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2012年9月

2012年9月30日 (日)

言葉の裏と言葉の意志

例えば、他人への悪口や褒め言葉は、実はいつでも自分に向けられている。
人は自分の欠点や自惚れの気持を折り返し、他人に向けて語る。
このように、言葉には表の意味と裏の意味とがある。

人は言葉を使っているようで、その実言葉に使われている。
人は意識の上で本当の自分の気持を知らず、自分が何者かも知らず、言葉の意味も知らずに言葉を使っている。
言葉を使う人の表面的な意志の向こう側に、言葉そのものの自律した意志を読むことができ、それが言葉の裏の意味となる。

だから他人と会話する時は、その人と会話しているのではなく、その人の向こう側の言葉の自立した意思そのものと会話するつもりで臨まなければ、多くの意味を読み落としてしまう。
俗に言う勘の鋭い人とは、個人を超えた言葉そのものの意志を感知する能力に長けている。

多くの人は、表面的には常に何らかのウソをついている。
このウソをつく主体であるところの言葉の自律性と会話しなければ、真のコミュニケーションは成立しない。

人間は常にウソをついているが、自分ではウソをついている自覚は全くなく、自律した言葉の意思のみがそれを知っている。

例えば、多くの人が抱く嫉妬心は、これがくだらない感情であることは、理性的な人間であれば誰もが心得ている。
だがそう思いながらも、自分の理性に反して嫉妬の感情が沸き起こるのは、それが言葉の意志なのである。
言葉はそれ自体が自律した意志を持ち、人の理性を侵食し感情を支配する。

人間は、自律した言葉というシステムの端末にすぎない。
端末と本体とを取り違えることは滑稽でしかない。
人は、そのようなミスを恒常的に犯すよう、言葉のシステムによって仕向けられている。

人間の言葉の根幹にあるのは「態度」であり、言葉は態度のバリエーションとして人の口から発せられる。
だから相手が自分に向けたメッセージが何であるかを知るには、言葉だけではなく、言葉を含めた態度全体で判断する必要がある。

「自分」というものは複数の他者に分裂している。
例えば言葉を発する自分と、態度で示す自分とが、別人であることがしばしばある。
他人の場合も同じであり、一人の人間は複数の他者の束として捉え、言葉を含めた総合的な行動としてそのメッセージを判断する必要がある。

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2012年9月29日 (土)

賢者と他人事

人は「あの人はこう思ってるはずだから」などと、他人の気持ちを察するという形で、自分の気持ちを表明することがある。
夢に出てくる他人の言動が、しばしば自分の気持の表れであることと同様である。

人は他人事だと賢者になり、自分の事だと愚者になる。

上から目線の相手にムッときてる時「いま自分は上から目線の相手にムッときているな」と自分を観察すると、優しい気持ちになれる。

他人を小馬鹿にした時「いま自分は他人を小馬鹿にしたな」と観察すると、慢心は消え去る。

命令の実行にはバグが付きもので、バグを減らす努力と、バグに目くじらを立てる事とは違う。

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生きてると思ってたら死んでいた

自分だけは死なない、と思っている人は、ボーッとして何も考えず、その瞬間において死んでいる。

自分だけは死なない、と思っている人は、日々時間を無駄に過ごし、生きながらに死んでいる。

自分は生きていると思っているが実は死んでいて、目に見えるのは死後の世界で、線路に飛び込めば生き返る。

まるで実感がなく、概念の操り人形になるのみ。

本当は死んでいるのに生きているとウソを付き通して生きる。

死ぬのが怖いのではなく、すでに死んでいる。

自分が死んでいることに気づかない人は、自分だけは死なないと思っている。

全ての生きていると思える生物は、実は生きていないし死んでいる。

生きている生物は存在しない。

自分は存在せず、他人だけが存在する。
なぜなら、自分だけが存在し、他人が存在することの真逆だからである。

世界は無前提に自分を祝福し、これを覆さなければ知性は発動しない。

死を恐れる者が死を恐れるのは、実のところ自分が既に死んでいることを知っており、その事実から目を背けるために他ならない。

自分が死ぬということは、今確実に「ある」と思える自分の存在が消えることで、その状態はなかなか想像し難く、そしてそのなんだかわからない状態に対し恐怖を覚える。
しかし寝るというかたちで自分の存在が「無い」状態は毎日体験している。
寝るのは心地よく死ぬのは怖く、そのように人は騙されている。

