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2012年7月

2012年7月31日 (火)

大乗ラカン理論

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昨日(7月29日)見に行って、ちょっとだけ参加した日本ラカン協会主催のワークショップ『カタストロフィと精神分析―東日本大震災をめぐって
だが、斎藤環さんの講演も楽しみだった。
ぼくは斎藤環さんの『生き延びるためのカラン』に大きく影響を受けている、と言うか、ぼくでも理解できるようなラカン入門書は、斎藤さんのこの著書だけなのである。

しかし、アーティストの彦坂尚嘉さんに出会って、たとえ理解できなくとも超難解と言われるラカンを入門書ではなく原著の和訳で読むことを勧められ、彦坂さん主催のラカン読書会にも参加するようになった。

読書会で読むラカンはお経か呪文のようにほとんど意味がわからない。
しかしぼくは斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』を読んでいたので、想像界、象徴界、現実界、シニフィアン連鎖、大文字の他者、などのラカン用語の概要は理解してるつもりでいた。

いや、入門書を通じてラカン用語の概要を理解していたつもりでいても、実際にラカンの著書を読んでみると、ほとんどその理解の助けにならず、その「ズレ」を体感するだけでも読む価値はある。
変な話の様だが「世の中には自分の理解できない領域が存在する」と身を持って知るのは確かに重要だ。

いずれにしろ、ぼくは『生き延びるためのラカン』を通じて斉藤環さんにはお世話になっており、講演を直に聴けることが楽しみだったのだ。
斉藤環さんの講演タイトルは『原子力の享楽』で、アメリカに原爆を落とされた日本人が、戦後はアメリカの指導で平和利用のための原発利用を推進するという、その両義性について「享楽」をキーワードに語ってくれたのだった。

オタク研究家でもある斉藤環さんらしく、日本の漫画やアニメには「鉄腕アトム」から「ガンダム」に至るまで、原子力機関を搭載した主人公メカがいかに多いかを、図版を上映しながら示してくれたりして、なかなか面白かった。
あのドラえもんも原子力機関搭載だったのも驚きだったし、マジンガーZが光子力エンジンなのは知ってたが、パートナーロボのミネルバXが原子力エンジンなのはぼくも見逃していた(笑)
斉藤環さんによると原子力の享楽には「生の欲動」「死の欲動」の両義性があり、だからこそ人々は惹きつけられるのだ

斉藤環さんはまた、3.11の原発事故でまき散らされた放射能に対し、過剰反応する人々について「ケガレ」「換喩的感染」などの概念によって解説されていた。
ケガレの感情は換喩的感染によって人々に広がり、本質以上に隣接生、類似性が大きな意味を持つ。

換喩的感染とは、分かりやすく言えば子供がやるエンガチョのようなもので、科学的根拠よりも何より、放射能がケガレたものに思え、そのキヨメを求める気持ちによって非科学的なデマに踊らされる。

斉藤環さんは非知に対する人間の態度として「絶対安全である根拠がないので、絶対に危険」の「絶対危険であるという根拠がないので、相対的に危険」対立軸を示し、前者はともするとケガレの感情に結びつき、それもあって自分は後者の立場を取り、一部から「御用学者」のレッテルを貼られたそうだ。
以上の斉藤環さんの解説は、ぼくも確かに放射能に過剰反応する人には違和感を持っていたこともあり、納得できるものがある。しかし、これが事の本質なのか?と思うとどうも腑に落ちないし、釈然としない。

斉藤環さんはまた、フクシマ第一原発のライブカメラに写った「指さし作業員」がアーティスト竹内公太のパフォーマンスだったことを示しながら、東日本大震災とアートの関わりについても語っておられた。
「指さし作業員」に限らず、東日本大震災に触発されたアーティストの数は実に多いと言える。
これに対し1995年の阪神淡路大震災の発生時は、これをテーマにしたアート作品はそれほど多く見られず「それだけ社会が成熟したのだろうが、ぼくにはどうも分からない」と斉藤環さんはおっしゃっていた。

これを聞いてぼくはかなりビックリしたのだが、そもそも阪神淡路大震災と、東日本大震災では、被害の規模も種類も全く異なり、単純に比較する事自体がおかしいのである。
確かに、阪神淡路大震災は大きな被害をもたらしたが、しかし東京にいる自分には直接の被害は及ばず、その意味で他人事だと言える。

これに対し東日本大震災は、津波を伴う破壊力の大きさもさることながら、原発事故を伴っており、その被害は東京に住む自分にも及ぶ可能性がある。のみならず、その被害は一地域のみに留まらず、日本中はもとより世界中に広がる可能性もある。その恐怖は全く他人事ではなく、他の大地震と比較にならない。

だからこそ、斉藤環さんの言葉を借りれば「死の欲動」と「生の欲動」の両義的反作用に突き動かされて、アーティストはアートを作らざるを得ないのである。
少なくともぼく自身はそうだし、それを説明する斉藤環さん自身が、その事について「よく分からない」とおっしゃったことに、かなりの衝撃を受けた。

ぼくが3.11で衝撃を受けたのは、地震と津波の破壊力の大きさや、原発事故がもたらす放射能の恐怖もさることながら、これに対しまったく危機意識のない人々が膨大に存在する、その事自体にもっとも大きな衝撃を受けたのだった。
もちろん、ぼくは3.11以前は原発や放射能の知識はほとんど無に等しかったが、それでもアメリカに落とされた原爆や、チェルノブイリ原発事故を通じて、放射能が怖いものであるという意識だけは持っていた。
だからこそ原発事故は絶対に起きてはならないのであり、安全神話の信仰に自分も荷担していたのだ。それだけに、日本の原発が実際に事故を起こすと、まずは「恐怖」が先に立ったのだった。

