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2012年6月

2012年6月19日 (火)

才能も無ければ美術家でも無かった

6月13日の『勉強と才能』という記事で、「才能が無いという欠落感のお陰でアーティストになれた」と言うように書いたが、ふと寝しなにとんでもないことに気付いてしまった。
ぼくは自分のことをアーティスト=美術家だと思っていたのだが、あらためて考えるとそれは勘違いの思い込みに過ぎなかった!

ぼくは「写真家・美術家」の肩書きを名乗っているが、それは自分自身が美術家ではないことを、無自覚的に認めていることの証拠なのだった。
それは写真家も同じであって、実のところぼくは写真家でも美術家でもない「何でもない人」に過ぎず、ただそのようなフリをしていたに過ぎなかったのだ。

いや、世間的に見ればぼくは「写真家・美術家」であり、その肩書きに相応しい活動をしていると思えるのかも知れない。
しかしそれは周りにそう思われて、自分もそう信じていただけのことで、実のところその「本質」を欠いていた。
と言うことを今更ながらに気付いたのだった。

美術家としての本質を欠きながら、どうしてこれまでアートコンペで賞を貰ったり、美術館で個展やグループ展が出来たり、作品集が出版できたのか?
と言えば、これがまさに「アートバブル」なのである。
いやぼくは金銭的にあまり儲けておらず、このバブルは「本質のバブル」と言えるものだ。

ぼくがこれまで「美術家」として評価され、それなりの活動の場を与えられてきたのは、実のところ「たまたま運が良かった」だけに過ぎないのだった。
「才能が無い」と失意のそこにあった自分が「超芸術トマソン」に出会いそれに夢中になれたのも、たまたま運が良かっただけに過ぎない。

超芸術トマソンの記録写真が、デビット・ホックニー影響を受けて「ツギラマ」になり、ツギラマがさらに立体に発展して「フォトモ」になり、それが世間で受けるようになったのも、たまたま運が良かっただけに過ぎない。
超芸術トマソンに始まる路上観察的な視点が、子供のころ熱中した昆虫観察の視点と融合して、そこからまた自分独自の写真表現が生じたのも、たまたま運が良かっただけに過ぎない。

つまりぼくは先日「自分には才能が無いと思っていたが、逆説的に才能はあった」というように書いたが、よく考えると、その才能が良い方向に働いたことも含め、全ては「たまたま運が良かっただけ」に過ぎず、美術家としての本質を欠いた「アートバブル」に過ぎなかった。

ぼくのように「美術家としての本質」を欠いた人間が、たまたま運が良かっただけで「美術家」になれてしまう現象が、ここで言う「アートバブル」だ。
若者ならではの勢いと直感が運気と結びつき、才能と実力が泡のように膨張する。
しかしそれはまさにバブルでしかなく、経済と同じくやがて破綻を迎える。

ぼくがふと気付いたのは「美術家は美術作品というモノを作る人のはずが、ぼくはモノとしての美術作品に、あまりに執着がなさ過ぎる」と言うことだ。
実のところぼくのフォトモ作品は紙製であり、しかも基本的には手のひらサイズの小品で、モノでありながらモノとしての存在を最小限に留めている。

もちろん、モノとしての美術作品は大きくて重ければ良いわけではないが、紙製のフォトモは経年変化に耐えられない。
それは後の時代の評価が得られないことを意味し、美術作品としては重大な欠点である。
だからフォトモは作品売買の対象にはならず、専ら「イベントとしての美術展」の出し物に使われたのだった。

いや、ぼく自身もフォトモが紙製であることの欠点を意識していた。
だからぼくはフォトモに永続性を持たせるため、フォトモを「本」として出版したのだ。
フォトモのパーツをバラバラにレイアウトしたペーパークラフトの本を出版すれば、「本の形式」において永続性を持たせることは出来るだろう。

ぼくが「非人称芸術」のコンセプトを打ち出しこれに固執したのも、紙製のフォトモ作品に永続性が無いことを、意識してのことだった。
赤瀬川原平の「超芸術トマソン」も、マルセル・デュシャンの「レディ・メイド」も、作品無くしてコンセプトだけが語り継がれ、「非人称芸術」もそのつもりだったのだ。

しかし、あらためてデュシャン関連の本をあれこれ読んでみると、デュシャンはレディ・メイドだけの人ではなく、一方では「モノとしての作品」に非常にこだわる人でもあったのだ。
むしろレディ・メイドのコンセプトは、作品としてのモノにこだわる姿勢に、裏打ちされていると言えるかもしれない。

いやそもそも、デュシャンについて実作品を見ずに、図版を見て本を読んだ知識だけで語ろうとする態度が「美術家としての本質」を欠いている。
本当の美術家であれば、まず実作品を見なければ何を語っても無意味だと「直感」するはずで、それがないのは「モノとしての作品」を軽んじてる証拠である。