人は死にそうな体験をした瞬間に死を恐れるが、それ以外の時は別段死を恐れているわけではない。
死ぬのが怖い、腹が減った、眠い、人はいつでもそのような状態にあるわけではない、という点で共通している。

一般に意識があると言える状態でも、よく考えて振り返ると明確に自分の意識があったとは思えない時間がある。
むしろそのようによく考える以外の間、意識はずっと飛び続けて自分が無く、そのように自分は生きなぎら常に死んでいるのだ。

目覚めている時でも、ふと気が付くと意識が飛んでいることがある。

人間、生きているつもりで、ふと気が付くと意識が飛んでいて、生きながら死んでいる事が多い。

自分は生きながら常に死んでいる。だから死を恐れる必要はないし、自分でわざわざ死ぬ必要もない。

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2012年9月27日 (木)

鏡像理論

どこを見渡しても自分の顔だけが見当たらない。

どこに目を向けても自分の顔だけは見えず、他人が自分に顔があることを教えてくれる。

他人の顔を見て、自分にも顔があることを知る。

他人に教えられなければ、自分に顔があることを知り得ない。

人は自分の顔が自分の視界から消えていることの恐怖に耐えることができず、これを意識の下に抑圧している。

自分はいつか死ぬ、
死んだらどうなるかは知りようがなく、自分の顔は自分の視界から消えている。

自分には顔がないことは「見れば分かる」。

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多様性の時代

価値観の多様性を認めることは、自分は相手の価値観を認め、相手は自分の価値観を認めない、という不均衡を容認することに他ならない。
そのためには自分の無知無能をよく自覚し、空虚を拡大し、器を大きくしなければならない。

他人へのちょっとした気遣いが足を引っ張る。

価値観が多様な人間関係において、同調バイアスは足の引っ張り合いとして作用する。

価値観が多様化した時代は、各自の価値観が違っているのであり、つまり各自の気が違っているのであり、すなわち各自がそれぞれキチガイのキチガイだらけで全員が気が狂っている。
キチガイに腹を立てても仕方なく、優しく接するべきだし、自分がキチガイとして他人に迷惑かけないよう、優しく接するべき。

価値観が多様化した現代において、価値観の多様性を容認するキチガイと、価値観の多様性を容認しないキチガイの二者だけが存在し、自分は正常だと自覚する人は後者に含まれる。

「正常」がどこにも「ない」のであれば、優しくなるしかない。
優しい人は他人独自の「正常な時間」を尊重し、干渉することをしない。
自分こそが正常だと信ずる者は、ちょっとした気遣いにより大いに干渉し足を引っ張る。

他人の価値観を認めることの基本は相手を無視することで、若者の多くがこれを心得ているのであり、対応しきれない親世代が怒り叫びまくる。

相手固有の価値観を認めることとは、相手を無視することで、そこから様々な人間関係が生じる。
無視できない人は「あの人は間違っている」という思いに固執する。

自分が間違っているのではなく、相手が間違っているのではなく、価値観の多様性が存在するだけ。

価値観が多様化した時代に間違いは存在せず、常識の違いの身が存在する。

命令の実行にはバグが付きもので、バグを減らす努力と、バグに目くじらを立てる事とは違う。

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2012年9月26日 (水)

下流と貧乏は同じではない

中流階級とは、下流階級のプライドを満たすための言い換えに過ぎない。
そして自分も、そんな下流階級の出身に他ならないのだった。
下流階級の特徴は、万能感があり、自分の体験や感覚や好みを絶対視し、好き嫌いをする。
上流階級の人間は、実際の社会的地位に関わらず、この逆の道を行く。

社会の上流ほど文化的で反自然的であり、下流ほど反文化的で自然的になる。
上流の人間ほど自らの自然性を疑い、文化の力でこれを調教し、人工的な自分を創りあげてゆく。
下流の人間ほど自らの自然性を肯定し、自然のままの自由を謳歌するため、文化の美味しい部分だけつまみ食いし、それ以外を排除する

文化に対して偏食し、つまみ食いするのが下流階級の特徴であり、振り返れば自分もそのように生きてきたのであった。
全ては遅すぎるし手遅れでしかない、という前提で死ぬまで生きるしかない。

下流と貧乏は同じではない。
自分の家が貧乏であることは気付き易いが、下流であることは滅多なことでは自覚できない。
貧乏を測るお金は計量しやすく、下流を測る文化程度は計量がし難い。