ところが原発事故直後、そんなふうに恐怖していたのは自分と一部の友人だけで、大半の人々はまるで他人事のように呑気に構え「糸崎さんは心配しすぎだ」と相手にもされないのだった。
これは自分にとって放射能の恐怖以上に衝撃で、日本社会の知られざる「秘密」を自分だけが知った気になったのだった。

そう言うぼくの立場で講演を聴くと、斉藤環さんは東日本大震災によって「何が」もたらされたのかを今ひとつ把握できておらず、「阪神淡路大震災と比べて何が違うのかよく分からない」と言い、放射能の問題をケガレの問題として片付け、まるで「他人事」のように淡々と解説されてるように思えるのだった。

恐らく斉藤環さんからすれば、ぼくはケガレの感情に取り憑かれたタイプの典型的に分類されるかも知れないし、現にそうである可能性は否定できない。
しかしぼくが見たところ斉藤環さんの表情は「死の欲動」と「生の欲動」の両極的振れ幅からほど遠い、安寧の世界に沈んでおられるようにも思えてしまう。

いや実際、世間の常識からすれば「安寧」を求めることこそが正常で、ぼくのようにガイガーカウンターで各地を計測しながら、落ち込んだり、はしゃいだり、あまつさえそれを作品化したり、そういうアーティストの方が異常なのである。

斉藤環さんは著書も多く出されて、ぼくなんかに比べてはるかに社会的評価が高く、メジャーな方である。
先に書いたように、ぼく自身も斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』を読んで、影響を受けているのだ。
しかし今になって振り返ると、あらゆる入門書が大乗的なのであり、斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』もオリジナルのラカンとは似て非なる「大乗ラカン」だったと考えられるのである。

斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』は「中学生でも分かるラカン入門書」として絶賛され、ぼくも「分かるから面白いし為になる」と思っいたのだが、今思えばそれこそが「大乗的」思考である。
中学生だったらまず『ブッダのことば』などの古典を読むべきだし、それこそが「中学生でも分かる哲学」だと思うのだ。
いやぼく自身、中学生の頃そういう本を読んでいれば良かったと、今になって後悔してるだけの話なのだが・・・

ともかく、「大乗的」なるものと「小乗的」なるものは、どちらが良い悪いではなく、生きる目的や価値観が違っている、と言うだけの問題に過ぎない。
「より多くの人々を助ける」という大乗の目的はそれ自体は文句の付けようのない正しさがあり、だから中学生にも分かるラカン入門書を書いた斉藤環さんも正しいのである。

そして「小乗的」な人は何も自分だけが助かれば良いと思っているわけではなく、ともかく「欲動」に突き動かされ、その両極端に揺れ動き、「過剰」を生み出してしまうのだ。

と、以上のようなことが納得できて、自分としては非常に有意義な、ラカン協会主催のワークショップなのだったが、しかしこの記事自体も入門書のような分かり易さがあって、それを考えると自己嫌悪に陥ってしまうのだった(笑)

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2012年7月30日 (月)

日本ラカン協会ワークショップでの『フクシマアート』

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7月29日に専修大学で開催された、日本ラカン協会主催のワークショップ『カタストロフィと精神分析―東日本大震災をめぐって』に、講演者の一人である彦阪尚嘉さんのお手伝いも兼ねて参加した。

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彦坂さんの講演テーマは『《正常性バイアス》と人格構造〜3・11のカタストロフィーと心的領域のデジタル化』。
今回の彦坂さんは、ご自身としては初めての試みとして、原稿を用意して講演をされたのだが、その全文をブログでも公開されている。
http://kb6400.blog38.fc2.com/blog-entry-620.html

スクリーンに上映されているのは南相馬市の被災者住宅集会所に、『フクシマアート』の一環として描かれた壁画作品。

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ぼくの『フクシマアート」も上映。
ガイガーカウンターの計測グラフと、計測場所の風景写真を合成した『日本マイクロシーベルト』である。
http://www.fractionmagazinejapan.com/jpne/cn47/pg397.html

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さらに福島市在住で福島民友新聞のカメラマン、矢内靖史さんの『フクシマアート』である『棕櫚の日曜日』も上映。
矢内さんの写真も、以下のブログで見ることができる。
http://alukufukushima.blog.fc2.com/

ちなみにこれは講演者による対談の様子で、そうそうたる顔ぶれを比較するだけでなかなかに興味深い(笑)
この間、我々のフクシマアートもエンドレスで上映され、来場された皆さんにもじっくりと見ていただくことができた。

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2012年7月28日 (土)

オレがオレに騙されるオレオレ詐欺

日本人はどれだけダメなのか?を認識することは、自分はいかにダメなのか?を認識することと、同時進行でなければ意味が無い。
何故なら日本のダメさを憂いながら、自分のダメさを棚に上げるのが、日本人のダメなところだから。

ところで、他人を詐欺に陥れ、しかし当人は詐欺師ではなく、自分が詐欺行為をしたと言う意識もない、そんな人が少なからず存在する。
こう言う人は、まずオレがオレに騙される「オレオレ詐欺」に遭っている。

オレがオレに騙されるオレオレ詐欺の人は、何の実力もないのに「オレの実力は凄い」とオレがオレに騙され、結果として他人を詐欺に陥れる。
そして相手に「お前は詐欺師だ!」と告発されても、オレはオレにすっかり騙され切っており、全く聞く耳を持たず、反省の色も無く、同じ詐欺を繰り返すのだ。