では、赤瀬川原平さんはどうかと言えば、「読売アンデパンダン展」などを経て「千円札裁判」までは確かに美術家だったが、その後小説家に転身し、「超芸術トマソン」は美術とサブカルとの中間であって、現在は完全にサブカルチャーの人になった感がある。

そのような転身が、赤瀬川さんの特質と言えるが、いかにユニークな経歴であろうとも、美術家として生を全うする人ではないのは確かだ。
だから、赤瀬川さんの提唱する「超芸術トマソン」を根拠に、新たな芸術の概念を構築することには無理がある。
それは芸術の「本質」を貫く道からは外れている、と言わざるを得ない。

そもそもぼく自身も、子供の頃から美術は好きだったけど、漫画やアニメや特撮などのサブカルも大好きだったのだ。
だからぼくは純粋に美術が好きだったのではなく、それどころか美術とサブカルとを混同して捉えてた。

世間でも、つげ義春の漫画『ねじ式』が芸術だと評価されたあたりから、芸術とサブカルが融合しはじめたと言えるかもしれない。
そして偉そうにしながら旧態依然とした芸術より、サブカル化した芸術は親しみやすく、新しく思えた。
その流れに「超芸術トマソン」もあったように思える。

つまりぼくが「超芸術トマソン」に惹かれ、それを発展させた「非人称芸術」を提唱したのは、偉そうにするだけで旧態依然とした芸術のあり方に対する反発であり、だからこそ「新しい」と思ったのだ。
しかし改めて考えると、この態度はちょっとおかしい。

「偉そうにしてる旧態依然の芸術」を否定し、「偉そうにしないサブカル化した芸術」こそが新しいとする態度は、結局のところ「偉そうにする」という相手の態度に惑わされているに過ぎない。

例えば、ぼくは自分の「才能の無さ」をカバーするためには、美術以外の分野である思想や哲学や宗教を学ぶことが必要であると、理解していた。
しかし実際ぼくが読んだのは「入門書」や「解説書」ばかりで、これらは偉そうでなく、分かりやすく書かれており「偉くない」自分にも理解できる。

しかしこの態度も、逆に言えば自分を「偉くない」と決めてかかっており、また「難しい原著や専門書は自分には読めない」と決めてかかっており、結局は学問の「偉そうにする」偽りの態度に惑わされているのだ。

しかし最近になって、プラトンの哲学書や、原始仏典や、論語や老子などを、原著(日本語訳)で読むようになり、それらは決して歯が立たないほど難解ではなく、しかも入門書や解説書とは全く異なる次元の「重み」や「圧縮」があり、現代人にとっても非常にためになる事が、理解できたのだった。

哲学や宗教の古典は、現代日本人が読んでも生きる上での重要な糧となる、その意味での普遍性が記されている。
これに対し、それらを平易な言葉に置き換えた入門書は、意味が限定的で薄っぺらで、原著の多義性や深みが抜けている。
原著が「ちゃんとした食事」なら、入門書はいわば「お菓子」に過ぎない。

時にはお菓子を食べることも必要だが、お菓子ばかり食べてると栄養が偏る。
しかしいわゆる「ちゃんとした食事」を「偉そうにしている」として非難し、人々から遠ざけているのが、思想や哲学など学問の世界だと言える。
そして同じことが芸術にも当てはまるのだ。

結局ぼくは、「偉そうにしない」思想や哲学の入門書を読んで、「偉そうにしない」からこそ新しい(と信じられる)サブカル化した芸術の最先端にいるつもりだったのだ。
しかし先の例に合わせて考えると、それは「ちゃんとした食事」を遠ざけ「お菓子」ばかり食べる態度であって「本質」から外れている。

サブカル化した芸術は自らを「偉くない」と規定し、結局のところ「腰が引けている」。
だから外見だけ取り繕ったつもりで良しとして、内実が空虚で、その意味でも「アートバブル」なのである。
そして運気に乗って勢い良く開花し、程無くして失速し、最後は泡と消えるのだ。

ぼくは自分が「美術家でなかった」事を発見し、落胆よりもむしろ喜んでいる。
それは老子が「器は空洞があってこそ用をなす」と説くように、自分に必要な「欠落感」なのであり、逆説的に美術家としての自分に必要なものだったのだ。

もし自分が「器を満たす」事を目指して芸術の探求をしていたなら、器が満たされた時点でその活動は終わってしまう。
サブカル化した芸術を「新しい芸術」と取り違え、その思いに満たされて終わるのだ。

しかしその「満たされた器」の内実が、実態の無い「アートバブル」であったと気付いた時、つまり自分がそもそも「美術家では無かった」と気付いた時、そこから初めて「芸術とは何か?」の探求を始める事ができる。

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2012年6月16日 (土)

