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2012年7月31日 (火)

大乗ラカン理論

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昨日(7月29日)見に行って、ちょっとだけ参加した日本ラカン協会主催のワークショップ『カタストロフィと精神分析―東日本大震災をめぐって
だが、斎藤環さんの講演も楽しみだった。
ぼくは斎藤環さんの『生き延びるためのカラン』に大きく影響を受けている、と言うか、ぼくでも理解できるようなラカン入門書は、斎藤さんのこの著書だけなのである。

しかし、アーティストの彦坂尚嘉さんに出会って、たとえ理解できなくとも超難解と言われるラカンを入門書ではなく原著の和訳で読むことを勧められ、彦坂さん主催のラカン読書会にも参加するようになった。

読書会で読むラカンはお経か呪文のようにほとんど意味がわからない。
しかしぼくは斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』を読んでいたので、想像界、象徴界、現実界、シニフィアン連鎖、大文字の他者、などのラカン用語の概要は理解してるつもりでいた。

いや、入門書を通じてラカン用語の概要を理解していたつもりでいても、実際にラカンの著書を読んでみると、ほとんどその理解の助けにならず、その「ズレ」を体感するだけでも読む価値はある。
変な話の様だが「世の中には自分の理解できない領域が存在する」と身を持って知るのは確かに重要だ。

いずれにしろ、ぼくは『生き延びるためのラカン』を通じて斉藤環さんにはお世話になっており、講演を直に聴けることが楽しみだったのだ。
斉藤環さんの講演タイトルは『原子力の享楽』で、アメリカに原爆を落とされた日本人が、戦後はアメリカの指導で平和利用のための原発利用を推進するという、その両義性について「享楽」をキーワードに語ってくれたのだった。

オタク研究家でもある斉藤環さんらしく、日本の漫画やアニメには「鉄腕アトム」から「ガンダム」に至るまで、原子力機関を搭載した主人公メカがいかに多いかを、図版を上映しながら示してくれたりして、なかなか面白かった。
あのドラえもんも原子力機関搭載だったのも驚きだったし、マジンガーZが光子力エンジンなのは知ってたが、パートナーロボのミネルバXが原子力エンジンなのはぼくも見逃していた(笑)
斉藤環さんによると原子力の享楽には「生の欲動」「死の欲動」の両義性があり、だからこそ人々は惹きつけられるのだ

斉藤環さんはまた、3.11の原発事故でまき散らされた放射能に対し、過剰反応する人々について「ケガレ」「換喩的感染」などの概念によって解説されていた。
ケガレの感情は換喩的感染によって人々に広がり、本質以上に隣接生、類似性が大きな意味を持つ。

換喩的感染とは、分かりやすく言えば子供がやるエンガチョのようなもので、科学的根拠よりも何より、放射能がケガレたものに思え、そのキヨメを求める気持ちによって非科学的なデマに踊らされる。

斉藤環さんは非知に対する人間の態度として「絶対安全である根拠がないので、絶対に危険」の「絶対危険であるという根拠がないので、相対的に危険」対立軸を示し、前者はともするとケガレの感情に結びつき、それもあって自分は後者の立場を取り、一部から「御用学者」のレッテルを貼られたそうだ。
以上の斉藤環さんの解説は、ぼくも確かに放射能に過剰反応する人には違和感を持っていたこともあり、納得できるものがある。しかし、これが事の本質なのか?と思うとどうも腑に落ちないし、釈然としない。

斉藤環さんはまた、フクシマ第一原発のライブカメラに写った「指さし作業員」がアーティスト竹内公太のパフォーマンスだったことを示しながら、東日本大震災とアートの関わりについても語っておられた。
「指さし作業員」に限らず、東日本大震災に触発されたアーティストの数は実に多いと言える。
これに対し1995年の阪神淡路大震災の発生時は、これをテーマにしたアート作品はそれほど多く見られず「それだけ社会が成熟したのだろうが、ぼくにはどうも分からない」と斉藤環さんはおっしゃっていた。