詐欺の被害者が、詐欺に遭った事をしばしば認めないのは、愚かな自分を認める事が恐怖だからだ。
同じ様に、オレがオレに騙されている事をオレが認めないのは、愚かなオレを認めるのが怖いオレがいて、そいつがオレを騙すから。
騙すオレと騙されるオレは共犯関係にあり、そして他人を巻き込み詐欺に陥れるのだ。

有り体に言えば、オレがオレに騙されるオレオレ詐欺の人は、ハッタリをかますだけで全く実力が伴わず、それで人々に迷惑を掛けまくる人を指す。
このようなオレオレ詐欺に巻き込まれないためには、他ならぬオレ自身がオレに騙されないような智慧を身に付ける必要がある。

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生物における《象徴界》(改題)

構造主義が科学的方法論なのだとすれば、それは《現実界》のリテラシーなのであり、《象徴界》のリテラシーを対象化する。
《象徴界》のリテラシーは、全てが幻想である事を明らかにし、《現実界》のリテラシーは、全てが言葉である事を明らかにする。

人間は言葉を介して世界を認識する。
人間は目に映る事物を言葉に置き換えながら、世界を認識する。
人間はさまざまな事物を文字のように読みながら、世界を認識する。
この場合、文字のように読みながらも文字の使用はなく、あくまで話し言葉だけによる読解で、それが《想像界》のリテラシーなのである。

人間が話し言葉だけで世界を認識する場合、認識する端から世界は曖昧な記憶による幻想に置き換わり、それが《想像界》である。
無文字文化の原始社会を生きていたかつての人類は、《想像界》だけに生きていた。

人類が文字を使うようになると《象徴界》のリテラシーが生じる。
曖昧な記憶による話し言葉が文字に記録されると、一切の言い逃れが不可能な、新しいリテラシーが生じる。

文明の発祥時、文字は非常に貴重なものであり、国家の支配者層だけが文字を使用し、「大事な事」だけが文字として記録された。
この場合の「大事な事」とは、人間が都市を形成し大人数で暮らすために必要な事であり、それが法律であり、世界宗教であり、哲学なのである。

無文字段階の人類は、血縁関係による数十人規模の集団生活をしていた。
そこでは口伝による掟や神話が人々を結束し、狩猟採集をはじめとする共同作業を可能にしていた。

人類が農業を始め、都市を形成すると、血縁関係以外の大人数の人間が同一箇所に住む事になり、曖昧な記憶による話し言葉だけでは人間関係が保てなくなる。
そこで大人数の人々を結束するための、書き言葉のリテラシーである《象徴界》が生じる。

《象徴界》のリテラシーは、書き言葉による記録の蓄積が可能なため、大多数の人々を束ね、大規模な農業や都市の建設など、《想像界》のリテラシーではなし得ない事が可能となった。

文明社会では、《象徴界》のリテラシーを獲得した人が、《想像界》のリテラシーしか持たない人々を支配しコントロールする。
《象徴界》とは人々を支配しコントロールするためのリテラシーなのである。

《象徴界》とはまた、自分自身を支配しコントロールするリテラシーでもある。
それが初期仏典、諸子百家、ギリシア哲学、聖書などの古典であり、これら《象徴界》のリテラシーが貴重だった時代のテキストには「一番大事な事」が書かれている。

《象徴界》のリテラシーは、文字という間接性で世界を把握し、文字に記録された世界と、曖昧な記憶の世界とのズレを常に把握する。
つまり、《象徴界》のリテラシーは《想像界》のリテラシーを対象化し、目に見える世界が幻想にすぎない事を見極める。

《想像界》のリテラシーは、事物を直接「話し言葉」に置き換える、直接性に依拠している。
いや、「話し言葉」は伝達のレベルでは間接性を有するが、認識のレベルでは直接性に依拠している。
その意味で、あらゆる生物には、認識のレベルにおいて《言語》が存在する。

人間は生物に普遍的な機能としての「認識のための言語」を外部化した「話し言葉」によって、「コミュニケーションのための言語」を獲得した。
なぜなら、あらゆる生物が何らかの認識をするのであり、認識とは有用物のそうで無いものの区別であり、あらゆる区別は記号的に処理される。
だからあらゆる生物が、種に固有の、認識のための言語を有していると言えるのだ。

いや人間に限らず、あらゆる生物が何らかのコミュニケーションを行うが、それは「認識のための言語」をコミュニケーションに応用しているに過ぎない。
人間の場合も「場の空気を読む」「顔色で察知する」などの非言語コミュニケーションを行う場合は、生物として普遍的な「認識のための言語」をコミュニケーションに応用していると解釈できる。

例えば、イヌは素晴らしく高度で繊細な「非言語コミュニケーション能力」を持っており、それはコンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪』に詳しい が、人間はその能力を完全には失ってはいないものの、だいぶ退化しているのであり、それを「話し言葉」で補っていると言えるだろう。

《象徴界》とは何か?を考えるに当たり、まずあらゆる生物に《象徴界》は存在すると考えてみる。
生物の身体は、他のあらゆる物質から象徴的に区別され、存在として屹立している。
DNAの文法によって構築されは身体は、それ自体が固有の文法を持つテキストとなる。

あらゆる生物は身体形成のレベルで、身体の存在レベルで、認識のレベルで《象徴界》が存在する。
そして人間だけが、生物に普遍的な《象徴界》がさらに「音声言語」として外部化した《象徴界》を有する。
人間の音声言語は《象徴界》の《象徴界》として二重化している。

