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2012年6月16日 (土)

劣等感と欠落感

2012年5月 3日 (木)『万能感と共同作業』の記事に、なつさんからコメントをいただいたので、新たな記事を書いてお応えします。

 確かに、『独りで作業を処理することは、往々にして信頼し得る仲間と友に作業を処理することに対して、とても効率が良くない』、と私も思います。

 仰られたことを私なりに噛み砕くならば、
『集団欲を満たしてくれる』、更にはもしかすると『自分を受け入れてもらえる』、そんな快の『感情・期待・認識』を抱きつつ仕事を行うならば、きっと内容が捗るでしょう。

 理想を実現することに対する喜び(つまり達成感)は実に心地よいです。
 ただ、感情に飲まれ己を見失ってしまうと、ろくなことはありませんね。

 今という瞬間に得られる感情を大事にすることは、生きる上で大切だと思います。
 それと同時に、自らを省みて【どのように生きることを良しとするか?】、その基準作りはこの上なく大切だ、とも思います。

 他人には他人の考え方があることを踏まえた上で、自分自身の(世界から学習した)基準・信念を踏まえて適切に行動を示す。
 そういった思考の際の観点の再確認を行えば、自分を含めたより広い範囲の人間をより深く容認・承認することによって、愛していくことが楽になるのではないでしょうか?

投稿: なつ | 2012年6月14日 (木) 17時06分


過去に遡ってコメントしていただいて、ありがとうございます。
一月ちょっと前の投稿ですが、あらためて読み返すと、自分は何でこんな文を書いたのか?ほとんど思い出せなくて我ながら呆れてしまいますw

しかも文意が分かりにくく、この人(過去の自分)が何を言いたいのか、一読しただけではよく分かりませんw
しかし、何度か読み返して分かるのは(ブログの文章が雑だと言うことはともかくとして)この一月の間にもぼく自身が変化して、それで文意が読み取りにくくなっていたことです。

特に、「劣等感」に対するスタンスが、一月前と現在の自分では全く変わっています。
端的に言えば、6月13日の投稿『勉強と才能』にあるように、今のぼくは「劣等感」を肯定的に捉えるようになりました。
つまり、ぼくには「才能が無い」という強烈な劣等感が昔からあったのですが、それを通して「才能」というものを対象化し、そのお陰で現在のアーティストとしての自分があったことに、あらためて気付いたのです

この他、最近、フェイスブックを通して自然写真家の武田晋一さんとやりとりしたのですが、彼が「自分は他人からはマメだと思われるけど、実は極めつけの横着者で、だから工夫や努力をしている」というように書かれて、ナルホドと思いました。
つまり「自分は横着者だ」という欠落感がなければマメにはなれないのです。
対してぼくは、他人から「あんたは横着者だ」と言われて自分にその意識がないのです。

また、同じくフェイスブックでアイドルカメラマンの山岸伸さんが「自分はゴルフに向いてない、だって悔しくないから」と言うように書かれていました。
これも同じことで「悔しい」と思う欠落感がなければ、ゴルフは上達しないし向いていないのです(もちろん写真の技術も同じ)。

いや、今「劣等感」という言葉を「欠落感」と言い換えて使いましたが、この両者は微妙に違います。
あらためて考えると、「劣等感」は自分が劣っていることに悩み、その悩みと自分が同化してしまって、どうしようもない状態を指すのではないかと思います。

これに対し「欠落感」は、自分にある種の欠落した要素があることを自覚し、その欠落した要素を対象化している状態、と言えるかも知れません。
そして人は専ら、この「欠落感」によって前進できるのだ、と最近のぼくは思うようになったのです。

仏教は「空」の概念を重視しますが、それはこの「欠落感」に通じるような気もします。
また老子には「器には無の空間が空いているからこそ、器としての用をなす」というように書かれています。
ラカンの原著も無理して読んでみると、ほとんど意味が分からないのですが、しかし「実現し得ないこと、到達し得ないこと」などについて、延々と語られているように思えます。

普通の感覚では、幸福とは「満ち足りること」なのですが、しかしそれは完成型でありゴールであり、人としての成長はそこで止まります。
もちろん、安定した幸福そのものは悪いものとして否定することは出来ません。
しかし少なくともぼくの場合は、常に欠落感を持って前進し続けなければ、アーティストとしての自分は保てないだろうと、思うようになったのです。

というわけで、前置きが長くなりましたが、なつさんのコメントにお応えすると、共同作業の利点はあるとしても「自分には協調性がない」という欠落感がなければ、長続きせず失敗するだろう思います。
あるいは、協調性に必要なさまざまな特質についての欠落感、と言い換えても良いかも知れません。
いずれにしろ、ぼくは過去にも「非ユークリッド写真連盟」や「世界の自然観察BBS」などの共同作業による創造を試みており、いずれもある程度は成功したものの、ある時点で続かなくなって止めざるを得ませんでした。