劣等感と欠落感

2012年5月 3日 (木)『万能感と共同作業』の記事に、なつさんからコメントをいただいたので、新たな記事を書いてお応えします。

 確かに、『独りで作業を処理することは、往々にして信頼し得る仲間と友に作業を処理することに対して、とても効率が良くない』、と私も思います。

 仰られたことを私なりに噛み砕くならば、
『集団欲を満たしてくれる』、更にはもしかすると『自分を受け入れてもらえる』、そんな快の『感情・期待・認識』を抱きつつ仕事を行うならば、きっと内容が捗るでしょう。

 理想を実現することに対する喜び(つまり達成感)は実に心地よいです。
 ただ、感情に飲まれ己を見失ってしまうと、ろくなことはありませんね。

 今という瞬間に得られる感情を大事にすることは、生きる上で大切だと思います。
 それと同時に、自らを省みて【どのように生きることを良しとするか?】、その基準作りはこの上なく大切だ、とも思います。

 他人には他人の考え方があることを踏まえた上で、自分自身の(世界から学習した)基準・信念を踏まえて適切に行動を示す。
 そういった思考の際の観点の再確認を行えば、自分を含めたより広い範囲の人間をより深く容認・承認することによって、愛していくことが楽になるのではないでしょうか?

投稿: なつ | 2012年6月14日 (木) 17時06分


過去に遡ってコメントしていただいて、ありがとうございます。
一月ちょっと前の投稿ですが、あらためて読み返すと、自分は何でこんな文を書いたのか?ほとんど思い出せなくて我ながら呆れてしまいますw

しかも文意が分かりにくく、この人(過去の自分)が何を言いたいのか、一読しただけではよく分かりませんw
しかし、何度か読み返して分かるのは(ブログの文章が雑だと言うことはともかくとして)この一月の間にもぼく自身が変化して、それで文意が読み取りにくくなっていたことです。

特に、「劣等感」に対するスタンスが、一月前と現在の自分では全く変わっています。
端的に言えば、6月13日の投稿『勉強と才能』にあるように、今のぼくは「劣等感」を肯定的に捉えるようになりました。
つまり、ぼくには「才能が無い」という強烈な劣等感が昔からあったのですが、それを通して「才能」というものを対象化し、そのお陰で現在のアーティストとしての自分があったことに、あらためて気付いたのです

この他、最近、フェイスブックを通して自然写真家の武田晋一さんとやりとりしたのですが、彼が「自分は他人からはマメだと思われるけど、実は極めつけの横着者で、だから工夫や努力をしている」というように書かれて、ナルホドと思いました。
つまり「自分は横着者だ」という欠落感がなければマメにはなれないのです。
対してぼくは、他人から「あんたは横着者だ」と言われて自分にその意識がないのです。

また、同じくフェイスブックでアイドルカメラマンの山岸伸さんが「自分はゴルフに向いてない、だって悔しくないから」と言うように書かれていました。
これも同じことで「悔しい」と思う欠落感がなければ、ゴルフは上達しないし向いていないのです(もちろん写真の技術も同じ)。

いや、今「劣等感」という言葉を「欠落感」と言い換えて使いましたが、この両者は微妙に違います。
あらためて考えると、「劣等感」は自分が劣っていることに悩み、その悩みと自分が同化してしまって、どうしようもない状態を指すのではないかと思います。

これに対し「欠落感」は、自分にある種の欠落した要素があることを自覚し、その欠落した要素を対象化している状態、と言えるかも知れません。
そして人は専ら、この「欠落感」によって前進できるのだ、と最近のぼくは思うようになったのです。

仏教は「空」の概念を重視しますが、それはこの「欠落感」に通じるような気もします。
また老子には「器には無の空間が空いているからこそ、器としての用をなす」というように書かれています。
ラカンの原著も無理して読んでみると、ほとんど意味が分からないのですが、しかし「実現し得ないこと、到達し得ないこと」などについて、延々と語られているように思えます。

普通の感覚では、幸福とは「満ち足りること」なのですが、しかしそれは完成型でありゴールであり、人としての成長はそこで止まります。
もちろん、安定した幸福そのものは悪いものとして否定することは出来ません。
しかし少なくともぼくの場合は、常に欠落感を持って前進し続けなければ、アーティストとしての自分は保てないだろうと、思うようになったのです。

というわけで、前置きが長くなりましたが、なつさんのコメントにお応えすると、共同作業の利点はあるとしても「自分には協調性がない」という欠落感がなければ、長続きせず失敗するだろう思います。
あるいは、協調性に必要なさまざまな特質についての欠落感、と言い換えても良いかも知れません。
いずれにしろ、ぼくは過去にも「非ユークリッド写真連盟」や「世界の自然観察BBS」などの共同作業による創造を試みており、いずれもある程度は成功したものの、ある時点で続かなくなって止めざるを得ませんでした。