総中流社会においては、自分が下流だと気付いた者だけが、下流へと転落する。
あるいは、総中流社会においては、中流とは下流の言い換えに過ぎないと気付いた者だけが、下流へと転落する。

何となく、自分がみんなと同じ中流だと思っていたところ、実は下流であったことに気付くこと自体が、創造行為なのだった。
万能感で満たされた心に無知の知による空洞を創造すること。
器は空洞をもって用をなす。

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2012年9月21日 (金)

不得意な事を克服するコツ

自分の不得意な事を克服するコツは、得意な事の反対を考えれば良い。
得意な事を鼻にかけると自滅するように、不得意な事を気に病んでも自滅する。
自分が不得意な事をじっと見据えた上で、不得意である事を気にせず、得意であることも気にせず、やるべき事をただこなすのみ。
人間は本質的に自分を棚にあげて他人を非難するのであり、自分は誰の非難にも耳を貸す必要は無く、ただ自分自身と対峙して反省すれば良いだけ。
さしたる欠点の見当たらない他人には大きな欠点が隠れているのであり、欠点が目立つ自分には大きな利点が隠れている。

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金儲けの秘訣

金を稼ぐのは簡単だが、多くの人はそれに気づかないだけ。
楽して儲ける事は簡単だが、多くの人は苦労して儲けようとし、その挙句貧乏になる。

多くの人は、楽して儲けたいと漠然と思いながら、現実的にはあくせく働いている。
井戸から水を組み上げるように働くのはナンセンスで、水道の蛇口をひねるように儲ける事。

金儲けの達人と思える人の多くは、実のところ金儲けのコツも秘訣も知らず、たまたまの運によってそれが実現できているに過ぎない。
この事実の内に、金儲けについての最大のカギが隠されている。

人間は本質的に自分を棚にあげて他人を非難するのであり、自分は誰の非難にも耳を貸す必要は無く、ただ自分自身と対峙して、金儲けの事だけを考えれば良い。

人間は助け合いながら、そして足を引っ張り合いながら、共に生きる。
この二つの要素を見極めるのが、金儲けへの道である。

小さな自分の等身大の感覚では、大きなビジネスはなし得ない。
従って、等身大を超えた「もう一人のキャラ」を産み出しなり切ることが、成功のカギとなる。

臆病な等身大の自分とは別に、大胆な別キャラを創造する事が、ビジネスの成功には欠かせない。
そもそもビジネスマンのスーツには、そのような意味が含まれる。
ビジネススーツは本質的にモビルスーツと同じなのだ。

本郷猛は仮面ライダーに変身することで大きなビジネスを成し遂げ、ハヤタ隊員はウルトラマンに変身することでさらに巨大なビジネスを成功させる。
我々が目にする孫正義やスティーブ・ジョブスも、等身大の自分から変身した姿に他ならない。

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望みを捨てれば望みが叶う

望みを捨てれば望みが叶う。欲望を絶てば欲望が満たされる。
現に、人は様々な望みを捨てながらそれを実現し、様々な欲望を絶つことでそれを満たしている。
その事をただ忘れているだけ。

自分の欲望を捨て、他人の欲望を満たすために奉仕し、自分の万能感を断ち、他人の万能感を満たすために奉仕する事。
奉仕する者は勝利し、奉仕される者も勝利する。
価値観の多様性はここに実現する。

最も強靭な精神の持ち主が、価値観の多様性を最大限に認め、より大多数の人々の言いなりになる。

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冒険者と臆病者

新しい発見や学説が認められにくいのは、無難な学説を信奉しやり過ごすだけの学問的臆病者が多いから。
新しい芸術が認められにくいのは、無難な芸術を信奉しやり過ごすだけの芸術的臆病者が多いから。

学問の世界は、ごく少数の学問的冒険者と、大多数の学問的臆病者との、力関係によって動いている。
芸術の世界は、ごく少数の芸術的冒険者と、大多数の芸術的臆病者との、力関係によって動いている。

冒険者の足を臆病者が引っ張ることで、文明は進歩する。

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2012年9月19日 (水)

価値観の多様性を認めるコツ

ようやく分かってきたのだが、価値観の多様性を認めるコツは「価値観の多様性を認める事」、これに尽きる。

価値観の多様性は、他人の「間違った価値観」「間違った判断」「間違った認識」「間違った常識」「間違った行動」など、様々な「間違い」として立ち現れる。

他人の間違いを指摘し正そうとすることなく、間違いを価値観の多様性の表れであると観て、これにより生じた不具合は黙って自分が処理をする。
いつでも自分が「正しい」と思ったことを成し遂げるのみであり、何事も他人に頼ったり、押し付けてはならない。
これが「価値観の多様性を認める事」なのである。

