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2012年6月 9日 (土)

精神病者であり医者である

壊れた道具、部品が欠落した道具をまともに扱うことは無意味で、それを道具として活かすには、使う側に何らかの創意工夫が必要となる。
同じように壊れてる人、欠落がある人に対しまともな対応をするのは無意味で、それを人材として活かすには、関係する側に何らかの創意工夫が必要となる。

現代文明は、数十万年もの間自然の中で暮らしていた人類にとっての異常事態で、だから現代人の誰もが精神病なのだとすれば、誰に対しても医者が患者に接するようにしなければならない。
つまり、患者の症状はそれぞれであり、それぞれの症状に応じた対応の仕方を見極める必要がある。

怒りのポイント(症状)は、人それぞれによって異なる。
だからそれぞれの人の怒りのポイントを見極め、それぞれの仕方で相手を怒らせないようにしたり、その逆に怒りを誘発させる必要がある。
現代人の誰もが精神病者なのであれば、患者の言うことは間に受けてはならない。

精神病者と健常者の違いは、多数派なのか少数派なのかによる。
もし、人々の大半が同じ種類の精神病を患っている場合、発病してない少数派の人間が精神病者となる。
つまり健常者というのも一つの症状に過ぎないのであり、その証拠に誰一人として自覚症状がないのである。

現代人は秩序(社会システム)を作ったのではなく、すでにある秩序に乗ってるだけである。
社会システムは自律しているから、個々の人々に問題があっても、おおむね問題なく作動する。
社会システムとは、人間精神の外部化、道具化であって、だから精神に異常をきたした現代人が、外部化した精神の働きを持って「正常」に振舞う、と言うことは考えられる。

人間の精神は複雑なので、何をもって「正常な精神」なのが確定できない。
だから全ての人間は精神病者なのであり、そんな社会で円滑に生きるには「多数派の症状」に埋没するか、(自分も含めて)病気と病気として認識し、医者が患者に接するようにしながら生きることである。

そもそも「正常」とはごく限られた条件でしか成立し得ず、だから単純な精神のモンシロチョウには適用できるが、複雑な精神の人間には適用できない。
例えば「生物として」ならば他人を殺してでも喰らい、強姦してでも生殖すれば「正常」と言えるが、そのような人間を誰も正常だとは認めない。
あるいは「気がふれる恐怖」というのは誰にでもあって、だからある人々は出来るだけ「多数派」に加わろうと努力し、ある人々は「多数派という病」を脱しようと努力するのかも知れない。

生命の本質に適ってさえいれば、人間として正常なのかと言えば、そうではないところが人間の複雑なところである。
究極の正常であるところの真理(と言われるもの)を説いた人は、ブッタにしろキリストにしろソクラテスにしろ、生物としては異常行動している。
生物として正常と、人間として正常は別物で、そこに人間の人間たる所以がある。生物として正常な犯罪者もいれば、生物として異常行動する偉人もいる。

民主主義社会では、誰もが民で同時に君主であらねばならないのであり、現代社会では誰もが精神病者で同時に医者であらねばならないのかも知れない。

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