特にネット上での活動は、多くの人に迷惑が及んでしまい、今でも非常に申し訳なく思っています。
しかしそのように反省したつもりでいながらも、実は「自分には協調性がない」と言う意識があまり無かったことに、あらためて気付くのです。
もちろん、失敗の原因の全てが「自分の協調性の無さ」ではないにしろ、その欠落感が無いのであれば、この先も何度も同じ失敗を繰り返すだろうと思います。
なつさんは今回のコメントで、ぼくのそのような「欠落感の無さ」を指摘されたのかも知れませんし、少なくともぼく自身、自分の文章を読み返してそう思った次第です。

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2012年6月13日 (水)

勉強と才能

他人に非難されるのは実は大好きなのだが、飲み会の席でしつこくそれをされると激昂しそうになる…という事を先日発見したので、これからは気をつけなければならないw
もちろん実際に激昂することなく、今は何とも思ってないですが…
いやそもそも「しつこい」と感じたのは酔った自分の主観でしか無く、友人たちはただ自分にとっての当たり前のことを述べていたに過ぎないのだった。

と言うわけで、先日は写真家の友人たちと飲んだのだが、そこで「最近の糸崎さんは本の読みすぎで頭でっかちになっていて、作品も面白くない」と非難されたのだった。
これは以前、別の友達から受けた非難とだいたい同じで、そういう風に自分を見る人が少なくないであろう事が、確認できた。

いや、ぼくとしては子供の頃、周囲の大人から「勉強しろ」と散々言われたのにろくに勉強せず、それを反省して今勉強してるのだが、そうなると周囲の大人から「勉強なんかするな」と言われるわけで、どうも釈然としないw

ぼくが今勉強するのは、アーティストとしての才能や感性には限りがあり、どんな素晴らしいアーティストもいつかは劣化して行き詰まる、という事を意識してるからだ。
そして、この問題を回避するには勉強することで自分を変革し、新たな才能や感性を呼び込む事が有効だ、という方法論を実践してるに過ぎない。

ところが友人の写真家たちと話して分かったのだが、彼らにはそもそも「才能の劣化」という問題意識が存在しないのだった。
ぼくは自分の「才能の劣化」に常に怯えて焦燥感があるのだが、彼らにはその意識が全くない。
そんな彼らに、なぜ自分が勉強するのかを説明しても、通じるはずもないのだ。

ぼくは2000年にコニカフォトプレミオで大賞を受賞したのだが、当時のギャラリー担当者に「受賞しても大半の写真家がその時がピークで、続けて個展ができる人は少ない」と言われたのだが、ぼく自身も受賞作品「昆虫ツギラマ」でやり尽くした感があり、以後に予想される才能の劣化を意識していた。

コンペ受賞作家に限らず、アーティストの才能の劣化について、具体的事例がいくらでもあるにもかかわらず、それを多くのアーティストが意識しないのがぼくとしては不思議だ。
しかし別の見方をすれば、ぼく自身の「才能」という概念の把握が、他の人とズレているのだとも考えられる。

思えばぼくは美大時代を中心に「才能」の問題に悩んでいた。
早い話、自分のアーティストとしての才能の無さに絶望していたのだった。
ここも今思えば他の同級生たちや、今付き合っているアーティスト達と違うのだが、ぼくは 「才能」というものに人並み以上に固執して、それが無い事に絶望してたのだ。

自分がなぜ「才能」というものに固執してたのか?その理由も考えると思い当たる事があるのだが、今は省略する。
しかしぼくは自分には「無い」才能と、他人には「有る」才能を見比べながら、「才能」と言うものを対象化するようになった。

自分に才能が無い事の悩みは、美大卒業後もしばらく続いたが、程なくして赤瀬川原平さんが提唱する「超芸術トマソン」を自分でも探すようになり、これが転機となって、長年の悩みであった才能の問題は解消された。
つまり路上でのトマソン探しは、自分の才能の「無さ」を前提に行う事ができるのだ。

「超芸術トマソン」はその定義上、アーティスト不在の芸術なので、アーティスト自身の才能の有無を問われる事がない。
しかし路上を歩きながらトマソンを発見し、それを「超芸術」として価値付ける事が、アーティストとしての創造行為になる。
だから才能が「無い」ぼくはトマソン探しに熱中したのだ。

しかしぼくはトマソン探しをして、赤瀬川原平さんをなぞる事に飽き足らなくなり、これを「非人称芸術」の概念へと発展させたが、これも「非」という文字が示すとおり、自分の才能の「無さ 」が前提になっている。
その「非人称芸術」の概念はフォトモやツギラマなど独自の写真技法と結び付くことになり、気付けば「アーティストとしての自分」がそこにいたのだった。
こうなるともう才能が「無い」とは言えず、ようやく自分されを獲得したのだった。

ぼくのアーティストとしての才能は、「無い」ところから意図的に獲得し構築したという自覚があり、だからそれがやがて消え去るであろう事も、予想出来てしまうのだった。
ぼくは自分の経験から、そして他人を観察しながら、「才能」とはアーティストに先天的し備わっているのではなく、後天的に獲得されるものだと言う風に、捉えている。
才能はアーティストの「本質」には属さず、外部からやって来て本人にくっついたり、また離れたりするものなのだ。

