精神を持つものにとっては、信じられないことを平然とやってのける。
これはひとえに、両者の「認識の違い」によるものである。

漫画『デビルマン』の主人公、不動明は、デーモンと戦うため自らデーモンと合体して「デビルマン」となる。
同じように《象徴界》の精神を持つ人間も、デーモンと合体した「デビルマン」となる必要があるのかも知れない。
そしてそれが、「大乗仏教」の智慧なのかも知れない。
つまり「大衆」から逃がれようとして、大衆を排除することはかえって逆効果で、むしろ自分自身が大衆と一体化し、大衆を救うことが有効なのである。

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