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2012年6月 2日 (土)

老子と意訳

最近『老子』にハマってしまって、岩波文庫版と講談社学術文庫版と、両方買ってしまった。
ついこの間まで初期仏典にハマって「仏教徒になる」とか言ってたのだが、一転して道家のようになったりして、我ながら呆れてしまう(笑)。

さて、2冊の『老子』はそれぞれ現代語訳が付いてるが、講談社版の方が意訳的で一般には分かりやすいのかもしれない。
だがそれだと意味の広がりが限定されて、かえってぼくには読みにくい。
この点、岩波版の現代語訳の方が原典に近く、それを素直に読むためのガイド機能を果たすように思える。
こうした比較が面白いのも、圧縮率の高い《象徴界》の言語で書かれた古典ならではと言える。

『老子』の冒頭「道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず」には《象徴界》の言語の何たるかがよく示されている。
つまり言語は本質的に他の言語に置き換えることができず、『老子』のような圧縮率の高い言語を、平易な言葉に置かえ展開ても、何ら理解が深まることはないのだ。

この「道の道とす可きは常の道に非ず」という言葉は、「道」という言語(概念)に対し「それが何であるか」と解釈し説明することを否定している。
つまり『老子』という書物に対し、解説や入門書を読むことは本質的には無意味で、原典と直接向き合わなければ意味がないのだ。

『老子』のように高圧縮率なのが《象徴界》の言語の特徴で、同時にこれは平易な言い回しに展開不可能で、例えそれをしてみたところで元の意味から離れてしまう。
つまり言語の持つ圧縮機能は、本質的に「不可逆圧縮」なのである。

言語は本質的に不可逆圧縮だが、にも関わらず講談社版『老子』には非常に分かりやすい意訳が付いている。
しかしこの場合の「分かりやすい」は日常的感覚の延長で分かると言うことであり、『老子』が日常的感覚の超越を説いた書であるとすれば、その本義から外れてしまうことになる。

『老子』第一章には「故に常に欲無くして以って其の妙を観、常に欲有りて以って其の徼を観る」ともあるが、この場合の「欲」とは「日常感覚に引き寄せて、自分の分かるレベルで理解したい」という「欲」だとも解釈できる。
そしてその欲には「世界には今の自分に知り得ない事柄が存在する」と言う認識が欠如している。

この「常に欲無くして以って其の妙を観」は、ソクラテスの「無知の知」に通じるところがある。
つまり「自分は知っている」と思いなす事が即ち「欲」であり、その「欲」を無くしてこそ、物事に潜む「微」を見極めるところの「知」が得られるのだ。

別の見方をすれば、『老子』のような高圧縮率の言語は、平易な日常語に置き換え展開する事ができず、その意味は「微」として捉えられるのみ、と言えるかもしれない。
そして平易な日常語で語り得る得る世界が、「常に欲有りて以って其の徼を観る」「徼(きょう)」なのだ。

この徼(きょう)は、岩波版では帰結や端の意味、講談社版では明白の意味で読まれているが、つまりこれは「物事の表面」だと解釈できる。
欲を無くして物事の表面に囚われない「微」を認識するのであれば、これは「構造主義」の見えない《構造》とも相通じてくる。

構造主義の見えない《構造》とは即ち《言語》であり、つまりは《象徴界》である。
だから物事の目に見える表面だけを言い当てる言語は、たとえそれが言語であっても《想像界》の言語だと言える。
だから『老子』が《象徴界》の言語なのに対し、その意訳や解説は《想像界》の言語で、両者は本質が異なっている。

ぼくは長い間、哲学や思想や宗教は「入門書」で済ませてきたが、それは本質的に間違っていた。
それらはいずれも《想像界》の言語で書かれているのであり、そして《想像界》とはまやかしのイメージの世界であり、だからぼくは長いあいだ騙されていたのだった。

《想像界》がまやかしの世界である事は『老子』でもたびたび説かれている。
第二章の冒頭「天下、皆美の美たるを知る、これ悪のみ」もそうである。
つまり、みんなが美しいと思うような一般常識とは、実のところ特定の地域と時代に通じるのみで、根拠も無く普遍性も無い。
だがそのような一般常識が、絶対であるかのように錯覚してしまうのが《想像界》の世界認識なのだ。

そもそも『老子』第一章の冒頭、「道の道とすべきは常の道に非ず」からして《想像界》の否定を説いている。
分かりやすい解説や入門書は、言語であっても《想像界》の言語でしかなく、何事も表面だけを捉え、それによって効率良く処理する日常的感覚の延長でしかない。
『老子』のわかりやすい意訳や解説も、そのような処理の一環でしかない。

『老子』を理解するのに分かりやすい解説や入門書を読むと、かえって本義からかけ離れて分かりにくくなってしまう。
しかし実は、プラトンの著作や初期仏典などと併せて読むと、これらは相補的に良い副読本になる。
つまり並み外れて高圧縮率の古典は、いずれも《象徴界》の言語として普遍性があるのだ。

…などと、結局は自分も『老子』を自分に分かる言葉に置き換えてしまったわけで、反省しなければならない。

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