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2012年7月11日 (水)

言葉が通じても話が通じない場合の対処

「さよならオタキングex 私がオタキングexを辞めた理由」 http://t.co/haHmEdfu の岡田斗司夫批判が非常に興味深い。
最近ぼくが認識する「現実界だけの人格」にそのまま当てはまる。

岡田斗司夫的な人間はぼくの身近にも何人かいて、ぼく自身の悩みの種なのだが「他人事」として眺めると、この種の人間にはまともな言葉が一切通じず、自分の不満や、相手の不備を伝えようとすることが、絶望的に無理なのがよく分かる。

岡田斗司夫はぼくの認識では「現実界だけの人格」で、分かりやすい言葉で言えば「心がない人」で、こういう人とは言葉は通じても話が通じない。
なぜなら、話が通じるためには、その前提としてお互いの「心が通じる」必要があるのに、それがないのだ。

「現実界だけの人格」「心がない人」は、人として必要な心の要素に欠損があり、ある意味「気が狂っている」と言える。
こういう人はまともに相手をするだけムダで、そうしようとする方が間違っている。
つまり全てをあきらめ相手にしないことが解決策だった。

しかし身近な人間、仕事で関わる人間の「相手をしない」というのもなかなか難しく、技術を要する。
ひとつは「自分に厳しく相手に甘く」の二重規範を徹底すること。
別の言い方をすれば、相手と鏡像関係を結ばない、つまり自分の自我を相手に延長しないこと。

相手の言動に対し、自分がイライラするのは、相手と鏡像関係を結び、自分の自我を相手に延長してるから。
それが良い方向に働かせると「心が通じる」事になり「話が通じる」事のベースになる。
しかし「心がない人」に対してはこの回路をカットする必要がある。

簡単に言えば、相手と自分とは「カンケーねー!」と徹底して思うこと。
こそから新たな関係の可能性が見えてくる。
例えば仕事で「心がない人」と関係する場合、お金と契約の関係だけに徹底し、そうすれば自分にとって大切な仕事の「内容」と切り離せる。

「言葉は通じても話が通じない人」「理屈を通して筋を通さない人」という場合の「話」「筋」とは、突き詰めると人間の尊厳のこと。
つまり「他人の尊厳をないがしろにする人」が存在する。

「他人の尊厳をないがしろにする人」はそれをしてる自覚がなく、尊厳と言う概念もなく、だから話が通じず、筋も通さず、周囲の人々を振り回し疲れさせる。
しかしそう言う人に振り回されるのは、どこかで話が通じると信じてる、自分の認識の甘さが原因。

話が通じない人、筋を通さない人、尊厳をないがしろにする人、に対しイライラするのは、相手が悪いのでは決してなく、どこかで話が通じるはずだと信じてる、甘い認識を持つ自分の方が悪いのだと自覚しなければならない。

罪の自覚の無い人を責めることは原理的に不可能で、このような場合、罪の自覚の無い人を信じる自分の甘さを責めるべき。
厳しく認識するならば罪人は存在せず、問題も存在せず、イライラは自分の独り相撲でしかなく、それが分かれば全ての問題は解決する。

突き詰めて考えると、あらゆる人間関係は本質的に「独り相撲」なのだと言える。
何故なら人は、見えない他人の内面を想像や思い込みで補完しながら関係を築くから。
だから相手がいかに自分の尊厳を傷つけようとも、自分は尊厳を持って自分の相撲を取れば良いだけの話なのだ。

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コメント

3D紙工作が珍しくて文章が面白いので来てます。

(※美術関係やアートについては、詳しくないので、よく分かりません。)

ようつべで、TVに出演している姿も拝見しました。

司会者の伴惰韻先生(←マンガのキャラ)に似た人によって、話題をすり替えられてしまったり、ゲストで呼ばれても、司会者の人の自己主張の場にされていたり(…大変なんだな)と思いました。

私は、真剣に何かを頑張る人を笑い者にしたり、からかう気持ちがないので、
(↑自分もそれをされたらイヤなので)
「人前に出る=場合によっては、その場でからかわれる事もある=物凄い勇気のいる事である」←という気がしました。

ブログの文章に対する感想として、少し合っていないかもしれないけれど、何となくそう思いました。

投稿: 感想。 | 2012年7月21日 (土) 09時52分

コメントありがとうございます。
テレビは何の番組か不明ですが、司会がいる番組には出たことがないので、それは別の方なのかも知れません。
いずれにしろ作品を世に出すアーティストは、作品と共に世間の批判に晒される覚悟を必要としますね。
最近のぼくは他人に悪口を言われたりバカにされたりするほど、やる気が出たりしますw
それは一方ではちゃんと評価してくれる人がいるからで、光と影は一体なのです。
アーティストが終わりになるのは誰も話題にしなくなる時で、だからぼくもこうして情報発信してるわけです。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年7月22日 (日) 08時45分

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