創造的発狂
「創造的自殺」が有りうるなら、「創造的発狂」もまた有りえることに、ふと気が付いた。
人間の精神が複雑かつ千差万別で「正常」が確定できず、誰もが精神病者なのであれば、意図的に異常な精神を構築する「創造的発狂」が有効な方法論になる。
人間は誰もが精神病者で、それぞれが別々の症状を患い「みんな気が違って、みんな良い」のであるw
だから自分や他人の精神異常を気に病む事はなく、その事態を創造的に捉えれば良いのだ。
人は誰でも多かれ少なかれ「ダメな自分」を変えたいと思っている。
現在の自分からでつの自分に変わるという事は「気が変わる」事であり「気が違う」事であり「気違い」になる事に他ならない。
「ダメな自分」から脱却して生まれ変わるはずの「新しい自分」は、現在の自分とは気が違っている「気違い」なのであり、だから現在の自分が思いもよらない、大胆な思考や行動力を示すものと想定できる。
逆に言えば、気違いになるつもりでなければ、ダメな自分を変える事はできないのだ。
人間の精神が成長して変化するという事は、変化する前の精神に対し「気が違う」「気違いになる」事だと言える。
その意味で、子供は成長と共にどんどん気が違って行き、同じ子供でも小学一年生と六年生とでは、全く別人のように気が違っている。
人間の子供は成長と共に、どんどん気が違った人間に変化する。
しかしどのような方向に気が違ってゆくのかは、全く独自にではなく、周囲に合わせながら決めてゆく。
つまり子供達はだいたい同じような気の違い方を目指して、変化し成長してゆく。
誰が見ても普通人とは気が違っていると思える人は確かに存在する。しかし、普通の人の誰もが同じ精神の持ち主でない以上、それぞれが少しずつ気が違っているのだ。
そして普段はお互いが「気違い」である事が露呈しないように気を付けて振る舞い、そうして「正常な社会」が形成される。
子供達はみな、同じ方向に気が違う事を目指すが、しかし誰もが同じ精神状態になる事はあり得ず、必ず互いの精神に何らかのズレを生じているのであり、その意味で多かれ少なかれ気が違っている。
しかし、成長過程において他人とは異なる精神状態を獲得した人間が、一般に「気違い」と言われる。
自分で実践して気付いたのだが、哲学や宗教を自覚的に学び始めると、一般常識からどんどん遊離して、その意味で自分の気が違ってゆくのが自覚できる。
そして実際「最近の糸崎さんは宗教じみててアブナイ」などと言われるのだw
まぁ、ぼくの方がアブナイ気違いになりつつあるのか?そのようにぼくを見るみんなこそ気違いではないのか?は「人はみな精神病者」「みんな気が違って、みんな良い」の観点からお互い様だと言える。
いや、こういう発言自体が危険視されるのかもしれないが…
以上のことは、実は友達から無理ゲーなお願いされて、「ミッションをこなすには、今の自分を超えた気違いになるしかない!」と決意して、おかげで自分でもびっくりの仕事ができたので、このおまじないは効くのですw“
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コメント
「同じ子供でも小学一年生と小学六年生では、全く別人の様に気が違っている」←という部分に、いたく感心して(なるほど!)と思いました。
昨日、他の文章の所に初めてコメントをつけました。
今日また見ると、早速お返事があったので、とても嬉しい気持ちになりました。
また、読みにきます。
投稿: 感想。 | 2012年7月21日 (土) 05時23分
どうもありがとうございます。
>「同じ子供でも小学一年生と小学六年生では、全く別人の様に気が違っている」←という部分に、いたく感心して(なるほど!)と思いました。
今は大学1年の甥っ子ですが、実家に帰省する度に「別人」になっているので、不思議な気持ちになったのです。
ぼく自身も昔のことはすぐ忘れるので、1年前のブログを読み直しても、なぜどんな気持ちでその記事を書いたのかが今ひとつ思い出せず、それだけ「別人」になったと言えるかも知れません。
投稿: 糸崎公朗 | 2012年7月21日 (土) 10時07分