ぼくとしては、アーティストと「才能」は別物だと認識し、その意味で才能と言うものを対象化して捉えている。
しかし先日話した写真家たちは、才能は自分の本質に属していると思いなしており、才能=自分なのであり、才能そのものを対象として捉えていない。

ぼくが思うところでは、才能は個性ではない。
才能に限らず人間の「素」とは、実はみんなが思っている以上に無個性で、その意味ではパソコンと同じで、インストールするOSやソフトや各種データによって「個性」が形成される。
だから発展の可能性もあるのだし、勉強のしがいもあると思うのだ。
しかし人間はパソコンと異なり、せっかくインストールしたソフトが、自分の意志とは関係なく勝手にアンインストールされたりして、そこが怖いところでもあるのだ。

以上のように、友人の写真家たちを初めとする多くのアーティストが「才能=自分の天性の個性」と認識し、それが失われる可能性を全く考慮しないのに対し、ぼくは「才能=自分の外部からやってくるもの」と認識し、その喪失に怯えている。
しかし実のところ、そのどちらが正しいのかは確定できない。

最近のぼくはこのブログでも「人は誰でも気が狂ってる」と公言しているが、それは「自分こそが正しくて、他のみんなが間違っている」と言いたくないための、理由付でもあったのだ。
そもそも多くのアーティストは自分の才能に関して「問題がない」としているのだから、それに対しぼくがとやかく言うのは無意味でしかない。
才能の問題は、あくまでぼく個人の問題であって、自分独自の「環世界」での話でしかないのだ。

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創造的発狂

創造的自殺」が有りうるなら、「創造的発狂」もまた有りえることに、ふと気が付いた。
人間の精神が複雑かつ千差万別で「正常」が確定できず、誰もが精神病者なのであれば、意図的に異常な精神を構築する「創造的発狂」が有効な方法論になる。

人間は誰もが精神病者で、それぞれが別々の症状を患い「みんな気が違って、みんな良い」のであるw
だから自分や他人の精神異常を気に病む事はなく、その事態を創造的に捉えれば良いのだ。

人は誰でも多かれ少なかれ「ダメな自分」を変えたいと思っている。
現在の自分からでつの自分に変わるという事は「気が変わる」事であり「気が違う」事であり「気違い」になる事に他ならない。

「ダメな自分」から脱却して生まれ変わるはずの「新しい自分」は、現在の自分とは気が違っている「気違い」なのであり、だから現在の自分が思いもよらない、大胆な思考や行動力を示すものと想定できる。
逆に言えば、気違いになるつもりでなければ、ダメな自分を変える事はできないのだ。

人間の精神が成長して変化するという事は、変化する前の精神に対し「気が違う」「気違いになる」事だと言える。
その意味で、子供は成長と共にどんどん気が違って行き、同じ子供でも小学一年生と六年生とでは、全く別人のように気が違っている。

人間の子供は成長と共に、どんどん気が違った人間に変化する。
しかしどのような方向に気が違ってゆくのかは、全く独自にではなく、周囲に合わせながら決めてゆく。
つまり子供達はだいたい同じような気の違い方を目指して、変化し成長してゆく。

誰が見ても普通人とは気が違っていると思える人は確かに存在する。しかし、普通の人の誰もが同じ精神の持ち主でない以上、それぞれが少しずつ気が違っているのだ。
そして普段はお互いが「気違い」である事が露呈しないように気を付けて振る舞い、そうして「正常な社会」が形成される。

子供達はみな、同じ方向に気が違う事を目指すが、しかし誰もが同じ精神状態になる事はあり得ず、必ず互いの精神に何らかのズレを生じているのであり、その意味で多かれ少なかれ気が違っている。
しかし、成長過程において他人とは異なる精神状態を獲得した人間が、一般に「気違い」と言われる。

自分で実践して気付いたのだが、哲学や宗教を自覚的に学び始めると、一般常識からどんどん遊離して、その意味で自分の気が違ってゆくのが自覚できる。
そして実際「最近の糸崎さんは宗教じみててアブナイ」などと言われるのだw

まぁ、ぼくの方がアブナイ気違いになりつつあるのか?そのようにぼくを見るみんなこそ気違いではないのか?は「人はみな精神病者」「みんな気が違って、みんな良い」の観点からお互い様だと言える。
いや、こういう発言自体が危険視されるのかもしれないが…

以上のことは、実は友達から無理ゲーなお願いされて、「ミッションをこなすには、今の自分を超えた気違いになるしかない!」と決意して、おかげで自分でもびっくりの仕事ができたので、このおまじないは効くのですw“

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一般人と犯罪者

それぞれの環世界』の記事に坂出太郎さんからコメントがありましたので、その返信を新たな記事として投稿します。

先日の大阪の刺殺事件のように「誰でも良かった」的な事件が増えてますが、これは想像界ではなく現実界の精神のみの持ち主の事件でしょうか。
ノイズがなくすっきりしてるからこそ、躊躇しないんでしょうか。