いや、生物における《象徴界》とか、考えると泥沼になるからやめよう・・・要するに、人間が言葉を使い思考することの不思議さの根拠を、生物そのものに求めてみたのだが、突き詰めると存在論になったりして、自分の実力では手に負えない。
やり過ぎると「言語」の定義そのものが溶解し、思考自体が無意味になる。

目的もなく、ただ根元に遡ると必然的に行き詰る。根元に遡るのは、あくまで前進するためであり、前進しながら遡らなければ意味が無い。逆に言えば、ただ前進するだけでは必ず行き詰まり、前進するには同時に遡ることが必要なのである。

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2012年7月25日 (水)

大乗アートと大乗仏教(改題)

勉強と才能」という記事に、「感想。(・∀・)」さんからコメントいただいたのですが、書いたはずの返信が消えてしまったので、あらためて記事として書き直してアップします。

>マンネリとは、ハタから見ると『個性や持ち味』ということなのですね。
>芸術家本人からすると「才能の枯渇」や「新しい閃きへの乏しさ」に対して悩んだりするものの、常に観察する側からすれば『マンネリ作品=個性』が一定しているという意味では「安心感」だったりする。

これぞまさに、ぼくが最近認識し始めた「大乗アートがの価値観です。
「大乗アート」ではアーティストも鑑賞者も、まさに大船に乗ったような「安心感」を求めるのです。

>初めて見る人からは、どれも目新しいだけに「斬新感」として感じられる←という感じでしょうか…?

「大乗アート」は、大乗仏教がそうであるように、大多数の人々のために存在します。
そして大多数の人々は、アートはたまにしか見ない、アートの非専門家です。
たまにしかアートを見ない人にとっては、おっしゃる通り何もかも新鮮に見え、だからこそ定番を用意する必要があるのです。
大乗アートにとって重要なことは「新鮮に見える」事です。
なぜなら真に新しく革新的なアートを、大多数の人にはアートとして認識してくれないのです。

>見慣れた人からすると「違うもんも見たい」「相互刺激がほしい」的な何かとか…。

アートを見慣れた人とは、つまりアートの専門家です。
専門家は勉強や修行によって自らを高め、目を高め、新たな認識を創造しますが、それが「小乗アート」です。
小乗アートは小乗仏教がそうであるように少数派で、自分一人の船を一生懸命漕ぎながら、常に少しでも前へ進もうとするのです。

一体なぜそんなことをするのか?と言う理由は単純ではありません。
一つ言えることは、「大乗アート」は実は常に「小乗アート」の成果を元に成立しているのです。
例えば、現在多くの人々に愛されている印象派絵画は、それが登場した当時は大多数の人に嫌われ攻撃され、一部の人だけがその良さを理解していたのです。
「小乗アート」とはアートの開拓者であり、その喜びがあります。
しかし同時に、開拓者は先に行き過ぎるために大多数に理解されず批判にさらされ、経済的にも困窮し、失敗するかもしれないリスクを負わなければなりません。

これは小乗仏教も同じで、初期仏典を読むと、ブッダが認識の開拓者だったことが理解出来ます。
しかし、ブッダがしたような孤独な認識の追求は、ごく少数者を除き、大多数の人には実践できません。

ですからブッダによる認識の開拓を土台にした「大乗仏教」が成立したのです。
大乗経典『法華経』を読むと、そこに説かれているのは認識の追求ではなく、認識を終了した後の「自明性」であることがわかります。
そして、そのような自明性を基盤として、人々に安心を与えるための「方便」を説いているのです。

ぼくは、3.11の大災害によって起きた様々な事象を見て、現代の日本社会が、法華経的な大乗仏教を基盤として成立してることを、認識しました。
表面上、現代日本人の大多数は仏教を信仰してませんが、大乗仏教は見えない骨組みとして存在し続け、人々の心や社会を支えているのです。
そのことはアートの世界にも及び、だから現代日本の主流も「大乗アート」なのです。

さて、ぼく自身は「大乗アート」なのか、「小乗アート」なのか?と問われると、振り返って考えて、両方の要素が混在していたと言えるでしょう。
そもそも「大乗アート」と「小乗アート」は明確に区別され棲み分けているのではなく、多くの場合、未分化で混在しています。

大乗仏教も、例えば龍樹という人が書いた経典は哲学書のように精緻で難解で、小乗的だと言えます。
有名な般若心経も、そこで説かれた「空」の教によって悩みから開放され安心を得ることもできる一方、「空」の認識を小乗的に深めることも可能なのです。

いずれにしろ、仏教にもアートにも、大乗と小乗の、異る二極があることは確かです。
そして、この二極を意識しながらコントロールする事で、新たなアートを生み出す事もできる・・・というのが、ぼくが所属するアーティスト集団「気体分子ギャラリー」の方針でもあるのです。

>ありきたりと言えばありきたりではありますが、ドールハウス的な3D紙細工とかも見たいです。

ありがとうございます。
フォトモはちょっとお休みしてますが、新たな展開も考え中ですので、しばしお待ちいただければと思います。

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2012年7月23日 (月)

ラカン読書会メモ

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「日本ラカン協会」主宰の、フランス語で『エクリ』を読む読書会に参加してきました。
彦阪尚嘉さんに誘われたのですが、そうでもなければ自分から行くという発想はなかったです。

もちろん、ぼくはフランス語は分かりませんが、フランス語の読解は日本語でされるので、いちおうは理解できます。
しかし、ラカンの著書そのものが文字通り超難解で、フランス語で読んでいる先生方も「難しい・・・」と頭を抱えながら、4時間かけてプリント2枚分のテキストを読んでいったのでした。

