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2012年7月25日 (水)

大乗アートと大乗仏教(改題)

勉強と才能」という記事に、「感想。(・∀・)」さんからコメントいただいたのですが、書いたはずの返信が消えてしまったので、あらためて記事として書き直してアップします。

>マンネリとは、ハタから見ると『個性や持ち味』ということなのですね。
>芸術家本人からすると「才能の枯渇」や「新しい閃きへの乏しさ」に対して悩んだりするものの、常に観察する側からすれば『マンネリ作品=個性』が一定しているという意味では「安心感」だったりする。

これぞまさに、ぼくが最近認識し始めた「大乗アートがの価値観です。
「大乗アート」ではアーティストも鑑賞者も、まさに大船に乗ったような「安心感」を求めるのです。

>初めて見る人からは、どれも目新しいだけに「斬新感」として感じられる←という感じでしょうか…?

「大乗アート」は、大乗仏教がそうであるように、大多数の人々のために存在します。
そして大多数の人々は、アートはたまにしか見ない、アートの非専門家です。
たまにしかアートを見ない人にとっては、おっしゃる通り何もかも新鮮に見え、だからこそ定番を用意する必要があるのです。
大乗アートにとって重要なことは「新鮮に見える」事です。
なぜなら真に新しく革新的なアートを、大多数の人にはアートとして認識してくれないのです。

>見慣れた人からすると「違うもんも見たい」「相互刺激がほしい」的な何かとか…。

アートを見慣れた人とは、つまりアートの専門家です。
専門家は勉強や修行によって自らを高め、目を高め、新たな認識を創造しますが、それが「小乗アート」です。
小乗アートは小乗仏教がそうであるように少数派で、自分一人の船を一生懸命漕ぎながら、常に少しでも前へ進もうとするのです。

一体なぜそんなことをするのか?と言う理由は単純ではありません。
一つ言えることは、「大乗アート」は実は常に「小乗アート」の成果を元に成立しているのです。
例えば、現在多くの人々に愛されている印象派絵画は、それが登場した当時は大多数の人に嫌われ攻撃され、一部の人だけがその良さを理解していたのです。
「小乗アート」とはアートの開拓者であり、その喜びがあります。
しかし同時に、開拓者は先に行き過ぎるために大多数に理解されず批判にさらされ、経済的にも困窮し、失敗するかもしれないリスクを負わなければなりません。

これは小乗仏教も同じで、初期仏典を読むと、ブッダが認識の開拓者だったことが理解出来ます。
しかし、ブッダがしたような孤独な認識の追求は、ごく少数者を除き、大多数の人には実践できません。

ですからブッダによる認識の開拓を土台にした「大乗仏教」が成立したのです。
大乗経典『法華経』を読むと、そこに説かれているのは認識の追求ではなく、認識を終了した後の「自明性」であることがわかります。
そして、そのような自明性を基盤として、人々に安心を与えるための「方便」を説いているのです。

ぼくは、3.11の大災害によって起きた様々な事象を見て、現代の日本社会が、法華経的な大乗仏教を基盤として成立してることを、認識しました。
表面上、現代日本人の大多数は仏教を信仰してませんが、大乗仏教は見えない骨組みとして存在し続け、人々の心や社会を支えているのです。
そのことはアートの世界にも及び、だから現代日本の主流も「大乗アート」なのです。

さて、ぼく自身は「大乗アート」なのか、「小乗アート」なのか?と問われると、振り返って考えて、両方の要素が混在していたと言えるでしょう。
そもそも「大乗アート」と「小乗アート」は明確に区別され棲み分けているのではなく、多くの場合、未分化で混在しています。

大乗仏教も、例えば龍樹という人が書いた経典は哲学書のように精緻で難解で、小乗的だと言えます。
有名な般若心経も、そこで説かれた「空」の教によって悩みから開放され安心を得ることもできる一方、「空」の認識を小乗的に深めることも可能なのです。

いずれにしろ、仏教にもアートにも、大乗と小乗の、異る二極があることは確かです。
そして、この二極を意識しながらコントロールする事で、新たなアートを生み出す事もできる・・・というのが、ぼくが所属するアーティスト集団「気体分子ギャラリー」の方針でもあるのです。

>ありきたりと言えばありきたりではありますが、ドールハウス的な3D紙細工とかも見たいです。

ありがとうございます。
フォトモはちょっとお休みしてますが、新たな展開も考え中ですので、しばしお待ちいただければと思います。

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コメント

すごくメタなものの見方ですね、見通しがよくなります。

投稿: 遊星人 | 2012年7月25日 (水) 20時10分

コメントありがとうございます。

メタな視点=象徴界
ベタな視点=想像界

と、言えるかも知れません。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年7月26日 (木) 00時50分

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