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2012年6月13日 (水)

勉強と才能

他人に非難されるのは実は大好きなのだが、飲み会の席でしつこくそれをされると激昂しそうになる…という事を先日発見したので、これからは気をつけなければならないw
もちろん実際に激昂することなく、今は何とも思ってないですが…
いやそもそも「しつこい」と感じたのは酔った自分の主観でしか無く、友人たちはただ自分にとっての当たり前のことを述べていたに過ぎないのだった。

と言うわけで、先日は写真家の友人たちと飲んだのだが、そこで「最近の糸崎さんは本の読みすぎで頭でっかちになっていて、作品も面白くない」と非難されたのだった。
これは以前、別の友達から受けた非難とだいたい同じで、そういう風に自分を見る人が少なくないであろう事が、確認できた。

いや、ぼくとしては子供の頃、周囲の大人から「勉強しろ」と散々言われたのにろくに勉強せず、それを反省して今勉強してるのだが、そうなると周囲の大人から「勉強なんかするな」と言われるわけで、どうも釈然としないw

ぼくが今勉強するのは、アーティストとしての才能や感性には限りがあり、どんな素晴らしいアーティストもいつかは劣化して行き詰まる、という事を意識してるからだ。
そして、この問題を回避するには勉強することで自分を変革し、新たな才能や感性を呼び込む事が有効だ、という方法論を実践してるに過ぎない。

ところが友人の写真家たちと話して分かったのだが、彼らにはそもそも「才能の劣化」という問題意識が存在しないのだった。
ぼくは自分の「才能の劣化」に常に怯えて焦燥感があるのだが、彼らにはその意識が全くない。
そんな彼らに、なぜ自分が勉強するのかを説明しても、通じるはずもないのだ。

ぼくは2000年にコニカフォトプレミオで大賞を受賞したのだが、当時のギャラリー担当者に「受賞しても大半の写真家がその時がピークで、続けて個展ができる人は少ない」と言われたのだが、ぼく自身も受賞作品「昆虫ツギラマ」でやり尽くした感があり、以後に予想される才能の劣化を意識していた。

コンペ受賞作家に限らず、アーティストの才能の劣化について、具体的事例がいくらでもあるにもかかわらず、それを多くのアーティストが意識しないのがぼくとしては不思議だ。
しかし別の見方をすれば、ぼく自身の「才能」という概念の把握が、他の人とズレているのだとも考えられる。

思えばぼくは美大時代を中心に「才能」の問題に悩んでいた。
早い話、自分のアーティストとしての才能の無さに絶望していたのだった。
ここも今思えば他の同級生たちや、今付き合っているアーティスト達と違うのだが、ぼくは 「才能」というものに人並み以上に固執して、それが無い事に絶望してたのだ。

自分がなぜ「才能」というものに固執してたのか?その理由も考えると思い当たる事があるのだが、今は省略する。
しかしぼくは自分には「無い」才能と、他人には「有る」才能を見比べながら、「才能」と言うものを対象化するようになった。

自分に才能が無い事の悩みは、美大卒業後もしばらく続いたが、程なくして赤瀬川原平さんが提唱する「超芸術トマソン」を自分でも探すようになり、これが転機となって、長年の悩みであった才能の問題は解消された。
つまり路上でのトマソン探しは、自分の才能の「無さ」を前提に行う事ができるのだ。

「超芸術トマソン」はその定義上、アーティスト不在の芸術なので、アーティスト自身の才能の有無を問われる事がない。
しかし路上を歩きながらトマソンを発見し、それを「超芸術」として価値付ける事が、アーティストとしての創造行為になる。
だから才能が「無い」ぼくはトマソン探しに熱中したのだ。

しかしぼくはトマソン探しをして、赤瀬川原平さんをなぞる事に飽き足らなくなり、これを「非人称芸術」の概念へと発展させたが、これも「非」という文字が示すとおり、自分の才能の「無さ 」が前提になっている。
その「非人称芸術」の概念はフォトモやツギラマなど独自の写真技法と結び付くことになり、気付けば「アーティストとしての自分」がそこにいたのだった。
こうなるともう才能が「無い」とは言えず、ようやく自分されを獲得したのだった。

ぼくのアーティストとしての才能は、「無い」ところから意図的に獲得し構築したという自覚があり、だからそれがやがて消え去るであろう事も、予想出来てしまうのだった。
ぼくは自分の経験から、そして他人を観察しながら、「才能」とはアーティストに先天的し備わっているのではなく、後天的に獲得されるものだと言う風に、捉えている。
才能はアーティストの「本質」には属さず、外部からやって来て本人にくっついたり、また離れたりするものなのだ。

