絵画に限らない遠近法
『責任と理屈』という記事に「感想 〜(・∀・) 」さんからコメントをいただいたので、その返信として記事を書きます。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-9401.html
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コメントありがとうございます。
>短編小説を読んでいるようで楽しいです。
実は、自分には小説を書く才能はない、と思っていたので、これは意外で嬉しいです。
読み直してみると、確かに小説の主人公の独白のようでもありますね。
最近のブログはTwitterで書いたことの寄せ集めで、その効果もあるのかもしれません。
>遠近法がよくわからなかったので、建物の絵はダメだなと、美術の時間に思ったものですが、難しい文章を読み解くのも苦手なのですが、糸崎先生のブログは、結構お気に入りだったりします。
ぼくも遠近法は苦手で、それもあって絵画を断念して写真に転向したのです。
しかしあらためて気づくと、遠近法は絵画に限らず、あらゆる事柄に及んでいます。
絵画の遠近法は、近いものを大きく、遠くに従って小さく描きますが、どんな物事の判断も、大事な事柄は大きく捉え、そうでない事柄は小さく捉えます。
判断が上手くできない人は、重大事項とそうでないものの判断ができておらず、つまり世界を遠近法で捉えておらず、ベタッとした平面として見ているのです。
絵画でも単純な遠近法は画面にモノが飛び出したように見え、これは単純に人々の目を驚かせます。
しかし、より高度な遠近法になると画面の奥の奥まで続くような、広くて深い空間が描けるようになり、見る者に深い感動を与えます。
遠近法とはものの見方の序列と、ものの見方の深さです。
物事の価値の序列を見極められる人は、まず目先の利益に聡くなります。
しかし物事の奥の奥を深く見通すようになると、目先の利益にとらわれることが無くなります。
そして遠近法でものを見ない人は、目の前の現実に流されるままで、いざという時何もできずにフリーズします。
遠近法でものを見るには、世界に対し自分が距離を置く必要があります。
言ってみれば、自分と世界との距離感が、その人の持つ遠近法になります。
自分と世界とがベタッとくっついてしまうと、つまり好きなものや不安な事柄に執着しすぎると、遠近法で世界が見られなくなります。
遠近法は絵画に限らないことは、橋爪大三郎『はじめての構造主義』に数学を例に書いてありますので、興味があるなら読んでみてください。
>私はまだネットマナー的なものだったり、ネット上の個性なりキャラクターなり、見せたい自分を継続させる方法がよく分からないのですが、いつも更新を楽しみにしています。
いや、キャラは十分できてると思います。
自分では普通にしてるつもりでも、個性はに染み出るものなのです。
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コメント
感動しました。
さすがだと思いました。
私は、車を運転しようにも、ベタっと平面なので、運転が苦手です。
『手前は大きく後ろは小さく』とはいっても、窓の「さん」だとか・・つくりがどうなっているのか分からず、単純なものすらまともに描けませんでした。
そもそも、人の顔などはデータ化しないとイマイチよく分からないので、一度、写真or映像になっていないと、記憶がしづらい感じでした…。
人を見ても、まつ毛だけ、とか、前歯だけ、とか、ボンヤリしたイメージとピンポイントの寄せ集めを形にしようとするだけなので、自分自身が『殆どよく分からない』こともハッキリしました。
人物を描く際に、立体感が全然出ず、骨格イメージができる程には遠近感を意識できていない←以前に、毎日見てても覚えられていないんだと気付かされました……。
……………
理屈や構造以前の問題だったようです。
やはり、先生はさすがだなと思いました。
投稿: 〜(・∀・) 感想 | 2012年8月14日 (火) 00時42分
コメントありがとうございます。
>人を見ても、まつ毛だけ、とか、前歯だけ、とか、ボンヤリしたイメージとピンポイントの寄せ集めを形にしようとするだけなので、自分自身が『殆どよく分からない』こともハッキリしました。
>人物を描く際に、立体感が全然出ず、骨格イメージができる程には遠近感を意識できていない←以前に、毎日見てても覚えられていないんだと気付かされました……。
このように、「自分にはいかにものが見えていないか」を観察して自覚することは重要です。
誰に限らず、自分ではものがよく見えているつもりで、しかしよくよく反省してみると何も見えていないのです。
その反省から「いかにして世界を見るか」という遠近法が発達したのだとも言えます。
遠近法は「どのようにして遠近感を描くか」という方法ではなく、「どれほどの遠近感で世界を見るか」というアクティブな方法だったと言えます。
「どのようにして遠近感を描くか」という方法は「自分には世界が見えている」が前提となるので、自分が見えている範囲の狭い遠近感しか描くことができません。
「どれほどの遠近感で世界を見るか」という方法は「自分には世界が見えていない」が前提となり、自分の見える範囲を深めることで、絵画空間をより深めることができるのです。
遠近法がキリスト教圏で発達したもの、キリスト教が《神》という存在をできうる限り「遠く」に設定したことと、無関係ではないはずです。
中華文明でも独自の遠近法が発達しましたが、『老子』など読むと、その哲学が卑近なところから始まり、かなり「遠く」まで見通されていることがよく分かります。
文明の発達とは、人間の精神世界の広がりでもあり、それが遠近法に反映されているのです。
しかし最近の日本は「身の丈主義」が主流で、一見上手く描けているようで、その実狭い遠近感の絵が多いようです。
身の丈主義も一種の「主義」なので、思想信条の自由に鑑みて、それはそれで良いとは言えますが。
投稿: 糸崎公朗 | 2012年8月14日 (火) 06時53分