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2012年5月25日 (金)

「心が無い人」についての仮説

以下はあくまで仮説です。
実のところ「心が無い人」が本当に存在するか否かよりも、その言葉によってぼく自身が自己治癒できるかどうかが重要で、言葉には本来そのような治療効果が備わっているのです。
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人間の精神は構成要素が多く複雑で、それだけに多くの人が何らかの欠落を抱えており、完全な人間や、ほぼ完全な人間は、極めて少ない。
だから人間でありながら「心が無い人」がいても、驚くに値しない。
「心が無い人」は特に犯罪者でもなく精神病患者でもなく、普通人に混じって普通に生活している。

「心が無い人」が普通に生活できるのは、世間ではまさか「心が無い人」が存在するとは思われておらず、誰からも見逃されてるのが一つの理由だ。
「心が無い人」本人も、まさか自分に「心が無い」とは思っておらず、人並みに「心が有る」と信じ込んでいる。

「心が無い人」にはいくつかのパターンが有るようだが、独特の「キョトンとした表情」も特徴の一つだ。
「心が無い人」は他人の心が理解できないため、こちらが何か心情を訴えても、意味が分からないのか独特のキョトンとした表情を見せることがある。

いやむしろ「心が無い人」はいついかなる時も他人の心が理解できないため、いつでも独特のキョトンとした表情をしているように見える。
あるいは特有の「困ったような薄ら笑い」を終始浮かべている人もいる。
いやパターンは様々だが「心が無い人」はリアクションに困っており、それが表情に現れている。

「心が無い人」は、心が無いが故にリアクションがおかしく、他人とズレている。
例えば、全く笑うべき場面ではないのに笑うのもパターンの一つで、自分に「心が無い」ことを他人にも自分にも隠すように、終始「無意味な笑顔」を絶やさない人がいる。

あるいは終始おどけた調子で、わざとらしく素っ頓狂なリアクションを人もいる。
これも「心が無い人」に特有のパターンで、「心が有る人」の真似をしているに過ぎない。
あるいは感情による自然なリアクションができないため「こういう場面では、こうリアクションすべき」と頭で理解し行動している。

「心が無い人」は、他人の情熱や真心を全く理解できないため、それらを平気で踏みにじる。
しかし彼らに悪気は全く無く、そもそも他人の感情を理解できる「心」が欠落してるために、こちらがいくら不平や怒りを訴えても、全く悪びれることもなく、反省もなく、取り合ってさえもらえない。

「心が無い人」は、聞いてるこちらが呆れるほど、ありきたりでステレオタイプな事を言う場合がある。
それは自分の「心」で物事の価値判断ができないため、世間に流布している価値判断を、そのままトレースしていると解釈できる。

世間に流布しているステレオタイプの価値観を、そのまま信じ込んで同調する人は大勢いる。
しかし、どんな価値観も信じる「心」がなく、それ故に世間に流布するステレオタイプの価値観を、表面的にトレースする「心が無い人」も、少なからず存在する。
前者と後者の違いは、微妙なリアクションの差に現れる。

「心が無い人」とそうでない人の差は、微妙な表情やリアクションの差となって現れる。
敏感な人はある種の違和感として察知し、時としてその事に思い悩む。
しかし大抵の場合、そのような微妙な差異は見過ごされている。

「心が無い人」は心が無いが故に「笑顔の絶えない人」や「ひょうきんな人」や「常識的な人」を演じており、多くの人はその演技に気づいていない。
それだけに彼らの「演技」に気づいてしまう人にとって、その「わけの分からなさ」がたまらなく不安であり、不愉快であり、まさに心が圧迫されるのだ。

「心が無い人」は恒常的にさまざまな嘘をつき続けるが、彼らは「心が無い」人が故に、「心が有る」フリをするために、嘘をつかざるを得ないのである。
従って、彼らを「嘘つき」という理由で、責める事はできない。

「心が無い人」が「正直」に振る舞うと、何に対しても全く無反応な人になる。
しかしそのように無反応な人は、社会生活を営めない。
逆に言えば社会は「心が無い人」に対し何らかの反応を強いる。
だから彼らは無理をして反応する振りをするのであり、同時に「無反応な素顔」も垣間見る事ができるのだ。

