汝の敵とコピープログラム
「唐沢俊一検証Blog」4周年だそうで、おめでとう&おつかれさまです。
4周年目の記事タイトル「おまえの敵はおまえだ」はまさにぼくにも当てはまる問題で、「敵としての自分」は「自分」に紛れて姿が見えず、そのくせ他人から丸見えという特徴がある。
そして、自分にとっての最大の敵は、唐沢俊一のような「現実界だけの人格」「心が無い人」ではなく、まさに「敵としての自分」なのだった。
「敵としての自分」が自分からはよく見えず、他人から丸見えなのは、つまりは他人からは「お前は敵だ」という信号が発せられてるにもかかわらず、自分はそれをキャッチする回路がオフになっている状態を指す。
「敵としての自分」は、他人の訴える不満を巧妙に聞き流し、その姿を「自分」の認識から消している。
「敵としての自分」は、自分の観察不足によって発生する。
だから初期仏典『ブッダのことば』には「自分をよく観察すること」と繰り返し説かれている。
あるいは『老子』には「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」と説かれている。
こうした場合の観察を阻むものは何か?それは人間精神に備わる、鏡像関係の機能による、コピープログラムに他ならない。
人間は、他人の「行動プログラム」を、自分の精神に鏡のように映し出し、コピーする。
このコピーは全く無自覚に行われるため、自分が嫌だと思う行動プログラムも構わずコピーされる。
自分がされた嫌なことを、別の他人に対し繰り返し行ってしまうことがあるのは、そのためである。
他人からコピーされた行動プログラムは、思考の介入無しに自律して自動作動する。
だから自分が他人から見て、いかに嫌な奴として振舞おうとも、自分では全く認識できない、と言うことが起きる。
「敵としての自分」とは他人からコピーされた見えない行動プログラムであり、これを観察によって発見する必要がある。
人間精神の多くの部分は、思考が介入しない行動プログラムにより自動作動する。
そして人間は、他人から様々な行動プログラムを無自覚にコピーする。
他人からコピーした無数の自動作動する行動プログラムが、複雑に関係し合いながら、人間精神は形成される。
人間の精神は複雑で精密な自動機械として機能する。
この特徴を自覚すれば、精神の自動機能に抵抗しながら、思考を介して観察や反省を行うことができる。
複雑に絡み合った行動プログラムを解きほぐし、「敵としての自分」を抽出し、これを排除できるようになる。
「敵としての自分」が、他人からコピーした行動プログラムなのであれば、自分の精神形成に最も大きな影響を与えた親の精神に、「敵としての自分」のオリジナルの多くが潜んでいる可能性が大である。
仲の悪い親子同士が、傍目にそっくりの性格に思えるのは、よくあることだ。
親の精神に「敵のしての自分」のオリジナルを発見するには、親を嫌ったり憎んではならない。
嫌悪や憎悪は観察を阻害する。
そうでは無く、自分の親の欠点まで含めて愛することができれば、冷静に相手の欠点を見据えることができ、これを鏡として「敵としての自分」も観察できるようになる。
例えば、些細なことで口やかましく自分を責める母親に対し、「なかなか面白い人だ」と思って愛することが出来れば、自分自身も他人に対し、些細なことで口やかましく責める性質のあることが、発見できるのである。
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