だからぼくが全く理解できなくても気に病むこともないのですが、以下、ほんのわずかながらメモです。

■急いで製作するのも技法のうち。グズグズして後回しにすると、何物も未完成に終わる。未完成でもとりあえず完成させる事が、完成させる事にとって大切。

■全ての創造物は、緊急において現れる。緊急において、パロール(話し言葉)における自らの過剰を生み出さぬものはない。

■一切は、賭けの瞬間であり、必然は無く、偶然しかあり得ない。

■分かったつもりの安心感によって、分かり得ない事の不安を覆い隠すのである。

■太陽と死は直視できない。

■恒星のように自ら輝く人と、恒星の光を受けて輝く惑星のような人と、光の届かない闇に紛れる人々がいる。

■神経症患者は、いつでも何かが足りないと疑いながら、何事もなし得ないで終わる。

■神経症患者は、「ためらいと先送りの行動プログラム」に感染している。

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2012年7月22日 (日)

出現!盆栽ツギラマ


新作の「盆栽ツギラマ」その1。


「盆栽ツギラマ」その2、です。

アーティストのブログらしく、たまには作品を掲載しないといけないのですが、さいたま市大宮盆栽美術館で開催中の企画展、『夏休みアート教室 みんなで展覧会をつくろう!』の展示作品です。

同館の展示品である盆栽を、1年掛けて撮影したシリーズで、10月に個展を開催するのですが、その内の2点をこの企画展に出品してるのです。

盆栽も極めると、生きた植物を素材とした「人称芸術」になる、と言うことが盆栽美術館の展示品を見るとよく分かります。

一方、ぼくは「非人称芸術」のコンセプトに基づき作品を展開してきたので、これまでの自分の感覚では、盆栽を自分の作品として撮影をするのは不可能でした。

しかし、アートプロデューサーの田中廉也さんから、「盆栽美術館で作品を撮って、個展をやりませんか?」と声を掛けていただき、ここで断ったらもうアーティストとしては先細りしていくしかないだろうと思ったぼくは、思い切ってその申し出を承諾したのでした。

そもそも田中廉也さんのように、ぼくを評価してくれる上に仕事まで依頼してくださる方はごく希で、そんな方が与えてくださったチャンスを無碍に断ることはできません。

しかし実際、盆栽美術館の盆栽に対面すると、その完成度の高さに圧倒され、自分がこれを撮って作品化する必然性が、全く感じられないのでした。

これまでのぼくの写真は、フォトモにしろ、ツギラマにしろ、路上ネイチャーにしろ、撮影の対象物が「芸術ではない」からこそ、作品として成立していたのです。

しかし完成度の高い盆栽はそれ自体が芸術作品で、だから安易に撮影して作品に置き換えても、元の盆栽に負けることは明らかなのです。

そうは言っても、いちど撮影の依頼を受けてしまったからには後戻りすることはできず、半年近くろくに撮影もできず(なぜなら何のアイデアも出ないから)悩む日が続いたのでした。

そんなふうに頭を抱えるばかりのアーティストに対して、田中廉也さんも盆栽美術館の学芸員さんも、さぞかし不安だったろうと思うのですが、その間ぼくは、このブログに書いてきたように「創造的自殺」と「創造的発狂」を繰り返しながら、「盆栽撮影に挑む自分」を創り上げようとしたのでした。

それでついに、ご覧の通りの「盆栽ツギラマ」の技法を開発し、いやぁ、自分としてもホッとしました・・・一時は本当に何もアイデアが浮かばず、半ば本気でトンズラするしかないと思ってたのです(笑)

田中廉也さんの依頼は非常なプレッシャーでしたが、しかしぼくの才能を信じてくれていたことも事実で、そのお陰で自分はアーティストとして飛躍できたわけで、あらためて感謝いたします。

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夏休みアート教室 みんなで展覧会をつくろう! 期間:2012年7月13日(金)~9月2日(日) 場所:大宮盆栽美術館 企画展示室

夏休みアート教室 ワークショップ⑥ 期間:2012年8月5日(日) 場所:大宮盆栽美術館 講座室 【写真を撮って切り抜いて―ボンサイフォトモ+】 盆栽を撮った写真を切り抜き、イラストをまじえて、盆栽のある風景のジオラマを制作します。 ◆講師:糸崎公朗(写真家) ◆参加費用:300円 ◆応募締め切り:~7月22日(日)

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2012年7月20日 (金)

理不尽と霊界

霊というものは理不尽であり、理不尽なのは霊である。
だから《象徴界》の精神を欠いた親に、理不尽な叱られ方をされて育った子供は、大人になっても理不尽な親の「生き霊」や「死霊」に取り憑かれる。
そして、理不尽な影を親以外の他人に投影し、その恐怖に怯えながら人生を送る羽目になる。
些細なことで急に怒り出し、周囲を困惑される人はこのパターンの場合がある。

「生き霊」や「死霊」や「霊界」は、何か「実体」として存在するのではなく、あくまで人間精神のあり方として存在するのであり、その意味で「世界」そのものの存在と同じレベルなのである。

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大乗アートと小乗アート

東京国立近代美術館で『写真の現在4』見た後、新宿界隈の写真ギャラリー、蒼穹舎、プレイスM、トーテムポール、と自分には珍しく写真展の梯子をしたが、アートには「大乗アート」と「小乗アート」と二種類あることが、改めて実感できた。

