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2012年8月27日 (月)

信仰心から学びが生まれる

中島義道『哲学の教科書』と言う本が1995年に出版され、恐らくその年に読んだのだが、中島さんは小学校低学年の頃から「自分はいずれ死んでしまう」という思いに憑かれ、しかし多くの人は自分は死なないと思っており、なんてバカなんだ…というように書いてあった。
しかしぼく自身は「自分はいつか死んでしまう」という事が、理屈では理解していてもどうしても実感できず、自分は(中島さんが指摘するように)なんてバカなんだろう…という想いが、今に至るまで続いている。
試しに友人たちに聞いてみると、子供の頃に「自分はいつか死んでしまう」という恐怖に取り憑かれた経験のある人はけっこう多く、みんな優秀だ。
ぼくだけがそのような実感を、どうもいまひとつ持てずに落ちこぼれている感がある。

ということもあって、キルケゴール『死に至る病』を読んでみたのだが、ぼくの周りではこの本を早い人は中学生で、遅い人でも二十歳ぐらいの時までにはみんな読んでいて、今頃慌てて読んでるのは自分くらいだ。
この本は現在の自分が読んでも難解で置いて行かれるばかりだが、しかしとりあえず、自分には「信仰」が圧倒的に足りないことが、よく分かった。
例えばぼくは、芸術に対する信仰が全く足りてず、ひいては人類文化に対する信仰が全く足りない。
信仰のない者は「自分」という矮小な神の信仰者に過ぎない。
言い換えれば、自分はいかにものを知らずに人生を送ってきたかであり、知ったかぶりの人生でしかなかった。
信仰とはすなわち知性の源でもあり、そもそも誰かを信じなければ学びは生まれない。
芸術への信仰がなければ芸術への学びは生まれず、文化への信仰がなければ文化への学びは生まれない。
「自分」の信仰者は、自分のことは何でも知ってるつもりでいるので、何の学びも生じず、知ったかぶりの人生を歩む。

世界を深い遠近法として捉えるには、不動の基準が必要で、基準が無ければ世界の表面にベタッと貼りつき翻弄されるだけ。
信仰こそはその「不動の基準」なのであり、これがない者は「自分」を信仰し外部世界への観察力と情報収集力を損なう。

実はぼくがアーティスト集団「気体分子ギャラリー」のメンバーとなったのは、芸術を迫害する立場から芸術を信仰する立場へと「転向」を決意したからなのだが、キリストの迫害者であったサウロの目から鱗が落ち、使徒パウロとなったようには行かず、どうにも曇り眼のまま「自分」にしがみついている。

ともかく、『死にいたる病』のような本を若いうちに読めば、それ以降の人生無駄にしないで済むだろうし、ぼくのように年取ってから読むと、これまでの人生がいかに無駄であって、そしてこれからの人生の何もかもが既に手遅れであるという事実に直面出来るのだった。

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コメント

ああ…私自身、うつ病で苦しんだことがあった為か、記事を読みながら、すごく共感しつつも、胸に響きました。哲学は私も好きなので、中島義道さんの本を、読みたいと思います。

投稿: フランクリンプランナーに挑戦中 | 2012年11月11日 (日) 23時38分

すみません、ケータイから返信したつもりが、投稿されてなかったですね・・・
中島義道さんの本はけっこうたくさん読みましたが、今のぼくは『死にいたる病』の方を断然お薦めします!

投稿: 糸崎公朗 | 2012年11月22日 (木) 01時02分

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