投稿: 坂出太郎 | 2012年6月12日 (火) 11時40分

まず誤解の無いようにお願いしたいのですが、ぼくが言うところの「現実界だけの精神に生きる人」は、ぼくから見ると「ちょっと変わった人」なのですが、普通の意味ではみな善良な一般人で、人気者だったり、仕事が出来る人もいて、犯罪を犯すような「タイプ」とは全く異なります。
そもそも、他の皆さんから見るとぼくの方が「ちょっと変わった人」なわけで、その辺のことはお互い様なのです。

ぼくは別の記事で、複雑で多様な人間の精神に「正常」はあり得ず、誰もが精神病者なのだ、と書きました。
それは有り体に言えば、「お互い様」と言うことで、普通に暮らしてるぼくらはお互いちょっとずつヘンなのです。
そのような状況で「自分こそが正常だ」と主張する事自体がヘンなのです。
にもかかわらず、お互いの人間関係はだいたい上手くいっているのが、普通の人の社会です。

これに対し、通り魔殺人を犯すような犯罪者は、精神の病み方が一般人のそれとはレベルが違って、一概に比較することは出来ません。
ぼくはあくまで、一般人のレベルで「お互いちょっとヘン」という程度の精神の違いを見ているのであって、犯罪を犯すような特殊な精神異常は、やはり専門家に任せるしかないのです。
ぼくが恐れるのは「○○のタイプは犯罪者に多い」と安易に誤解されることで、それは善良な一般市民に対する誤解であって、極めて危険な考え方です。

そもそも、ぼくの言う「現実界だけの精神に生きる人」はあくまで仮説であって、本当にそう言う人がいるのかは不明だし、客観的に証明することも出来ません。
これはあくまで、ぼくが「こう思う、こう感じる」という、主観的なカテゴリー分けに過ぎないのです。
「現実界だけの精神に生きる人」という概念自体は、彦坂尚嘉さんの影響を受けてますが、これに関して彦坂さんとぼくとではある部分で共通した感性があるようで、それで共通の言葉で考えることにしたのです。

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2012年6月10日 (日)

それぞれの環世界

人々は同じ環境にいながら、それぞれ異なる環世界を生きている。だから自分に見えているものが他人には見えず、他人に見えているものが自分には見えていない、という状況が当たり前に生じる。

例えば糸崎公朗という人間の存在も、人それぞれの環世界によって、その立ち現れ方が異なる。だからいくら自分が相手に存在感をアピールしても、相手の環世界に自分の存在が一切立ち現れていない、という状況も起こりうる。

自分が誰かに全く相手にされていない状況は、相手と自分の環世界にズレが生じており、相手の環世界に自分の存在が立ち現れていない、と言い換える事ができるかもしれない。
そんな場合は、相手の環世界に合わせて自分の存在を変容させる必要がある。

ここは自分も反省すべき点なのだが、多くの人の環世界は閉じている。
従って多くの人々は、お互いにお互いの存在を認識していない。
だからこそ自分の環世界に窓を設け、他人に自分の姿を見せ、他人の環世界に自分が立ち入りながら、コミニュケーションをとる必要がある。

環世界とは、人間にとっては宗教観もその一つである。
そして、日本的無宗教者は他宗教に対し恐れをなし、不寛容であり、その意味で環世界が閉じている。
原理を振りかざすキリスト教者もまた同じ。
これに対し、たとえ無宗教者としてであっても、自分の信仰を深めるため他宗教に学ぶ者は、その環世界が開かれている。

環世界が閉じた相手に対し、それを開かせるよう外部から働きかける事は、原理的に不可能である。
だからそのような人間との関係を望む場合は、自分の環世界を変容させ、相手の環世界に招かれるための窓を開ける必要がある。
その窓から自分は半身を乗り出したまま、相手の環世界に招かれる。

想像界の精神しか持たない人間と、象徴界の精神をつ人間とでは、環世界が異なる。
だから想像界の精神だけの人に対し、象徴界の精神で接すると、その有様は認識不能のノイズとして環世界に立ち現れ、嫌悪や不快を呼び起こす。

現実界の精神だけの人間の環世界について、ぼく自身の理解がまだあまり進んでいない。
しかしこれまでの経験から、彼らの環世界に象徴界の精神は、ノイズとしてはおろか一切立ち現れる事なくその存在が無である可能性がある。
現に自分はそのような人から「言ってる意味がわからない」と言われた事がある

想像界の精神だけの人に対しては、その環世界に合わせて、自分も想像界的に振舞う必要がある。
現実界の精神だけの人に対しては、その感世界に同調し、自分も現実界的に振舞う必要がある。
それには相手をよく知る事が必要で、そのために相手をよく観察する事が、そのままコミュニケーションになる。

