大乗アートと小乗アート
東京国立近代美術館で『写真の現在4』見た後、新宿界隈の写真ギャラリー、蒼穹舎、プレイスM、トーテムポール、と自分には珍しく写真展の梯子をしたが、アートには「大乗アート」と「小乗アート」と二種類あることが、改めて実感できた。
仏教に「大乗仏教」と「小乗仏教」があるように、アートにも「大乗アート」と「小乗アート」がある。
ぼくは大乗仏教も小乗仏教も、どちらの経典も読んでいるので良く分かる。
そして日本の仏教界の主流が大乗仏教であるように、日本のアート界は大乗アートが主流なのである。
ぼくはこれまで「写真がわからない」とか「アートがわからない」などと公言し、その中心から距離を置いてきたが、分からない事の大きな理由の一つが、写真を含む日本のアートが「大乗アート」だった為なのだ。
そしてぼく自身は、アートの大乗と小乗の区別が未分化で、モヤモヤしてたのだった。
自分自身をアーティストとして振り返っても、作品のあり方としても、精神のあり方としても「大乗アート」と「小乗アート」の要素が自覚なしに混在し、その意味で混乱し、中途半端だったと言える。
「大乗アート」は、ある種の自明性の上に成立してる事が特徴である。そして自分は「アート」の名の下に、なぜこの種の自明性の存在が容認されているのか、理解不能だった。
一方自分の作品も、ある面では自明性の否定をテーマにしていたが、別の面では自明性を疑う事ができず、中途半端であった。
自明性を疑うにはそのための技術が必要で、それが哲学なのだが、自分は哲学を「入門書」で済ませていた分、中途半端で不十分だったと言える。
そもそも入門書と言うもの自体が「大乗哲学」の産物なのだった。
しかしインド哲学である初期仏典を読むと、これは自明性を疑う学問である事がよく分かる。
初期仏教=小乗仏教の経典を読むと、自然としての人間に備わる自明性(怒りや愛欲などの感情)や、宗教的自明性(苦行や輪廻転生)など、さまざまな自明性を疑いながら、独自の哲学を構築しているのが分かる。
これに対し大乗経典『法華経』は明らかなる自明性の上に成立している事が記されている。
『法華経』と言う経典の特徴は、「法華経は素晴らしい」という賛辞が延々と書かれているのに対し、その内容は「誰にも理解できないほど素晴らしい」として、一切触れられていない点にある。
つまり『法華経』の素晴らしさは疑い得ず、そのような自明性の上に『法華経』は成立している。
『法華経』と同じように、日本で主流の「大乗アート」もある種の自明性の上に成立している。
例えば、東京国立近代美術館に展示された作品は疑いもなくアートなのであり、各作品も、疑いもなくアートで有り得るような方法で制作されている。
初期仏典には「寺」の概念が存在せず、乞食生活する「出家」が推奨されている。
しかし現代日本の大乗仏教で「寺」は疑い得ない自明性として存在している。
同じように現代日本では、美術館が疑い得ない自明性として存在し、そこに展示された作品もまた、アートとして疑い得ない自明性として存在する。
大乗と小乗の概念は、仏教の専売特許ではなく、あらゆる分野に当てはまる。
キリスト教も聖書を読むと「教会」の概念が存在せず、イエスは行く先々で辻説法をしている。
しかし後の時代になると立派な教会が建てられるようになり、キリスト教会が大乗化される。
つまり仏教もキリスト教も、世間の主流を占める自明性を否定する「小乗」として始まり、しかし自明性の否定から生じた成果は、それ自体がいつしか自明化し「大乗」に至るのだ。
そして写真を含むアートにも、同じ事が起きているのである。
写真を含む日本の現代アートは、ある種の自明性の上に成立し、それを疑う者は殆どいない。
と言ってもほとんど誰も相手にしてくれないのが自明性の自明性たる所以である。
それは自分の『反-反写真』の実験でも明らかで、このシリーズは自分自身が「自明性」なるものを認識するための実験でもあったのだ
ここで自分が問題にしている「自明性」は、多くの人にとっては全くの無問題で、だからぼくの指摘は認識されず、批判は批判とならなず、双方に何も問題は生じない。
しかし結局悩むのはぼくの方であり、だからこれは他ならぬ自分自身の問題なのだ。
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