一般に嘘をつく事は悪い事であり、嘘つきは責められるべきだが、嘘をつかざるを得ない事情のある場合は、それを理解し許す必要がある。
「心が無い人」の問題はまさにそれであり、さらに「心が無い」という事自体も本人の責任ではなく、これを責める事はできない。

人間の精神は極めて多くの要素から複雑に構成されており、だからこそ「完全な人間」は概念でしかなく、誰もが何かを欠落させたまま生きている。
だから「心が無い人」がいてもおかしくないし、彼らを特別視して差別する必要もない。
「心が有る」ことは人間にとって必要条件でしかなく十分条件ではない。

さて、 「心が無い人」から「心とは何か?」の問題が浮上したが、「心」は恐らく《想像界》の産物である。
だから《想像界》の精神だけの人は、自分の「心」に振り回される。
同時に周囲の人も、コロコロ変わりゆくその人の「心」のあり様に、終始振り回される。

「心」が人間精神の《想像界》の産物だとすれば、それは実体のないイメージであり、移ろいやすく、他人の影響を受けやすい。
そんな「心」を調教しうまく飼い慣らすために《象徴界》の精神が存在する。
例えば安易な同情心はトラプルの元だが、《象徴界》でそれを律すれば「社会正義」にもなり得るのだ。

「心が無い人」がいるのと同時に「心だけの人」も世間には存在する。
「心だけの人」は同情して親切にしてくれる一方で、急に心変わりして冷たくなったりする。
「心だけの人」は自分の心のあり方を客観視できず、自分の「心変わり」も認識できない。

人間の「心の移り変わり」を律するのが《象徴界》の精神で、ありていに言えばモラルである。
モラルはあくまで「心」がベースになっており、「心」をより良く活かすためにモラルが存在する。
だから「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠いている。

ラカンが提唱した三界を、《想像界》=心の世界、《象徴界》=モラルの世界、とあえて日常語に置き換えてみる。
そして「心が無い人」は、心もモラルも否定し、その精神は第三の《現実界》に依拠している。
この《現実界》に当てはまる言葉を日常語から探ると、《現実界》=身体、がしっくりくる。

あえて言えば、人間の精神は「心」と「モラル」と「身体」の三要素からなっている。
「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠き、そして「身体としての精神」によってのみ生きている。

人間にとって最も動かし難い《現実》は、人間は人間である以前に「生物」だということだ。
生物はそれぞれの種に固有の「身体」を持つ。
動物の脳も身体であり、人間の精神のありかたは、「身体としての脳」のありかたに依拠している。

人間の精神は、「心」や「モラル」の存在以前に、「身体としての脳機能」の反映として存在する。
例えば1+1=2などの数学は、言語が違う人間同士でも理解できる。
これは人間の外部世界に数学的秩序が存在するためではなく、人間の脳機能に数学的秩序が存在するからである。

1+1=2というような数学的秩序が、人間にとって言語や文化を超えた、動かし難い《現実界》なのは、それは人間の「身体としての脳機能」という動かし難い《現実界》の反映だからである。
人間は器用に動く五本指の手や、直立歩行する二本の足など、種に固有の身体的特徴を持つ。
と同時に哺乳動物として、他の動物と共通する要素も備えている。
同じく「身体としての脳機能」も、人間に固有の要素と、他の動物と共通する要素を併せ持つ。

人間の精神が「心」「モラル」「身体」の三要素で成っているとすれば、例えばネコの精神は「心」と「モラル」を欠き、ネコ特有の「身体」としての精神があるのみである。
しかしもし、ネコの脳機能がアップし、人間並みに数学を理解し、言語を話せるようになったら、当然そのネコは人間として社会に受け入れられるだろう。
しかしそのネコは、言葉は理解できても「心が無い」ために人間の心も理解できない。

言葉が話せても「心が無い」ために人間の心に無反応なネコに対し、人間社会は無理にでもリアクションを強要する。
そこでネコは困った顔をしながらも、見よう見まねで微笑んだり、おどけて見せたり、彼なりに努力して社会に溶け込もうとする。

つまり「心が無い人」とは「リアクションに困ったネコ」なのであり、そう思うとそれなりに対処しながら、うまく共存できそうな気がしてくる。

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

人間の深みとかを感じるのも理屈じゃないという気がします。

投稿: 吉沢アキラ@能力開発 | 2012年6月 5日 (火) 05時21分

コメントありがとうございます。

>人間の深みとかを感じるのも理屈じゃないという気がします。

実はこの記事を書いた後に『老子』を読んで、『老子と意訳』という記事を書いたのですが、
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-4b7a.html
それを踏まえると、この記事も反省すべき点があります。
例えば以下の箇所ですが、

