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2012年8月

2012年8月31日 (金)

ものの見方と見逃し方

●人によって異なるものの見方があるように、人によって異なるものの見逃し方がある。

●人によって異なるものの見方があるように、人によって異なる目の逸らし方がある。

●同じものでも見る角度によってその解釈が異なるように、同じ者でも見ない角度によってその解釈が異なる。

●視野の広い人や、視野の狭い人がいるように、視野の遮蔽が広い人や、視野の遮蔽が狭い人がいる。

●発見のポイントが存在するように、見逃しのポイントが存在する。

●ものの見方が深化するように、ものの見逃し方も深化する。

●ものの見方が鍛えられるように、目の逸らし方も鍛えられる。

●いろいろなものの見方ができる人がいれば、いろいろな目の逸らし方ができる人もいる。

●ものの見方が変われば世界の見え方が変わるように、目の逸らし方が変われば世界の見え方が変わる。

●目を向けることは、目を背けることと同意であり、何かを見付けることは、何かを見逃すことと同意である。

●前方を見る人は後方を見逃しており、右を見る人は左から目を逸らしている。

●見ることは見ないことと同意であり、聞くことは聞かないことと同意であり、嗅ぐことは嗅がないことと同意であり、味わうことは味わわないことと同意であり、触ることは触らないことと同意である。

●他人のものの見方を知ることが大切なように、他人の目の逸らし方や、見逃し方を知ることも大切である。

●自分のものの見方を自覚することが大切なように、自分の目の逸らし方や見逃し方を自覚することもまた大切である。

●これについて考えることは、あれについて考えないことと同意であり、何も考えないことは、全てについて考えることと同意である。

●何も見ない人は全てを見通しているのであり、何も知らない人は全てを知り尽くしている。

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プライドと通貨

プライドとは、お互いを尊重し合うという交換システムの上に成立する。
つまり交換相手がいなければプライドは成立し得ず、だから自己存在の基準とはなり得ない。

プライドとは、象徴界のリテラシーのみで成立する交換システムなのであり、それ以上の意味は存在しない。

ありていに言えば、プライドとはそれが通じるもの同士の間でのみ通用する概念でしかなく、それ以上の意味は何も無い。

プライドとは通貨のようなもので、その通貨の価値を共有しない人々に向かって札束を見せ付けても何の意味も無い。
また、通貨の意味が流通にあるように、プライドそのものには何の意味もなく、社会に流通することだけに意味がある。

プライドを心の拠り所にしている人は、額に入れた一万円札を心の拠り所にしているようなものである。

多くの人は、プライドを交換システムとしてではなく、実体として捉えている。それは例えば一万円札を一万円として使わず、大事な宝物として額に入れ飾っているようなものである。

誰にも通用しない貨幣を一人でたくさん抱え込むのは愚かであり、すべてを燃やし尽くさなければならない。

例えば、アメリカのスーパーマーケットのレジで一万円札を出しても通用しないように、自分のプライドなんぞは誰にも通用しないし、誰も受け取るはずも無いのである。

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2012年8月27日 (月)

理解力と創造力

自分は他人を変化させるほどの力は持たない。
自分の力を持ってして、他人を変化させることはできない。
自分の力は、ただ自分を変化させることができるだけの、小さなものでしかない。
小さな力は、有効に使わなければ無駄になり意味が無い。

そもそもあらゆる判断は難しいのであり、自分の乏しい経験や知識だけでは限界がある。
だからより適正に確実に判断するために、歴史を参照しこれに学ぶ事が、非常に有効な手段となる。
歴史とは人類の経験の圧縮であり、個人の経験の範囲をはるかに超える判断をもたらしてくれる。
例えば、悪質な新興宗教に騙される人は、教祖の言う事は聞いても過去の歴史は参照せず、聖書も仏典も諸子百家も読もうとしない。
宗教の良し悪しを判断するには歴史に学ぶ以外に方法はなく、「今の人」の言うこと聞いてるだけでは何も判断する事はできない。

全ての迷いは想像界のリテラシーの産物であり、本来読まなくてもいいところを読み込んでいるだけに過ぎず、だからこれを焼き尽くさなければならない、と原始仏教経典にも書いてある。