相手の環世界に合わせ、自分の環世界に変幻自在な窓を作り出す名人が、確かに存在する。
そのような人の環世界は言うまでもなく開かれている。

想像界だけの精神に生きる人の環世界は混沌として様々なノイズに満ち、時に彼らはそれに怯えている。
現実界の精神だけに生きる人の環世界は、ノイズもなくスッキリ晴れ渡り、要素が少なく単純明快に構成されている。

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世間体と遮光壁

世間語を使う限り《想像界》の外部に出ることはできない。
全ては世間語に置き換えられ《想像界》に取り込まれる。
全てを世間語に置き換えれば「分からないこと」は存在しない。

世間体を否定し、反世間的に振舞う人は、実のところ世間体を対象化する視点が無く、世間体の裏側にピッタリ張り付き、結局世間体に縛られている。

世間の人々は、未知の世界を既知の言葉に置き換えることでこれを消化し、世間体という精神的身体を形成する。

世間体から身体を引き剥がし、世間体としての身体と、非世間体的な身体とを分裂させ、二つの異なる身体を同時に生きること。

知性とは分裂であり、それがない人はあらゆるものにくっついたり、貼り付いたり、一体化している。
自分と世界とが一体化した人は、何も見ることはできないし考えることもできない。自分と世界とを分離することで、見ることや考えることが可能になる。

言葉によって考えられるのと同様に、言葉によって見ることができる。
新しい言葉によって、新しい視覚を創造する事ができる。

一方では、考えを遮るための言葉や、視覚を遮るための言葉が存在する。
世間体を生きる人にとって「世界」はあまりに眩し過ぎ、そのための遮光壁が必要となる。
世間体の内部はそのような遮光壁に守られ、常に快適な環境に保たれている。

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2012年6月 9日 (土)

精神病者であり医者である

壊れた道具、部品が欠落した道具をまともに扱うことは無意味で、それを道具として活かすには、使う側に何らかの創意工夫が必要となる。
同じように壊れてる人、欠落がある人に対しまともな対応をするのは無意味で、それを人材として活かすには、関係する側に何らかの創意工夫が必要となる。

現代文明は、数十万年もの間自然の中で暮らしていた人類にとっての異常事態で、だから現代人の誰もが精神病なのだとすれば、誰に対しても医者が患者に接するようにしなければならない。
つまり、患者の症状はそれぞれであり、それぞれの症状に応じた対応の仕方を見極める必要がある。

怒りのポイント(症状)は、人それぞれによって異なる。
だからそれぞれの人の怒りのポイントを見極め、それぞれの仕方で相手を怒らせないようにしたり、その逆に怒りを誘発させる必要がある。
現代人の誰もが精神病者なのであれば、患者の言うことは間に受けてはならない。

精神病者と健常者の違いは、多数派なのか少数派なのかによる。
もし、人々の大半が同じ種類の精神病を患っている場合、発病してない少数派の人間が精神病者となる。
つまり健常者というのも一つの症状に過ぎないのであり、その証拠に誰一人として自覚症状がないのである。

現代人は秩序(社会システム)を作ったのではなく、すでにある秩序に乗ってるだけである。
社会システムは自律しているから、個々の人々に問題があっても、おおむね問題なく作動する。
社会システムとは、人間精神の外部化、道具化であって、だから精神に異常をきたした現代人が、外部化した精神の働きを持って「正常」に振舞う、と言うことは考えられる。

人間の精神は複雑なので、何をもって「正常な精神」なのが確定できない。
だから全ての人間は精神病者なのであり、そんな社会で円滑に生きるには「多数派の症状」に埋没するか、(自分も含めて)病気と病気として認識し、医者が患者に接するようにしながら生きることである。

そもそも「正常」とはごく限られた条件でしか成立し得ず、だから単純な精神のモンシロチョウには適用できるが、複雑な精神の人間には適用できない。
例えば「生物として」ならば他人を殺してでも喰らい、強姦してでも生殖すれば「正常」と言えるが、そのような人間を誰も正常だとは認めない。
あるいは「気がふれる恐怖」というのは誰にでもあって、だからある人々は出来るだけ「多数派」に加わろうと努力し、ある人々は「多数派という病」を脱しようと努力するのかも知れない。

生命の本質に適ってさえいれば、人間として正常なのかと言えば、そうではないところが人間の複雑なところである。
究極の正常であるところの真理(と言われるもの)を説いた人は、ブッタにしろキリストにしろソクラテスにしろ、生物としては異常行動している。
生物として正常と、人間として正常は別物で、そこに人間の人間たる所以がある。生物として正常な犯罪者もいれば、生物として異常行動する偉人もいる。

民主主義社会では、誰もが民で同時に君主であらねばならないのであり、現代社会では誰もが精神病者で同時に医者であらねばならないのかも知れない。

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2012年6月 2日 (土)

老子と意訳

最近『老子』にハマってしまって、岩波文庫版と講談社学術文庫版と、両方買ってしまった。
ついこの間まで初期仏典にハマって「仏教徒になる」とか言ってたのだが、一転して道家のようになったりして、我ながら呆れてしまう(笑)。