>ラカンが提唱した三界を、《想像界》=心の世界、《象徴界》=モラルの世界、とあえて日常語に置き換えてみる。

とこんなふうに、ある言語を他の言語に置き換えて説明したらダメなんですね。
だから「理屈じゃない」と言われるのはごもっともだと思います。

>つまり「心が無い人」とは「リアクションに困ったネコ」なのであり、

しかしこういう記述は「感じ」なのであって、今読んでもいい線行ってるのではないかと思いますw


投稿: 糸崎公朗 | 2012年6月 6日 (水) 09時25分

心がない人の自覚が少しあります。でも、魂は?魂はきっとあるので苦悩があります。へこたれるのは簡単だけど、地道に努力するしかないようです。

投稿: のりこ | 2014年12月22日 (月) 22時14分

古い記事にもかかわらず、コメントを頂きありがとうございます。
自覚があり、悩みがある人は、心はあるのだと思います。
これを書いた当時は、言葉通じても話が通じないというか、感覚的な事柄がことごとくズレていて、全くこの人には心がないのでは?と思える人が身近にいて、何とも煮え切らない気持ちでいたのでした。

投稿: 糸崎公朗 | 2014年12月23日 (火) 01時26分


心ここにあらず

とよく言われた過去があり、リアクションをたくさんとるようにしました。話も集中して笑顔で聞き相づちもうつようにしました。相手の気持ちにこころをすり寄せる努力をしてました。

その結果
心が無い
本音が見えない
と言われどうすればいいのかまったくわかりません>_<

心は有るつもりなのですが、ここにある心が無い人の特徴と合致しており、怖くなり悲しくなりました

投稿: ゆう | 2015年3月29日 (日) 09時58分

コメントありがとうございます。
ずいぶん昔の記事で、今読み返すと我ながらいろいろ問題があって不十分だと反省させられますが…

今言えるのは、「心」というか「自分」と言うものは、自分で作り上げるものである事です。
産まれたばかりの赤ん坊には「自分」がなく、大人に近づくたびに確固たる「自分」を育ててゆく。
つまり「自分」なるものは元々自分の内に無いもので、人工的に作り上げなければならない。
だからこそ、大人になってからも、確固たる「自分」が確立できない人も存在しうるのです。
有り体に言えば、誰にでも「自分」はあるはずですが、例えば自分の意見がなく、常に周囲に合わせるような人は、日本人には多いのですね。

「自分の心」は一体何で出来ているか?と言えば、それは本質的には空っぽで、その空間は様々な「他人の心」で、言い換えると様々な「他人の言葉」で埋められています。
心とは、人間の場合は言葉の網の目の産物だからです。
言葉は「文脈」を形成し、つまり確固たる「自分」を持った人は、「文脈」がしっかりしていると、言い換えられるかもしれません。
いくらたくさんの言葉を寄せ集めても「文脈」が形成できない人は「自分」がなく、他人の文脈にその都度乗り移ったりして、一貫性がありません。
そういう人は「心がない」と見ることができるかもしれません。
文脈がない人が、例えば人が悲しんでいるときに、その文脈が理解できず同情できないのです。