これを聞いてぼくはかなりビックリしたのだが、そもそも阪神淡路大震災と、東日本大震災では、被害の規模も種類も全く異なり、単純に比較する事自体がおかしいのである。
確かに、阪神淡路大震災は大きな被害をもたらしたが、しかし東京にいる自分には直接の被害は及ばず、その意味で他人事だと言える。

これに対し東日本大震災は、津波を伴う破壊力の大きさもさることながら、原発事故を伴っており、その被害は東京に住む自分にも及ぶ可能性がある。のみならず、その被害は一地域のみに留まらず、日本中はもとより世界中に広がる可能性もある。その恐怖は全く他人事ではなく、他の大地震と比較にならない。

だからこそ、斉藤環さんの言葉を借りれば「死の欲動」と「生の欲動」の両義的反作用に突き動かされて、アーティストはアートを作らざるを得ないのである。
少なくともぼく自身はそうだし、それを説明する斉藤環さん自身が、その事について「よく分からない」とおっしゃったことに、かなりの衝撃を受けた。

ぼくが3.11で衝撃を受けたのは、地震と津波の破壊力の大きさや、原発事故がもたらす放射能の恐怖もさることながら、これに対しまったく危機意識のない人々が膨大に存在する、その事自体にもっとも大きな衝撃を受けたのだった。
もちろん、ぼくは3.11以前は原発や放射能の知識はほとんど無に等しかったが、それでもアメリカに落とされた原爆や、チェルノブイリ原発事故を通じて、放射能が怖いものであるという意識だけは持っていた。
だからこそ原発事故は絶対に起きてはならないのであり、安全神話の信仰に自分も荷担していたのだ。それだけに、日本の原発が実際に事故を起こすと、まずは「恐怖」が先に立ったのだった。

ところが原発事故直後、そんなふうに恐怖していたのは自分と一部の友人だけで、大半の人々はまるで他人事のように呑気に構え「糸崎さんは心配しすぎだ」と相手にもされないのだった。
これは自分にとって放射能の恐怖以上に衝撃で、日本社会の知られざる「秘密」を自分だけが知った気になったのだった。

そう言うぼくの立場で講演を聴くと、斉藤環さんは東日本大震災によって「何が」もたらされたのかを今ひとつ把握できておらず、「阪神淡路大震災と比べて何が違うのかよく分からない」と言い、放射能の問題をケガレの問題として片付け、まるで「他人事」のように淡々と解説されてるように思えるのだった。

恐らく斉藤環さんからすれば、ぼくはケガレの感情に取り憑かれたタイプの典型的に分類されるかも知れないし、現にそうである可能性は否定できない。
しかしぼくが見たところ斉藤環さんの表情は「死の欲動」と「生の欲動」の両極的振れ幅からほど遠い、安寧の世界に沈んでおられるようにも思えてしまう。

いや実際、世間の常識からすれば「安寧」を求めることこそが正常で、ぼくのようにガイガーカウンターで各地を計測しながら、落ち込んだり、はしゃいだり、あまつさえそれを作品化したり、そういうアーティストの方が異常なのである。

斉藤環さんは著書も多く出されて、ぼくなんかに比べてはるかに社会的評価が高く、メジャーな方である。
先に書いたように、ぼく自身も斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』を読んで、影響を受けているのだ。
しかし今になって振り返ると、あらゆる入門書が大乗的なのであり、斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』もオリジナルのラカンとは似て非なる「大乗ラカン」だったと考えられるのである。

斉藤環さんの『生き延びるためのラカン』は「中学生でも分かるラカン入門書」として絶賛され、ぼくも「分かるから面白いし為になる」と思っいたのだが、今思えばそれこそが「大乗的」思考である。
中学生だったらまず『ブッダのことば』などの古典を読むべきだし、それこそが「中学生でも分かる哲学」だと思うのだ。
いやぼく自身、中学生の頃そういう本を読んでいれば良かったと、今になって後悔してるだけの話なのだが・・・