仏教に「大乗仏教」と「小乗仏教」があるように、アートにも「大乗アート」と「小乗アート」がある。
ぼくは大乗仏教も小乗仏教も、どちらの経典も読んでいるので良く分かる。
そして日本の仏教界の主流が大乗仏教であるように、日本のアート界は大乗アートが主流なのである。

ぼくはこれまで「写真がわからない」とか「アートがわからない」などと公言し、その中心から距離を置いてきたが、分からない事の大きな理由の一つが、写真を含む日本のアートが「大乗アート」だった為なのだ。
そしてぼく自身は、アートの大乗と小乗の区別が未分化で、モヤモヤしてたのだった。

自分自身をアーティストとして振り返っても、作品のあり方としても、精神のあり方としても「大乗アート」と「小乗アート」の要素が自覚なしに混在し、その意味で混乱し、中途半端だったと言える。

「大乗アート」は、ある種の自明性の上に成立してる事が特徴である。そして自分は「アート」の名の下に、なぜこの種の自明性の存在が容認されているのか、理解不能だった。
一方自分の作品も、ある面では自明性の否定をテーマにしていたが、別の面では自明性を疑う事ができず、中途半端であった。

自明性を疑うにはそのための技術が必要で、それが哲学なのだが、自分は哲学を「入門書」で済ませていた分、中途半端で不十分だったと言える。
そもそも入門書と言うもの自体が「大乗哲学」の産物なのだった。
しかしインド哲学である初期仏典を読むと、これは自明性を疑う学問である事がよく分かる。

初期仏教=小乗仏教の経典を読むと、自然としての人間に備わる自明性(怒りや愛欲などの感情)や、宗教的自明性(苦行や輪廻転生)など、さまざまな自明性を疑いながら、独自の哲学を構築しているのが分かる。
これに対し大乗経典『法華経』は明らかなる自明性の上に成立している事が記されている。

『法華経』と言う経典の特徴は、「法華経は素晴らしい」という賛辞が延々と書かれているのに対し、その内容は「誰にも理解できないほど素晴らしい」として、一切触れられていない点にある。
つまり『法華経』の素晴らしさは疑い得ず、そのような自明性の上に『法華経』は成立している。

『法華経』と同じように、日本で主流の「大乗アート」もある種の自明性の上に成立している。
例えば、東京国立近代美術館に展示された作品は疑いもなくアートなのであり、各作品も、疑いもなくアートで有り得るような方法で制作されている。

初期仏典には「寺」の概念が存在せず、乞食生活する「出家」が推奨されている。
しかし現代日本の大乗仏教で「寺」は疑い得ない自明性として存在している。
同じように現代日本では、美術館が疑い得ない自明性として存在し、そこに展示された作品もまた、アートとして疑い得ない自明性として存在する。

大乗と小乗の概念は、仏教の専売特許ではなく、あらゆる分野に当てはまる。
キリスト教も聖書を読むと「教会」の概念が存在せず、イエスは行く先々で辻説法をしている。
しかし後の時代になると立派な教会が建てられるようになり、キリスト教会が大乗化される。

つまり仏教もキリスト教も、世間の主流を占める自明性を否定する「小乗」として始まり、しかし自明性の否定から生じた成果は、それ自体がいつしか自明化し「大乗」に至るのだ。
そして写真を含むアートにも、同じ事が起きているのである。

写真を含む日本の現代アートは、ある種の自明性の上に成立し、それを疑う者は殆どいない。
と言ってもほとんど誰も相手にしてくれないのが自明性の自明性たる所以である。
それは自分の『反-反写真』の実験でも明らかで、このシリーズは自分自身が「自明性」なるものを認識するための実験でもあったのだ

ここで自分が問題にしている「自明性」は、多くの人にとっては全くの無問題で、だからぼくの指摘は認識されず、批判は批判とならなず、双方に何も問題は生じない。
しかし結局悩むのはぼくの方であり、だからこれは他ならぬ自分自身の問題なのだ。

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2012年7月14日 (土)

欲望の強さと認識力

人間関係は基本的に「独り相撲」なのだが、それにも程度があって、他人への承認欲求が強い人ほど認識力が低下し、独り相撲の程度が酷くなる。
他人への承認欲求の強い人は、欲の強さのため認識力を欠いており、そのために相手の承認欲求をシャットアウトする、という非対称性に気付かない。

他人への承認欲求が強い親に育てられて子供は、自分自身の親への承認欲求を遮断され、承認欲求の相互関係を理解しないまま大人になることがある。そして、そのような親の行動プログラムを自動的にコピーし、自分が嫌いな親そっくりの性格に、自分もなってしまう。

欲が強いと認識力が欠ける、と言うのは『老子』冒頭の教え。
過度な「独り相撲」の呪縛から解放されるには、自分の中の「欲」そのものを認識する必要がある。
だが「自分」に紛れて隠れている「敵としての自分」は発見困難で、だから自分の親を観察し、そのオリジナルを探すことが有効なのだ。

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2012年7月13日 (金)

汝の敵とコピープログラム

「唐沢俊一検証Blog」4周年だそうで、おめでとう&おつかれさまです。
4周年目の記事タイトル「おまえの敵はおまえだ」はまさにぼくにも当てはまる問題で、「敵としての自分」は「自分」に紛れて姿が見えず、そのくせ他人から丸見えという特徴がある。
そして、自分にとっての最大の敵は、唐沢俊一のような「現実界だけの人格」「心が無い人」ではなく、まさに「敵としての自分」なのだった。