想像を省いて認識する道と、認識を省いて想像する道とがある。
想像を拒絶すると認識が立ち上がり、認識を拒絶すると想像が立ち上がる。

乏しい理解力を貧しい想像力で補う人がいる。
多くの人は一を知り十を想像で補う。

多くの人々が覚醒しておらず、それぞれに勝手な夢を見ている。
多くの人々が眠り人か死人のようであり、覚醒して現実を直視することを拒んでいる。
こういう現実を見据えた方が、何事も上手く行く。

現実を直視できない人は、騙されることを望んでいる。
欲望の遠近法を構築すること。

自分に都合の悪いことから徹底的に目を逸らし続ける人は、幸せそうに地獄を生きる。
自分に都合の悪いことを直視できる人は、地獄に生きる幸せを噛みしめる。

多くの人はすでに神なのであり。自分が全知全能の神であることを自覚し反省することで、無知無能の人となる道へと向かう。
認知を減退させ無知無能の自覚を避ければ、人は生きながら神のままでいられる。

昆虫好きの友人が、物心つき始めた自分の息子にいろいろ教えたら、知れば知るほど怖がって山に入りたがらなくなったらしい。
知ることには本質的に恐怖が伴い、だから多くの人は目を瞑り道を塞ぎ、無知のままでいることに固執する。

世間には、自分が思いもよらない邪悪な心を持った人間たちが、思った以上に数多く存在し、それを知らずに生きてきたのは経験と認識の怠慢だが、知ればどんな悪人に対してもたじろがず、嫌悪せず、愛情を持って、冷静に、対応できるようになる。
世間に数多く存在する邪悪な人は、自分自身にとってはそれが当たり前の感覚であり、だから自分は常識人だと思思い込んでいて、それで多くの人が騙される。

コミュニケーションの対象にならない相手は、コントロールの対象としなければならない。

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ムダと創造力

創造的な人は多くの場合ムダが多く、むしろ効率「だけ」を考えるくらいがちょうど良く、そうすれば実行力が飛躍的にアップする。

創造力は無駄こそがその源であり、効率化はかえってその力を減退させる・・・と信じている人は少なくないが、それは己の過信による迷信に過ぎない。
自分に本当に創造力が備わっているのであれば、その能力を効率化のために使用しさえすれば、実行力は飛躍的に高まるはずである。

失敗してやり直したところで前より悪くなるだけで時間の無駄。
失敗した結果を受け入れ成功に転じるのがクリエイティブ。
失敗は成功の種であり、やり直してその可能性を潰してはならない。

自分の一番やりたく無いこと、一番後回しにしたいことが、一番先にすべき事だと心得なければならない。

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反省するか棚に上げるか

反省するか棚に上げるか、二つに一つしかない。
自分の言葉は何を言っても自分に跳ね返ってくる。
いくら冷静に他人を批判し、または分析したとしても、自分の言葉は鋭く自分を言い当てる。
これを知る人は自分を反省し、そうでない人は自分を棚に上げる。
反省する人は他人を見抜き、棚に上げる人は見抜かれることに気付かない。

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悪霊とイデオロギー

自分のイデオロギーは、自分にとって最大の敵であり、目の前に立ちはだかって認識のための視界を遮る。
イデオロギーとは悪霊であって、人に取り憑き人格を支配する。
イデオロギーという悪霊に取り憑かれた人は、認識力を奪われることによって、心を支配される。

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信仰心から学びが生まれる

中島義道『哲学の教科書』と言う本が1995年に出版され、恐らくその年に読んだのだが、中島さんは小学校低学年の頃から「自分はいずれ死んでしまう」という思いに憑かれ、しかし多くの人は自分は死なないと思っており、なんてバカなんだ…というように書いてあった。
しかしぼく自身は「自分はいつか死んでしまう」という事が、理屈では理解していてもどうしても実感できず、自分は(中島さんが指摘するように)なんてバカなんだろう…という想いが、今に至るまで続いている。
試しに友人たちに聞いてみると、子供の頃に「自分はいつか死んでしまう」という恐怖に取り憑かれた経験のある人はけっこう多く、みんな優秀だ。
ぼくだけがそのような実感を、どうもいまひとつ持てずに落ちこぼれている感がある。

