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2012年7月28日 (土)

生物における《象徴界》(改題)

構造主義が科学的方法論なのだとすれば、それは《現実界》のリテラシーなのであり、《象徴界》のリテラシーを対象化する。
《象徴界》のリテラシーは、全てが幻想である事を明らかにし、《現実界》のリテラシーは、全てが言葉である事を明らかにする。

人間は言葉を介して世界を認識する。
人間は目に映る事物を言葉に置き換えながら、世界を認識する。
人間はさまざまな事物を文字のように読みながら、世界を認識する。
この場合、文字のように読みながらも文字の使用はなく、あくまで話し言葉だけによる読解で、それが《想像界》のリテラシーなのである。

人間が話し言葉だけで世界を認識する場合、認識する端から世界は曖昧な記憶による幻想に置き換わり、それが《想像界》である。
無文字文化の原始社会を生きていたかつての人類は、《想像界》だけに生きていた。

人類が文字を使うようになると《象徴界》のリテラシーが生じる。
曖昧な記憶による話し言葉が文字に記録されると、一切の言い逃れが不可能な、新しいリテラシーが生じる。

文明の発祥時、文字は非常に貴重なものであり、国家の支配者層だけが文字を使用し、「大事な事」だけが文字として記録された。
この場合の「大事な事」とは、人間が都市を形成し大人数で暮らすために必要な事であり、それが法律であり、世界宗教であり、哲学なのである。

無文字段階の人類は、血縁関係による数十人規模の集団生活をしていた。
そこでは口伝による掟や神話が人々を結束し、狩猟採集をはじめとする共同作業を可能にしていた。

人類が農業を始め、都市を形成すると、血縁関係以外の大人数の人間が同一箇所に住む事になり、曖昧な記憶による話し言葉だけでは人間関係が保てなくなる。
そこで大人数の人々を結束するための、書き言葉のリテラシーである《象徴界》が生じる。

《象徴界》のリテラシーは、書き言葉による記録の蓄積が可能なため、大多数の人々を束ね、大規模な農業や都市の建設など、《想像界》のリテラシーではなし得ない事が可能となった。

文明社会では、《象徴界》のリテラシーを獲得した人が、《想像界》のリテラシーしか持たない人々を支配しコントロールする。
《象徴界》とは人々を支配しコントロールするためのリテラシーなのである。

《象徴界》とはまた、自分自身を支配しコントロールするリテラシーでもある。
それが初期仏典、諸子百家、ギリシア哲学、聖書などの古典であり、これら《象徴界》のリテラシーが貴重だった時代のテキストには「一番大事な事」が書かれている。

《象徴界》のリテラシーは、文字という間接性で世界を把握し、文字に記録された世界と、曖昧な記憶の世界とのズレを常に把握する。
つまり、《象徴界》のリテラシーは《想像界》のリテラシーを対象化し、目に見える世界が幻想にすぎない事を見極める。

《想像界》のリテラシーは、事物を直接「話し言葉」に置き換える、直接性に依拠している。
いや、「話し言葉」は伝達のレベルでは間接性を有するが、認識のレベルでは直接性に依拠している。
その意味で、あらゆる生物には、認識のレベルにおいて《言語》が存在する。

人間は生物に普遍的な機能としての「認識のための言語」を外部化した「話し言葉」によって、「コミュニケーションのための言語」を獲得した。
なぜなら、あらゆる生物が何らかの認識をするのであり、認識とは有用物のそうで無いものの区別であり、あらゆる区別は記号的に処理される。
だからあらゆる生物が、種に固有の、認識のための言語を有していると言えるのだ。

いや人間に限らず、あらゆる生物が何らかのコミュニケーションを行うが、それは「認識のための言語」をコミュニケーションに応用しているに過ぎない。
人間の場合も「場の空気を読む」「顔色で察知する」などの非言語コミュニケーションを行う場合は、生物として普遍的な「認識のための言語」をコミュニケーションに応用していると解釈できる。

例えば、イヌは素晴らしく高度で繊細な「非言語コミュニケーション能力」を持っており、それはコンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪』に詳しい が、人間はその能力を完全には失ってはいないものの、だいぶ退化しているのであり、それを「話し言葉」で補っていると言えるだろう。

《象徴界》とは何か?を考えるに当たり、まずあらゆる生物に《象徴界》は存在すると考えてみる。
生物の身体は、他のあらゆる物質から象徴的に区別され、存在として屹立している。
DNAの文法によって構築されは身体は、それ自体が固有の文法を持つテキストとなる。

あらゆる生物は身体形成のレベルで、身体の存在レベルで、認識のレベルで《象徴界》が存在する。
そして人間だけが、生物に普遍的な《象徴界》がさらに「音声言語」として外部化した《象徴界》を有する。
人間の音声言語は《象徴界》の《象徴界》として二重化している。

いや、生物における《象徴界》とか、考えると泥沼になるからやめよう・・・要するに、人間が言葉を使い思考することの不思議さの根拠を、生物そのものに求めてみたのだが、突き詰めると存在論になったりして、自分の実力では手に負えない。
やり過ぎると「言語」の定義そのものが溶解し、思考自体が無意味になる。

目的もなく、ただ根元に遡ると必然的に行き詰る。根元に遡るのは、あくまで前進するためであり、前進しながら遡らなければ意味が無い。逆に言えば、ただ前進するだけでは必ず行き詰まり、前進するには同時に遡ることが必要なのである。

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