「敵としての自分」が自分からはよく見えず、他人から丸見えなのは、つまりは他人からは「お前は敵だ」という信号が発せられてるにもかかわらず、自分はそれをキャッチする回路がオフになっている状態を指す。
「敵としての自分」は、他人の訴える不満を巧妙に聞き流し、その姿を「自分」の認識から消している。

「敵としての自分」は、自分の観察不足によって発生する。
だから初期仏典『ブッダのことば』には「自分をよく観察すること」と繰り返し説かれている。
あるいは『老子』には「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」と説かれている。
こうした場合の観察を阻むものは何か?それは人間精神に備わる、鏡像関係の機能による、コピープログラムに他ならない。

人間は、他人の「行動プログラム」を、自分の精神に鏡のように映し出し、コピーする。
このコピーは全く無自覚に行われるため、自分が嫌だと思う行動プログラムも構わずコピーされる。
自分がされた嫌なことを、別の他人に対し繰り返し行ってしまうことがあるのは、そのためである。

他人からコピーされた行動プログラムは、思考の介入無しに自律して自動作動する。
だから自分が他人から見て、いかに嫌な奴として振舞おうとも、自分では全く認識できない、と言うことが起きる。
「敵としての自分」とは他人からコピーされた見えない行動プログラムであり、これを観察によって発見する必要がある。

人間精神の多くの部分は、思考が介入しない行動プログラムにより自動作動する。
そして人間は、他人から様々な行動プログラムを無自覚にコピーする。
他人からコピーした無数の自動作動する行動プログラムが、複雑に関係し合いながら、人間精神は形成される。

人間の精神は複雑で精密な自動機械として機能する。
この特徴を自覚すれば、精神の自動機能に抵抗しながら、思考を介して観察や反省を行うことができる。
複雑に絡み合った行動プログラムを解きほぐし、「敵としての自分」を抽出し、これを排除できるようになる。

「敵としての自分」が、他人からコピーした行動プログラムなのであれば、自分の精神形成に最も大きな影響を与えた親の精神に、「敵としての自分」のオリジナルの多くが潜んでいる可能性が大である。
仲の悪い親子同士が、傍目にそっくりの性格に思えるのは、よくあることだ。

親の精神に「敵のしての自分」のオリジナルを発見するには、親を嫌ったり憎んではならない。
嫌悪や憎悪は観察を阻害する。
そうでは無く、自分の親の欠点まで含めて愛することができれば、冷静に相手の欠点を見据えることができ、これを鏡として「敵としての自分」も観察できるようになる。

例えば、些細なことで口やかましく自分を責める母親に対し、「なかなか面白い人だ」と思って愛することが出来れば、自分自身も他人に対し、些細なことで口やかましく責める性質のあることが、発見できるのである。

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2012年7月11日 (水)

言葉が通じても話が通じない場合の対処

「さよならオタキングex 私がオタキングexを辞めた理由」 http://t.co/haHmEdfu の岡田斗司夫批判が非常に興味深い。
最近ぼくが認識する「現実界だけの人格」にそのまま当てはまる。

岡田斗司夫的な人間はぼくの身近にも何人かいて、ぼく自身の悩みの種なのだが「他人事」として眺めると、この種の人間にはまともな言葉が一切通じず、自分の不満や、相手の不備を伝えようとすることが、絶望的に無理なのがよく分かる。

岡田斗司夫はぼくの認識では「現実界だけの人格」で、分かりやすい言葉で言えば「心がない人」で、こういう人とは言葉は通じても話が通じない。
なぜなら、話が通じるためには、その前提としてお互いの「心が通じる」必要があるのに、それがないのだ。

「現実界だけの人格」「心がない人」は、人として必要な心の要素に欠損があり、ある意味「気が狂っている」と言える。
こういう人はまともに相手をするだけムダで、そうしようとする方が間違っている。
つまり全てをあきらめ相手にしないことが解決策だった。

しかし身近な人間、仕事で関わる人間の「相手をしない」というのもなかなか難しく、技術を要する。
ひとつは「自分に厳しく相手に甘く」の二重規範を徹底すること。
別の言い方をすれば、相手と鏡像関係を結ばない、つまり自分の自我を相手に延長しないこと。

相手の言動に対し、自分がイライラするのは、相手と鏡像関係を結び、自分の自我を相手に延長してるから。
それが良い方向に働かせると「心が通じる」事になり「話が通じる」事のベースになる。
しかし「心がない人」に対してはこの回路をカットする必要がある。

簡単に言えば、相手と自分とは「カンケーねー!」と徹底して思うこと。
こそから新たな関係の可能性が見えてくる。
例えば仕事で「心がない人」と関係する場合、お金と契約の関係だけに徹底し、そうすれば自分にとって大切な仕事の「内容」と切り離せる。

「言葉は通じても話が通じない人」「理屈を通して筋を通さない人」という場合の「話」「筋」とは、突き詰めると人間の尊厳のこと。
つまり「他人の尊厳をないがしろにする人」が存在する。

「他人の尊厳をないがしろにする人」はそれをしてる自覚がなく、尊厳と言う概念もなく、だから話が通じず、筋も通さず、周囲の人々を振り回し疲れさせる。
しかしそう言う人に振り回されるのは、どこかで話が通じると信じてる、自分の認識の甘さが原因。

話が通じない人、筋を通さない人、尊厳をないがしろにする人、に対しイライラするのは、相手が悪いのでは決してなく、どこかで話が通じるはずだと信じてる、甘い認識を持つ自分の方が悪いのだと自覚しなければならない。

罪の自覚の無い人を責めることは原理的に不可能で、このような場合、罪の自覚の無い人を信じる自分の甘さを責めるべき。
厳しく認識するならば罪人は存在せず、問題も存在せず、イライラは自分の独り相撲でしかなく、それが分かれば全ての問題は解決する。