ぼくとしては、アーティストと「才能」は別物だと認識し、その意味で才能と言うものを対象化して捉えている。
しかし先日話した写真家たちは、才能は自分の本質に属していると思いなしており、才能=自分なのであり、才能そのものを対象として捉えていない。

ぼくが思うところでは、才能は個性ではない。
才能に限らず人間の「素」とは、実はみんなが思っている以上に無個性で、その意味ではパソコンと同じで、インストールするOSやソフトや各種データによって「個性」が形成される。
だから発展の可能性もあるのだし、勉強のしがいもあると思うのだ。
しかし人間はパソコンと異なり、せっかくインストールしたソフトが、自分の意志とは関係なく勝手にアンインストールされたりして、そこが怖いところでもあるのだ。

以上のように、友人の写真家たちを初めとする多くのアーティストが「才能=自分の天性の個性」と認識し、それが失われる可能性を全く考慮しないのに対し、ぼくは「才能=自分の外部からやってくるもの」と認識し、その喪失に怯えている。
しかし実のところ、そのどちらが正しいのかは確定できない。

最近のぼくはこのブログでも「人は誰でも気が狂ってる」と公言しているが、それは「自分こそが正しくて、他のみんなが間違っている」と言いたくないための、理由付でもあったのだ。
そもそも多くのアーティストは自分の才能に関して「問題がない」としているのだから、それに対しぼくがとやかく言うのは無意味でしかない。
才能の問題は、あくまでぼく個人の問題であって、自分独自の「環世界」での話でしかないのだ。

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コメント

ポケモンみたいに、せっかく覚えた技を「忘れさせる」の選択で忘れさせられちゃって、抜き取られちゃった感じなのかなこれは。

しのやま紀信さんみたく、テーマがハッキリしていれば、誰が見ても個性や主張が分かりやすいし、才能の枯渇の心配は考えたりしなさそうな感じ。

多分、新しい何かを初めて、手をひろげ過ぎると、誰でもできるんじゃないか?←みたいな気分になってきて不安を抱くというか。

芸術家の子供だと、親を越えることの難しさへの苛立ちだったり、行き先を阻まれることへのストレスが強いのは否めない気も…?

頭が良すぎて芸術的な思考方なのだなと思いました。

しばらく前、偶然立ち寄った、とある展示室で、なぞの壺を見ました。よい出来でした。その横に、
同じ作者の謎の数字スタンプの変な巨大ポスターを見ました。
それは全然意味は解らなかったけれど、数字にスゴい秘密があるのかもしれない←と考えました。
不思議なペイントの謎の壺の方は、計算をしなければ作れない出来だったので、きっと謎の数字ポスターにも意味があるのではないか?と考えました。

そういった感じの、見た人に謎を残したり、どうやって作るのだろう?と不思議な気持ちにさせる創作を続けている糸崎さんは、十分に個性的で、面白いと思います。

投稿: 感想。 | 2012年7月21日 (土) 10時46分

>しのやま紀信さんみたく、テーマがハッキリしていれば、誰が見ても個性や主張が分かりやすいし、才能の枯渇の心配は考えたりしなさそうな感じ。

どれだけ個性や主張がハッキリしようとも、同じことを続けているとワンパターンになってつまらなくなり、それが才能の枯渇なのです。
そもそもハッキリした個性や主張は、新たに創造するから素晴らしいのであり、しかしいちど創造した同じことを繰り返し続ける行為は、創造的ではありません。
創造的な若手アーティストも、やがては才能が尽きて想像力が衰え、非創造的マンネリに陥るのです。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年7月22日 (日) 02時19分

マンネリとは、ハタから見ると『個性や持ち味』ということなのですね。

芸術家本人からすると「才能の枯渇」や「新しい閃きへの乏しさ」に対して悩んだりするものの、常に観察する側からすれば『マンネリ作品=個性』が一定しているという意味では「安心感」だったりする。

初めて見る人からは、どれも目新しいだけに「斬新感」として感じられる←という感じでしょうか…?

見慣れた人からすると「違うもんも見たい」「相互刺激がほしい」的な何かとか…。

個性が愛されると、個性=才能として受け入れられやすいのかな?と思ったり、圧縮された言葉には、色々な夢が詰め込まれているのかも?なんて、色々な事を考えます。(好き勝手に自己主張し合うのがヒトなのかもしれませんし…?)

ありきたりと言えばありきたりではありますが、ドールハウス的な3D紙細工とかも見たいです。

投稿: 感想。(・∀・) | 2012年7月22日 (日) 09時40分

すいません、返事を書いたつもりが、消えてしまったようです。
スパム防止のため、パスワードを入力するモードに設定してたのですが、それで投稿ミスすることもあるようなので、とりあえず解除してみました。
再度の返信は、またあらためて書くつもりです。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年7月23日 (月) 21時51分

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