ともかく、「大乗的」なるものと「小乗的」なるものは、どちらが良い悪いではなく、生きる目的や価値観が違っている、と言うだけの問題に過ぎない。
「より多くの人々を助ける」という大乗の目的はそれ自体は文句の付けようのない正しさがあり、だから中学生にも分かるラカン入門書を書いた斉藤環さんも正しいのである。

そして「小乗的」な人は何も自分だけが助かれば良いと思っているわけではなく、ともかく「欲動」に突き動かされ、その両極端に揺れ動き、「過剰」を生み出してしまうのだ。

と、以上のようなことが納得できて、自分としては非常に有意義な、ラカン協会主催のワークショップなのだったが、しかしこの記事自体も入門書のような分かり易さがあって、それを考えると自己嫌悪に陥ってしまうのだった(笑)

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コメント

最近モヤモヤきてました。

私は、宗教の本を読んでも、人を助けたい気持ちにはならないなぁ・・・。

だって、自分が相手の必要な部分を手伝っても、自分の必要な助けは、特に来てないんだもの。

蜘蛛の糸を垂らしてたら、悪人が登ってきてて、気付いたら大事な人は皆殺されてしまいました←という感じ。

冷たいかもしれないけれど、誰か分からない人を助ける事なんて、したくないな…。だから幻想も特にはないかなぁ。

自分と同じ現実にいない人は、助けたくない。例えば、阪神大震災で亡くなるはずだった人を助ける為に、自分が代わりに亡くなってるとか…不遇な死に方をするとか、本当に、すごくあり得ない…………。

ラカンとか難しくて分からない。だけど3・11の件はスグに危険な事は分かった。

だから、
外に出ない方がいいとか、私に対しても移動した方がいいと言ってくれる人の気持ちは、自分の勘ではよく分かっていて…

それとは別に、騒動の中で情強の側の特殊なグループにいる人の騙しには気付いていたし……

「外に出ても安全だと思うよ(※自分は出ない)」とか、情強な人なんだから、普通に考えて安全なはずがないこと位、分かるはずなのに…と。

でも、近所の何も知らないおばさんからは手作りの旬のホウレン草を頂いたりしたので、安全な方向に現実を曲げて持ってゆくしかないのかなと思った…。

イメージ力の強い人は、被害も大きくなる傾向にある気がするし……。

余命3ヶ月ですって言われたら、ガックリして死んでしまう←みたいな感じ。

生きるにあたって、わりと人は丈夫であることや、人間の生命力を信じるしかないのかなぁ…と思いました。

何か、意味不明な文章でごめんなさい。

投稿: 感想です | 2012年8月 4日 (土) 19時46分

コメントありがとうございます。

>最近モヤモヤきてました。

モヤモヤするのは悪い事ではありません。
考えがスッキリ晴れ渡っている人は、実は何も考えてない場合が多いのです。

>私は、宗教の本を読んでも、人を助けたい気持ちにはならないなぁ・・・。

宗教の本と言ってもいろんな種類やレベルのものがあります。
この記事は一応仏教の話題なので、岩波文庫『ブッダのことば』をオススメします。
最古の仏教経典と言われてますが、あまり宗教という感じがせず、読みやすいです。

>だって、自分が相手の必要な部分を手伝っても、自分の必要な助けは、特に来てないんだもの。
>蜘蛛の糸を垂らしてたら、悪人が登ってきてて、気付いたら大事な人は皆殺されてしまいました←という感じ。

「情けは人の為ならず」という言葉があります。
情けをかけて他人助けるのは、「目の前の他人」のためではなく、まわりまわって自分が誰かに助けてもらうため、という意味です。

だいたいにおいて、人は自分が他人に助けてもらった恩を、忘れがちです。
そのくせな人が困ってるのを見ると、ついてを差し伸べたくなってしまうのも、人間の感情です。

人間はいろいろな矛盾を抱えながら生きる理不尽な存在だ、というのが精神分析の教えです。
この根本的な矛盾を自分の中に見据えなければ、目の前の事態にただ翻弄されてしまうだけです。