特にネット上での活動は、多くの人に迷惑が及んでしまい、今でも非常に申し訳なく思っています。
しかしそのように反省したつもりでいながらも、実は「自分には協調性がない」と言う意識があまり無かったことに、あらためて気付くのです。
もちろん、失敗の原因の全てが「自分の協調性の無さ」ではないにしろ、その欠落感が無いのであれば、この先も何度も同じ失敗を繰り返すだろうと思います。
なつさんは今回のコメントで、ぼくのそのような「欠落感の無さ」を指摘されたのかも知れませんし、少なくともぼく自身、自分の文章を読み返してそう思った次第です。

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コメント

 危機感がプラスに働く人と逆にマイナスに働く人がいるのでしょうが、僕の場合は典型的な前者、つまり、怒られて伸びるタイプであり、反骨型なんですね。
 人を怒るというのはエネルギーを要することなので、僕の周囲の大人たちは大変だっただろうなと思うことがあります。実際、よく怒られました。

 今でも、例えばお金がなくなってきたとか、何か危機がなければ頑張れない面が多々あります。
 しかし、それは本質ではないところに自分の行動の動機があることになり、そこに自分の限界が見えるような気もします。
 たとえるなら、途上国出身のボクシングのチャンピョンが、先進国の人の目には、優れているというよりはハングリーに映り、何となく尊敬されないのに似た感じです。

 逆に、僕の目から見て、競合する相手で怖いなと感じる人は、楽しいからという動機で、危機感なしに頑張れてしまう人なんです。
 本当は、自分もそうなりたいわけです。
 欠落感と危機感は、ちょっと違うかもしれませんが・・・

投稿: 武田晋一 | 2012年6月25日 (月) 09時00分

コメントありがとうございます。

> 逆に、僕の目から見て、競合する相手で怖いなと感じる人は、楽しいからという動機で、危機感なしに頑張れてしまう人なんです。

ぼくの感覚では、「楽しい」と言うだけで頑張る人は、長続きしないと思います。
しかし危機感そのものを楽しめる人も存在して、そう言う人は強いと言えるかもしれません。
ぼく自身も、現代日本の危機的状況を、一方では楽しんでいる面もあります。
人間の精神は複雑で、相反する要素が同居し、簡単に割り切らない方がクリエイディブな力が発揮できるように思います。

> しかし、それは本質ではないところに自分の行動の動機があることになり、そこに自分の限界が見えるような気もします。

「本質」というのは難しい概念ですが、それにこだわることはないだろうと思います。
なぜなら、人間の精神を始め、あらゆる物事は相互の複雑な「関係」で成り立っていて、そう考えると「本質」と「本質でないもの」を明確に分けることに、あまり意味を見出せないのです。
「危機感」というのも、武田さん自身のあり方を成立させる大事な要素だろうと思います。

>欠落感と危機感は、ちょっと違うかもしれませんが・・・

マイナス要素という点では同じですね。
「老子」によると、車輪の中心には穴が空いているし、壺の中は空洞だし、部屋には窓が開いていて、そのようなマイナス要素こそが大切なのです。
つまりどの分野でもプロで続けられる人は、自分の中のマイナス要素と向き合っており、だから簡単に用が済んだりしないのです。
しかし多くの人はマイナス要素を否定し、それを満たそうとして、そして何もかも「終わり」にしようとするのです。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年6月26日 (火) 00時26分

 危機感によらず、楽しいという理由で物事に打ち込める人がいたとしたら・・・

 それに対して、
「確かにそんな人は怖いよね。」
 とか、
「そんな人いるわけないやん。」
 とかいろいろな感じ方があるでしょうが、僕がそれを怖いと感じているのは、これまた危機感の表れなのでしょうね。

 自分は少なくとも当面は、そうはなれない(そうなりたいけど)。また、そんな人がいたら、太刀打ちできないような気がする。
 だから自分の場合は、危機感を糧にしていくしなかい、と。
 だから、やっぱり僕の場合、危機感なんですね。

投稿: 武田晋一 | 2012年6月27日 (水) 17時06分

武田さんの危機感は、もしかして危機感による充実感なのかも?

楽しい、と言うことについても、楽しさが充実感になってる人と、楽しむことで気晴らしや時間潰しをして人生を送る人もいます。

人生の送り方に「正しさ」はないですが、充実を求める人と、そうではない人の違いはあるだろうと思います。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年6月29日 (金) 08時33分

 危機感と充実感は、確かに、結び付いているように感じます。
 僕の場合は、危機感と充実感は、直結している、あるいは=というよりは、
「以前の危機の時も、まめに対応したら結局後で良かったじゃないか。だから今回も、ちゃんと対応しておこう。」
 という経験則なんです。
 したがって危機が目の前にある時点では、決して納得はしていないし、受け入れることはできてないですし、煩わしいなぁと思っていたりします。
 そう言えば、生物学の学生時代から、明快な論理に基づいた結論よりも、経験則と呼ばれている現象にひかれる傾向がありましたし、今でも、理論よりも格言に近いものが好きな傾向があります。

ともあれ、糸崎さんが、

「欠落感」は、自分にある種の欠落した要素があることを自覚し、・・・

と書いておられますから、欠落感を自覚の一種だとするならば、それが当人にとって受け入れられているのでしょうが、僕の場合は、受け入れるところまでいってないので危機感であり、レベルが低いわけです。

投稿: 武田晋一 | 2012年7月 2日 (月) 10時25分

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