さて、2冊の『老子』はそれぞれ現代語訳が付いてるが、講談社版の方が意訳的で一般には分かりやすいのかもしれない。
だがそれだと意味の広がりが限定されて、かえってぼくには読みにくい。
この点、岩波版の現代語訳の方が原典に近く、それを素直に読むためのガイド機能を果たすように思える。
こうした比較が面白いのも、圧縮率の高い《象徴界》の言語で書かれた古典ならではと言える。

『老子』の冒頭「道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず」には《象徴界》の言語の何たるかがよく示されている。
つまり言語は本質的に他の言語に置き換えることができず、『老子』のような圧縮率の高い言語を、平易な言葉に置かえ展開ても、何ら理解が深まることはないのだ。

この「道の道とす可きは常の道に非ず」という言葉は、「道」という言語(概念)に対し「それが何であるか」と解釈し説明することを否定している。
つまり『老子』という書物に対し、解説や入門書を読むことは本質的には無意味で、原典と直接向き合わなければ意味がないのだ。

『老子』のように高圧縮率なのが《象徴界》の言語の特徴で、同時にこれは平易な言い回しに展開不可能で、例えそれをしてみたところで元の意味から離れてしまう。
つまり言語の持つ圧縮機能は、本質的に「不可逆圧縮」なのである。

言語は本質的に不可逆圧縮だが、にも関わらず講談社版『老子』には非常に分かりやすい意訳が付いている。
しかしこの場合の「分かりやすい」は日常的感覚の延長で分かると言うことであり、『老子』が日常的感覚の超越を説いた書であるとすれば、その本義から外れてしまうことになる。

『老子』第一章には「故に常に欲無くして以って其の妙を観、常に欲有りて以って其の徼を観る」ともあるが、この場合の「欲」とは「日常感覚に引き寄せて、自分の分かるレベルで理解したい」という「欲」だとも解釈できる。
そしてその欲には「世界には今の自分に知り得ない事柄が存在する」と言う認識が欠如している。

この「常に欲無くして以って其の妙を観」は、ソクラテスの「無知の知」に通じるところがある。
つまり「自分は知っている」と思いなす事が即ち「欲」であり、その「欲」を無くしてこそ、物事に潜む「微」を見極めるところの「知」が得られるのだ。

別の見方をすれば、『老子』のような高圧縮率の言語は、平易な日常語に置き換え展開する事ができず、その意味は「微」として捉えられるのみ、と言えるかもしれない。
そして平易な日常語で語り得る得る世界が、「常に欲有りて以って其の徼を観る」「徼(きょう)」なのだ。

この徼(きょう)は、岩波版では帰結や端の意味、講談社版では明白の意味で読まれているが、つまりこれは「物事の表面」だと解釈できる。
欲を無くして物事の表面に囚われない「微」を認識するのであれば、これは「構造主義」の見えない《構造》とも相通じてくる。

構造主義の見えない《構造》とは即ち《言語》であり、つまりは《象徴界》である。
だから物事の目に見える表面だけを言い当てる言語は、たとえそれが言語であっても《想像界》の言語だと言える。
だから『老子』が《象徴界》の言語なのに対し、その意訳や解説は《想像界》の言語で、両者は本質が異なっている。

ぼくは長い間、哲学や思想や宗教は「入門書」で済ませてきたが、それは本質的に間違っていた。
それらはいずれも《想像界》の言語で書かれているのであり、そして《想像界》とはまやかしのイメージの世界であり、だからぼくは長いあいだ騙されていたのだった。

《想像界》がまやかしの世界である事は『老子』でもたびたび説かれている。
第二章の冒頭「天下、皆美の美たるを知る、これ悪のみ」もそうである。
つまり、みんなが美しいと思うような一般常識とは、実のところ特定の地域と時代に通じるのみで、根拠も無く普遍性も無い。
だがそのような一般常識が、絶対であるかのように錯覚してしまうのが《想像界》の世界認識なのだ。

そもそも『老子』第一章の冒頭、「道の道とすべきは常の道に非ず」からして《想像界》の否定を説いている。
分かりやすい解説や入門書は、言語であっても《想像界》の言語でしかなく、何事も表面だけを捉え、それによって効率良く処理する日常的感覚の延長でしかない。
『老子』のわかりやすい意訳や解説も、そのような処理の一環でしかない。

『老子』を理解するのに分かりやすい解説や入門書を読むと、かえって本義からかけ離れて分かりにくくなってしまう。
しかし実は、プラトンの著作や初期仏典などと併せて読むと、これらは相補的に良い副読本になる。
つまり並み外れて高圧縮率の古典は、いずれも《象徴界》の言語として普遍性があるのだ。

…などと、結局は自分も『老子』を自分に分かる言葉に置き換えてしまったわけで、反省しなければならない。

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