ということもあって、キルケゴール『死に至る病』を読んでみたのだが、ぼくの周りではこの本を早い人は中学生で、遅い人でも二十歳ぐらいの時までにはみんな読んでいて、今頃慌てて読んでるのは自分くらいだ。
この本は現在の自分が読んでも難解で置いて行かれるばかりだが、しかしとりあえず、自分には「信仰」が圧倒的に足りないことが、よく分かった。
例えばぼくは、芸術に対する信仰が全く足りてず、ひいては人類文化に対する信仰が全く足りない。
信仰のない者は「自分」という矮小な神の信仰者に過ぎない。
言い換えれば、自分はいかにものを知らずに人生を送ってきたかであり、知ったかぶりの人生でしかなかった。
信仰とはすなわち知性の源でもあり、そもそも誰かを信じなければ学びは生まれない。
芸術への信仰がなければ芸術への学びは生まれず、文化への信仰がなければ文化への学びは生まれない。
「自分」の信仰者は、自分のことは何でも知ってるつもりでいるので、何の学びも生じず、知ったかぶりの人生を歩む。

世界を深い遠近法として捉えるには、不動の基準が必要で、基準が無ければ世界の表面にベタッと貼りつき翻弄されるだけ。
信仰こそはその「不動の基準」なのであり、これがない者は「自分」を信仰し外部世界への観察力と情報収集力を損なう。

実はぼくがアーティスト集団「気体分子ギャラリー」のメンバーとなったのは、芸術を迫害する立場から芸術を信仰する立場へと「転向」を決意したからなのだが、キリストの迫害者であったサウロの目から鱗が落ち、使徒パウロとなったようには行かず、どうにも曇り眼のまま「自分」にしがみついている。

ともかく、『死にいたる病』のような本を若いうちに読めば、それ以降の人生無駄にしないで済むだろうし、ぼくのように年取ってから読むと、これまでの人生がいかに無駄であって、そしてこれからの人生の何もかもが既に手遅れであるという事実に直面出来るのだった。

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無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
子供の純粋な感性は素晴らしく、大人になって知恵を身に付ける毎にその感性は鈍ってゆく。
だから余計な知恵を身に付けないよう努力し、無知無能を守り通せば、純粋な感性が発揮され人気者のアーティストになれる。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
知識によらず自らの感性で考える人は、物事の本質をよく捉える。
難解な本をたくさん読んだ頭でっかちの人は、ただ遠回りをした挙句に道に迷っているに過ぎない。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
難解な書物をたくさん読み難しい言葉で語る人は、そうでもしなければ何も考えられない愚か者に過ぎない。
優れた人は知識によらず、自分の持って生まれた感性だけで、的確に物事を考え判断できる。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
難解な概念を難解な言葉で語る人々は、専門的な自己満足に浸っているに過ぎない。
真に頭の良い人は、難解な概念を平易な言葉に置き換え、より多くの人々に向けてそれについて語ることができる。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
余計な知識を得るほど遠回りになり、無知が一番の近道になる。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
偉そうなものには価値が無く、等身大の感覚にこそ真実がある。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
プロの仕事は高度だが退屈で、素人の稚拙な表現の中に自由と真実が宿る。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
知識は人を縛り付け、知識の無い人は自由人。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。
自分は自分の好きなものが好きで、自分にとって価値のあるものに価値があり、自分が正しいと思うことこそが正しい。

無知無能こそが全知全能である、という信仰が存在する。自分以外全員バカ。

多くの日本人の例に洩れず、ぼく自身も「無知無能こそが全知全能である」の信仰者だったのだが、それを「非人称芸術」というかたちで極限まで突き詰めたら、ヤリ過ぎで誰にも相手にされず、だから最近になって転向した、という経緯があるわけです。

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2012年8月13日 (月)

絵画に限らない遠近法

『責任と理屈』という記事に「感想  〜(・∀・) 」さんからコメントをいただいたので、その返信として記事を書きます。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-9401.html