突き詰めて考えると、あらゆる人間関係は本質的に「独り相撲」なのだと言える。
何故なら人は、見えない他人の内面を想像や思い込みで補完しながら関係を築くから。
だから相手がいかに自分の尊厳を傷つけようとも、自分は尊厳を持って自分の相撲を取れば良いだけの話なのだ。

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2012年7月 7日 (土)

客観と主観

人間にとって、目の前の他人はそのすべてを知り尽くすことはできす、半分は自分の想像や思い込みで補完した、自分の創造物だと言える。
同じように目の前の「世界」も、純粋な客観として存在するのではなく、半分は自分の思い込みや想像によって創られている。

その意味で、人間は「世界」の創造主であり、人間の数だけ異なる「世界」が存在する。
だが、人それぞれの「世界」は全く異なるのではなく、ある程度共通項があり、それが「客観」と言われている。
しかし客観は常に限定的で、絶対の客観は存在しない。

例えば、三人の見解の一致から三人分の客観が生じ、三百人の見解の一致から三百人分の客観が生じ、三億人の見解の一致から三億人分の客観が生じる。
しかしどれだけ多くの人の見解が一致しようとも、客観は常に限定的であり絶対ではない。

つまりどれだけ多くの人々の見解が一致しようとも、人間の不完全な認識を想像や思い込みで補完している点において、個人的見解と違いはない。
見解の一致とは、想像や思い込みの一致でしかなく、客観的世界もまた人間の創造物なのである。

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言語と幽霊

パソコンにはデータの圧縮、という技術があるが、これが可能なのは、そもそも人間の意識に圧縮機能があるから。
なぜ意識に圧縮機能があるのかと言えば、意識を生み出す言語に圧縮機能があるから。
そのような、人間に本来備わる圧縮機能を道具として外部化したのがパソコンのデータ圧縮技術だと言える。

例えば、ぼくは記憶力が弱いせいか、大学時代に亡くなった父親の事もほとんど忘れてしまっている。
ところが夢の中では時折、そんな父親が非常にリアルな存在として登場する。
つまり意識の上で父親の記憶は圧縮されており、夢の中ではその記憶が展開され、忘れたはずのリアルな父親が立ち現れるのだ。

亡くなった父親の事に限らず、人間の意識には死者たちの記憶が圧縮されている。
そして夢の中ではその記憶が展開され、死者たちがリアルな存在として蘇る。
そして意識の上で圧縮されているはずの死者たちの記憶が、ふとした拍子に展開されると、それが幽霊や霊界となって現実世界に立ち現れる。

意識の上で圧縮されているはずの死者たちの記憶が、ふとしたはずみで展開しその結果立ち現れた幽霊や霊界は、幻想や錯覚なのか?
と考えるとと実はそうではない。
これは夢の中に立ち現れる死者たちが、決して幻想ではないことを意味している。

なぜなら、人間が現実の他者と接している時、相手の全てを認識し理解しているのではなく、自分の想像や思い込みで補完した相手と接しているから。
つまり人間にとっての他者とは、半分は文字通りの他者だが、もう半分想像や思い込みによる自分自身の創造物なのである。

そう考えると、夢の中で自分に語りかける他者も、半分は文字通りの他者であり、もう半分は自分自身の創造物であり、その意味で夢の中で語りかける死者や、目の前に立ち現れる幽霊と、本質的な違いはないのだ。

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言語と圧縮

例えば「水」と言う言葉には、飲み水、恵みの雨、海や川、鬱陶しい湿気、など様々に異なる意味が圧縮されている。
人類が水についての様々な経験を重ねるうち、それが「水」と言う言語に圧縮される。
だから「水」と言う言葉は様々な事物に適用可能で、だから「言葉が通じる」。

例えば「この水は冷たくて美味い」と言う場合、「水」と言う言葉に含まれてるはずの「津波の恐怖」などの意味は、圧縮され表面的には忘れ去られている。
でも津波を目の当たりにすると、その恐怖としての意味が展開し「飲み水」としての意味は圧縮される。
また、「水」という一文字と「水とはH2Oである」という説明では、前者の方が多義的で圧縮率が高い。
一般に「老子」などの古典は圧縮率が高く、古典を分かりやすく説明した入門書は圧縮率が低い。

言語の圧縮機能と、パソコンデータの圧縮技術は同じではない。
でも大容量ファイルが圧縮され、再び元データに展開できる技術は、言語の圧縮機能を思い起こさせる。
これを逆に考えると、言語の持つ圧縮機能がデータ圧縮技術を生み出した、と推測することも可能になる。

あるいは文章を校正する場合、重複した語句を統合整理したり、言い回しを工夫することで、文意を変えずに文字量を減らすことができ、この技術は画像圧縮技術に近い。
しかし例えば「老子」の冒頭「道の道とす可きは常の道に非ず」は、非常に多義的で奥深く圧縮率のレベルが違う。
言語にはそのような機能が備わっている。

データの圧縮は元データに展開できるのみだが、例えば「聖書」の圧縮された言葉は実にさまざまな意味に展開可能で、だから解釈の違いで争いになったりもする。
つまり言語の圧縮率、多義性の無理解があらゆる争いの元になる。
そのことは「聖書」にも示されてるはずなのだが、何故か虐殺が起きたり、進化論を教科書から削除したり、そのような「無理解」が生じる。
いずれにしろ重要なのは、言語の圧縮機能を認識することで、そうでないと言葉の表面に惑わされる。

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