文脈を身に付けるには学習が必要で、読書はその有効な手段で、私もなんとかそれを実行して、ブログを書いたりしてるのです。


投稿: 糸崎公朗 | 2015年3月29日 (日) 16時53分

「孤独な人の心象を風景として描いてください」と言われた時、私は真っ黒で真っ暗な深闇を描きます。
「孤独な人の心象を想像してください」と言われた時、みなさんはきっと「自分独りの感覚」と「自分しかいない孤独」を感じるのではないでしょうか。
私は「誰もいない感覚」を憶えます。「自分さえいない」感覚。孤独さえない空虚で絶無なからっぽを感じます。
「あなたの心の中には、あなた以外で誰がいますか?」と言われれば、私は「誰も居ません」と答えます。
真実、誰も。
私の中には、私さえいない。
心は「在る」のだと思います。でもそれは、物と物の隙間に出来る空白のように「在る」だけ。
それを心と認識してる私は、同時にこう思うわけです。
「すべてを否定して拒絶したい」と。
「何か」が「在る」ことに我慢が出来ない。
「何か」が「在る」ことで私の心は存在出来るけど、
「何か」が「在る」ゆえに「私」が居るのだと認識すると、我慢ならない。
この在り方は屹度人として、動物として、何より生物としての徹底的な致命傷なんでしょう。
この傷の痛みで私は存在出来るけど、この傷の痛みのせいで私は私に我慢することが出来ない。
この傷が私を私足らしめる鍵だけど、私はまるで死神に踊らされる滑稽な道化そのもので。
私は、私を否定して拒絶したくなくなる。
これもひとえに、「心が無い」からでしょうか?

投稿: だれもいない | 2015年7月31日 (金) 22時25分

コメントありがとうございます。

ずいぶん昔の記事で、こんなこと自分で書いたかな?と思ってしまいますが、度々コメントが付くという、不思議な記事です。

心とは、無条件に「ある」ものではなく、人工的に「つくる」ものだと今の私は思っています。

生まれたばかりの赤ん坊には、心も「私」という確固としたものもありませんが、成長するに従いそれを作り上げるわけです。

ということは、なんらかの原因で、心というものをちゃんとした形に形成しそびれてしまった大人も、存在するはずだと言えます。

一つには、現代は情報過多の時代で、心を成形する為には何が必要か?が見失われてることです。

端的に言えば、昔の人が書いた書物の方が、人間にとって何が必要なのか?の基本が端的に書かれているのです。

私としては、心の問題で悩む人は、初期仏典『ブッダの言葉』や、古代ギリシャの『ソクラテスの弁明』、諸子百家の『老師』、そして旧約、新約の聖書を読むことをお勧めします。

こうした貴重な書物は、いずれ文庫本で簡単に入手できます。
内容も、平易でわかりやすいです。(奥が深いですが)

しかし情報過多の時代では、一方ではこうした古典の重要性が忘れられ、それが一つの原因となって、心の成長が阻害されてしまうのです。

例えば、私は新約聖書を最近になって再読しています。

キリストを捕まえて、ひどい拷問をし、十字架に架けようとする人々に対し、キリストは「神よ彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか、分かっていないのです。」という祈りを捧げます。

これはまさに、「心がある」とか「心がない」といった問題に、結びつけて考えまた感じることのできる箇所ではないかと思います。

投稿: 糸崎公朗 | 2015年8月 1日 (土) 09時18分

心は在るのだと思います。
でもそれを人が心と認識するかどうかは別でしょう。
物と物の隙間に出来た空白を物体と捉えることのない人達の観念では、私は心が無い人間も同然なのだと思います。
でも私には感情がある。感動がある。衝動がある。表情がある。
誰でもない私自身の心は、確かに在る。
無為ではあれど、無為は無為なりに、そういった機微を持ってるんです。
この虚が私自身で、この無が私の本性だとしても。
たとえ私が誰をも愛せない人間だとしても。
私には、心は在ります。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 06時13分

返信遅れまして申し訳ありません。

そういえば、私はアーティストではありますが、「絵が描けない」という思いに囚われているのです。

白紙の紙を渡され「なんでも良いから好きなものを描いて下さい」と言われても、アタマが真っ白で何も思い浮かばず、何も描くことが出来ません。

ですので私は絵の道をあきらめ、写真家に転向した経緯があります。

絵画が人の心の反映だとするならば、「絵が描けない」自分は「心がない」と言えるかも知れません。

自分に心がなくて、絵が描けないから、自分の心の外にあるものを写真に撮るようになったと、考えることも出来るのです。

自分の心の外にあって、カメラを向けてシャッターを切ると、そこには「もの」が写ります。

結局のところ私は自分自身の「心がない=絵が描けない」という問題から逃げて、「心の表現=芸術」から目を背け、「もの」に向かうことで逃避してきたのかも知れません。

そして「もの」とは何かと言えば、人の心のないところに生じるものだと考えられます。

例えばカメラや自動車を初めとする機械は、人間の心と言うよりは「技術」の産物であって、だから「もの」であると言えるのです。

心が無い人であっても「もの」の良し悪しは分かりますが、「心の反映=芸術」の良し悪しは理解できません。

いや心が無い人は、心の反映であるはずの芸術を、「もの」としての良し悪しでしか判断できないのです。

私にとって芸術とは、ある種の「わからなさ」として存在していたのですが、私自身も「心」というものを人工的に作り上げなければ、本当の意味での芸術は理解できないのかも知れません。