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コメントありがとうございます。

>短編小説を読んでいるようで楽しいです。

実は、自分には小説を書く才能はない、と思っていたので、これは意外で嬉しいです。

読み直してみると、確かに小説の主人公の独白のようでもありますね。
最近のブログはTwitterで書いたことの寄せ集めで、その効果もあるのかもしれません。

>遠近法がよくわからなかったので、建物の絵はダメだなと、美術の時間に思ったものですが、難しい文章を読み解くのも苦手なのですが、糸崎先生のブログは、結構お気に入りだったりします。

ぼくも遠近法は苦手で、それもあって絵画を断念して写真に転向したのです。
しかしあらためて気づくと、遠近法は絵画に限らず、あらゆる事柄に及んでいます。
絵画の遠近法は、近いものを大きく、遠くに従って小さく描きますが、どんな物事の判断も、大事な事柄は大きく捉え、そうでない事柄は小さく捉えます。
判断が上手くできない人は、重大事項とそうでないものの判断ができておらず、つまり世界を遠近法で捉えておらず、ベタッとした平面として見ているのです。

絵画でも単純な遠近法は画面にモノが飛び出したように見え、これは単純に人々の目を驚かせます。
しかし、より高度な遠近法になると画面の奥の奥まで続くような、広くて深い空間が描けるようになり、見る者に深い感動を与えます。

遠近法とはものの見方の序列と、ものの見方の深さです。
物事の価値の序列を見極められる人は、まず目先の利益に聡くなります。
しかし物事の奥の奥を深く見通すようになると、目先の利益にとらわれることが無くなります。
そして遠近法でものを見ない人は、目の前の現実に流されるままで、いざという時何もできずにフリーズします。

遠近法でものを見るには、世界に対し自分が距離を置く必要があります。
言ってみれば、自分と世界との距離感が、その人の持つ遠近法になります。
自分と世界とがベタッとくっついてしまうと、つまり好きなものや不安な事柄に執着しすぎると、遠近法で世界が見られなくなります。

遠近法は絵画に限らないことは、橋爪大三郎『はじめての構造主義』に数学を例に書いてありますので、興味があるなら読んでみてください。

>私はまだネットマナー的なものだったり、ネット上の個性なりキャラクターなり、見せたい自分を継続させる方法がよく分からないのですが、いつも更新を楽しみにしています。

いや、キャラは十分できてると思います。
自分では普通にしてるつもりでも、個性はに染み出るものなのです。

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2012年8月10日 (金)

我ヨリ他ニ神ハナシ

神を信じることの意味は、自分が神のように万能では無く、神のように永遠に生きられないことを、認識することにある。逆に言えば、神を信じない者は、自らが万能で永遠の命を持つ神として振舞う。

ゆえに、神を信じる者は人であり、神を信じない者は神である。神を信じる者は自らの無知無能と向き合う人となり、神を信じない者は自らが全知全能の神となり「宗教とかアリエナイしwww」などと宣う。

全知全能の神を信じる者は、自らの無知無能と向き合い、神を信じない者は「小さな全知全能者」として振舞う自らの姿から目を逸らす。

神を信じない者は、神が実在すると素朴に信じており、だから必死になってその存在を否定する。

「神様なんかいるワケないじゃんw」とか「宗教とかアリエナイしwww」などと言う人に限って「我ヨリ他ニ神ハナシ」と思いなしている。

全知全能の神として生まれた子供は、無知無能を自覚することで人間へと生まれ変わる。

認識の範囲を狭めれば、人は誰でも全知全能の神になれる。認識の範囲を広げると、無知無能を自覚して人間へと生まれ変わる。

全知全能と永遠の生命は神が所有しているのに、それをぼく自身が所有してるように、実のところまだどうしても思えてしまうのだった。

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現実界とリテラシー

《現実界》だけの精神の持ち主は、自分に興味が無い現実から、あるいは都合の悪い現実から、全力をかけて目を逸らし、そのパワーは半端では無い。
こう言う人間は、まともに相手をしても仕方が無く、つまりまともに腹を立てるのは無意味であり、適当に仲良くするのが正しい。
《現実界》だけの精神の持ち主が、現実から目を逸らすとはおかしな表現だが、つまり《現実界》と現実は全く概念が異なっていて、むしろ相反してると言えるかもしれない。