>冷たいかもしれないけれど、誰か分からない人を助ける事なんて、したくないな…。だから幻想も特にはないかなぁ。

社会とは、誰かわからない人同士が助け合って成立しています。
毎日食べてるお米も、誰だか分からない農家の方が作り、誰だか分からない人がトラックでそれを運び、誰だか分からないお米屋さんが、自分のお母さんに販売してるのです。

>自分と同じ現実にいない人は、助けたくない。例えば、阪神大震災で亡くなるはずだった人を助ける為に、自分が代わりに亡くなってるとか…不遇な死に方をするとか、本当に、すごくあり得ない…………。

例えばみんなで同じ大震災にあえば、見ず知らずの他人同士「同じ現実に生きる人」になり、助け合ったりするかもしれませんね。
大自然の脅威の前に、人は一人よりも、より大勢で力を合わせた方が、生き残る確率が上がります。
そして、それが社会が成立する理由の一つでもあるのです。
もし、自分が災害に巻き込まれたらどう行動するのか?は、災害そのものが想定外の事態なだけに、なかなか想像する事はできません。
しかし日頃の心構えや認識が、いざという時に隠しようもなく現れるのも確かで、だから「情けは人の為ならず」と昔の人は言ったのです。

>ラカンとか難しくて分からない。

ラカンの難しさは人間精神の難しさ、ひいては自分の精神が自分では分からない事の難しさで、専門家も頭を抱えるレベルです。

>だけど3・11の件はスグに危険な事は分かった。

>だから、
外に出ない方がいいとか、私に対しても移動した方がいいと言ってくれる人の気持ちは、自分の勘ではよく分かっていて…

こういう直感はとても大事だし、良い感覚をお持ちではないかと思います。

>それとは別に、騒動の中で情強の側の特殊なグループにいる人の騙しには気付いていたし……
>「外に出ても安全だと思うよ(※自分は出ない)」とか、情強な人なんだから、普通に考えて安全なはずがないこと位、分かるはずなのに…と。
>でも、近所の何も知らないおばさんからは手作りの旬のホウレン草を頂いたりしたので、安全な方向に現実を曲げて持ってゆくしかないのかなと思った…。

例えば中世ヨーロッパでは、聖書は教会だけが所有し、民衆には読ませないようにしながら支配してました。
しかし、情報化社会と言われる現代では、誰もがあらゆる情報にアクセスできます。
だからたくさんの情報を得て情報強者になるのも、そんなのは面倒臭いと情報弱者に甘んじるのも、人それぞれの意思だと言う事ができます。
また、たくさんの情報を得たとしても、価値のない情報に振り回さてはかえって意味がありません。
ですから有用な情報を選り分け、情報の相互関係からその意味を読み解くリテラシーが必要になります。

>イメージ力の強い人は、被害も大きくなる傾向にある気がするし……。

現実を見ない人、情報を得ない人、本を読まない人、は自分のイメージで物事を考え判断します。
そして、往々にしてイメージと現実はズレが生じますから、様々な間違いの元となるのです。

>余命3ヶ月ですって言われたら、ガックリして死んでしまう←みたいな感じ。

黒澤明監督の『生きる』の主人公はしょぼくれた役人ですが、余命数ヶ月だと医者から言われます。
それから心機一転、残りの人生を精一杯生きる事を決意し、ささやかな事業を成し遂げ死んでゆきます。
余命が3ヶ月にしろ30年にしろ、いずれも人の命には限りがあり、それを知る人とそうでない人では、生き方そのものが違うのです。
学生時代に観て感動しましたが、あらためてまた観てみたいです。

>生きるにあたって、わりと人は丈夫であることや、人間の生命力を信じるしかないのかなぁ…と思いました。

余命が3ヶ月にしろ30年にしろ、いずれも人の命には限りがあり、それを知る人とそうでない人では、生き方そのものが違うのではないかと思います。

>何か、意味不明な文章でごめんなさい。

こちらもいろいろと刺激になりますので、よろしければまた何か書いてください。

投稿: 糸崎公朗 | 2012年8月 6日 (月) 09時50分

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