投稿: 糸崎 | 2015年8月 6日 (木) 02時44分

すみません、訂正です。

○何かにカメラを向けてシャッターを切ると、自分の心の外に存在する「もの」が写ります。

×自分の心の外にあって、カメラを向けてシャッターを切ると、そこには「もの」が写ります。

投稿: 糸崎公朗 | 2015年8月 6日 (木) 09時00分

普通の人間には心の無さを感じる心があるのだと思います。
心のない人間にはそれを感じる心もないのでしょうか?

投稿: K | 2015年10月14日 (水) 19時51分

お返事が大変に遅れまして申し訳ありません。
ここで言う「心の無い人」はけっこう鈍いですが、いっぽうでは自分に「心が無い」ことを指摘される言動をされたりすると、かなり怯えます。

投稿: 糸崎公朗 | 2016年2月19日 (金) 09時27分

心がない。まるで東野幸治さんみたいですね。ユーチューブで見れますよ、心がない男東野幸治。めっちゃ笑えます。それはよいのですが、私も「君には心がない」と本性を見抜かれたことがあります。無感動、無関心な性格です。でも人の悪口は言いませんし、誰かを嫌うこともありません。基本的に誰にも優しいです。人間関係は簡単に切れます。昔の人々に会いたいとは思いません。一人でも平気です。初対面でやけに存在を無視されることが度々です。子供や女性に特に。本能で見抜くんでしょうね。

投稿: あ | 2016年12月 8日 (木) 22時51分

すいません「心が無い人」です、別に「大事に至る」問題は大して起こしてません。
「心だけの人」はパターンとして結構居ますし、それなり以上の地位が有れば大迷惑です。
一方で私も含めて「心の無い人」は掃いて捨てるほど居ます、というより「心」の定義と各種要素の数値化をして貰わないと判りません。
そして「心」は無くても「感情」は生理的反応やプログラムの一種なので普通に有ります。
逆に「完璧な豊かな心」の持ち主の行動原理が実に不安で気持ちが悪いです、有意的な差異の認められない二つの別の対象に対して一方には非常に同情的かつ献身的に接し、一方には激しい嫌悪と冷酷残忍な態度を取ります。
「心の無い人」を世間ではサイコパス呼ばわりして忌み嫌い異物として排除しようとしますが、実際のところ「完璧な豊かな心」の持ち主同士が互いの存在を排除しようと傷つけあうケースの方が遥に多いように見受けられます。
これが身体的な影響なら「虫の居所が悪い」で理解出来ますが「絶対的完璧な心」の行動は幾ら観察しても原因が判りません。
ちなみに椎間板が一つ潰れて無いのですがヘルニアほど痛くないので助かってます、「心が痛む」人は非常に凶暴で攻撃的になりますが、まぁそういう風なもんだと解釈してます。「心が無い」と言いましたが「心」ってそんな単純に「一個」だけのものですかね?海馬の機能なら要素と数値化から機械で再現出来る筈ですが擬似的にも再現できてるのは取り敢えずは「感情」だけです。
共感という入力と感情という出力を複数のタスク制御で構成されるシステムが「心」であるなら私にもその出来損ないの「心」がある訳で、こうなると動物どころか植物や機械にも心らしきものが有ることになります。
さて「唯一絶対完璧な豊かな心」というタスクに対して私なりに考察したら…「他人の思いを踏みにじる」頻度は「心の無い人」より酷くなると思います。自己の「心」の中の別のタスクを他人の中の「心」に見つけた場合自分の「心」の中の自分の「唯一絶対完璧な豊かな心」の優位性と存在その物が脅かされる危険が生じるので自己保存欲求から他人を物理的に粉砕したいと考えるほどの激しい憎悪が生じることが予想できます。
「立派な心の持ち主」は「心無い人」より寧ろ「心から分かり合える人」と些細な見解の相違から激しく嫌悪するんじゃないですかね?
芸術家どうしの大喧嘩や宗教戦争を見てると近いほど、愛が有るほど憎しみ合ってる。

投稿: mars | 2020年2月 2日 (日) 01時59分

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