《現実界》だけの精神の持ち主は、現実の認識機能が壊れており、その不完全さを「現実から目を逸らす」事によって補っている。
彼(彼女)らの現実は現実を直視することで崩壊し、だから現実から目を逸らすことに「全力を掛ける」のだ。

認識能力が不完全な《現実界》だけの精神の持ち主は、自分の認識不足による失敗からことごとく目を逸らし、口からで任せを言って誤魔化し、結果として世渡り上手に振舞う。
特に《想像界》だけの精神の持ち主は、この種の誤魔化しに簡単に惑わされ、相手を信用してしまう。

現実を直視すると現実が壊れてしまうような人に対し「現実を直視せよ」と要求することはできない。「現実を直視すると現実が壊れてしまうような人がいる」と言う現実を、自分こそが直視しなければならないのである。

現実認識の視野を狭めるには膨大なエネルギーが必要で、そのエネルギーは恐怖を源泉とし、恐怖の中心には自分の死がある。
つまり《現実界》だけの精神の持ち主は、自分の死を極端に恐れている。だから自分の非を認め、反省して自分を変えることが、つまりは現在の自分を殺すことが、絶対にできないのだ

いや、彦坂尚嘉さんによれば、《想像界》《象徴界》《現実界》はリテラシーなのだった。
ぼくの解釈では人間は目に映るモノをことごとくことばに置き換えながら世界を「読む」。
「どのように世界を読むか?」のリテラシーがその人にとっての世界を作り、精神世界を作る。
だから《想像界》のリテラシー、《象徴界》のリテラシー、《現実界》のリテラシー、と言い換えると事態の把握はしやすくなる。

《想像界》のリテラシーだけの人は、《現実界》だけのリテラシーの人特有の、口から出まかせの嘘や誤魔化しを、それとして見抜くことはできない。《
想像界》のリテラシーは物事の表面しか捉えられず、言葉の裏や行間を読み取ることもできず、何でも文字通りに受け止められる。

《現実界》のリテラシーは、非常に視野が狭い。例えば、何でも金の価値に置き換える人は、視野が狭い。
そのように視野が狭いと、金儲けについてもかえって様々な失敗をするが、視野が狭いので自分の失敗を直視せず、口から出まかせの言い訳をし、それで世の中渡って行けてしまうのである。

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責任と理屈

思い起こせば、以前の自分は人間がどこまで愚かなのかを知らず、想定外に愚かな他人を目の前にし狼狽していたが、つまりそれは自分自身の愚かさを知っていなかった、と言うことなのであった。目の前の他人の愚かさは、自分自身の愚かさの反映でしかないのだ。

失敗の原因を、他人のせいにできるのなら、他人のせいにしてしまった方が良い。そして他人に預けていた責任を、自分が引き受ければ、万事は上手く行きはじめる。

仕事上、相手のおかしなペースに振り回されていると感じる時、責任を負うつもりの無い人に、責任を預けている場合がある。こんな時、相手から責任を奪い返せば仕事は上手く行き、相手からも感謝される。

物事が上手く行かない時、責任を誰かに預けていて、その誰かが責任を果たしていない場合がある。そんな時は責任を取り戻し、自分が責任もリスクも負うことにすれば、気が楽になるし万事か上手く作動しはじめる。

犬に吠えられて、これに対し本気で吠え返す人は人間では無い。そして犬のように吠える人と、これに対し本気で吠え返す人とが存在するのである。

犬に理屈で諭して芸をさせようとする人は愚か者である。理屈が通じない相手に、理屈で諭して頼み事をする人も愚か者である。

理屈の通じない相手に理屈で諭すのは、自己満足の独り相撲でしかない。

理屈に囚われている人に理屈は通じない。理屈に囚われない人だけが、相手の理屈を受け入れる能力を有している。

理屈に囚われてる人は自分の理屈に囚われているだけであり、そしてあらゆる物事を見落とす。自分の理屈に囚われない人だけが、相手の理屈を理解できる。

自分を殺すことと、自分を押し殺すことは違う。自分を押し殺して我慢しても、後で怒りが湧いてくる。しかし自分を殺して新たな自分に生まれ変われば、無駄な怒りも消滅し、穏やかな気持ちで物事に対処できるようになる。

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