間違った他人にカリカリ頭に来ている人は、価値観の多様性を認識せず、これを認めない人に他ならない。
自分が「あの人は間違っている」と思う事自体、自分もまた他人に「あの人は間違っている」と思われている事の表れだと観なければならない。

他人の間違いを、その人自身に認めさせたり、正すよう要求する事は、本質的に不可能であり無意味である。
なぜなら「間違っている」と判断しているのは他ならぬ自分なのであり、だからその間違いを、自分自身が自分のために正す事だけが、唯一可能なのである。

自分とは異なる価値観を理解することは不可能で、いつまで経っても相手の間違いは「間違い」としてしか認識できない。
しかし「間違い」を主張する相手に対し、自分が黙って言いなりになりさえすれば、あらゆる問題は即時に解決する。
間違いを主張する相手を自分の姿を映す「鏡」と観て、だた自分自身の間違いを正すだけで済むのである。

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2012年9月16日 (日)

反省と失望

反省とは、自分がいかにダメなのかを観るだけでは済まない。
自分以外の人間も、自分と同じくらいダメであることを観て失望しなければ、真の反省とは言えない。
自分が凡庸な人間であるならば、自分だけが他人に比べ飛び抜けでダメと言うことは、たいていの場合はあり得ない。
だから自分のダメさ加減に気付くと言うことは、人間そのもののダメさ加減に気付くことでもある。
しかし多くの人間は、自分のダメさを直視せず、これを回避するために、反省する人間に向かって「お前だけがダメなのだ」と思い込ませるのだ。

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正常バイアスと、同調バイアス

正常バイアスや同調バイアスは、自分にも当然かかっている。
自分の悪い習慣をなかなか対象化できないのも、これらのバイアスのせいである。
つまり自分には合わない他人の習慣に流され、しかもそれが正常だと信じ続けることで、いつまでも無理が続き無駄が繰り返されるのだ。

仕事の能率が上がらないと感じる時、正常バイアスと同調バイアスの存在を疑った方がいい。
人間の精神のあり方は多様であり、自分は自分が思っている以上に個性的なのだ。
そんな自分の個性を無視して、他人のやり方や習慣に当然のように従っていると、自分のパフォーマンスが落ちるのは当たり前なのだ。

人間は自分の顔やその姿を、自分の目で直接見ることができない。
だから人間は多くの他人を見て、自分もだいたい似たような人間であることを認識する。
しかし同時に、他人とは決定的に異なる自分の個性を見逃してしまう。
自分だけの個性とは、自分の顔と同様に、認識が非常に困難なのである。

自分だけの個性は、自分からはとても見えにくいことを自覚しなければならない。
自分の個性だと思っていた要素が、実は「個性的な他人」の要素の取り違えに過ぎないことはよくある。
これも、同調バイアスや正常バイアスの効果だと言えるのだ。

自分にとっての「自分」とは、その顔も個性も直接見ることができない「近くて遠い他者」なのだ。
自分にとっての「自分」とは、まさに見ず知らずの他者なのである。
この不安から逃れるため、人は多くの他人を見て、自分も似たような人間であると認識し、安心しようとする。

正常バイアスと同調バイアスは、自分だけの個性を見逃すと同時に、それぞれの他人の個性も見逃す。
実際にそこには存在しない「誰か」を想定し、その「誰でもない誰か」を正常とみなし、そのあり方に同調する。
そのように、実に奇妙なメカニズムでこれらのバイアスは作動する。

確かに、人は誰でも猿とは異なる人間らしい顔をしており、日本人はおしなべて日本人らしい顔をしている。
しかし同時に、一人一人が微妙に、そして明らかに異なる顔をしている。
性格や精神もまた同じで、おしなべて同じである要素と、かけがえのない個性との二面性がある。
しかし正常バイアスと同調バイアスは、自分と一人一人の他人との、具体的な個性の違いを見逃すよう機能する。

仕事ができない人は、仕事ができる人のフリをするテクニックを、たくさん身につけている。
あるいは、仕事ができない人ほど、実際に会って打ち合わせをしようとする。
彼らが望むのは実際の成果ではなく、仕事をしたと言う「感じ」なのであり、そのために打ち合わせや会議が利用されるのだ。
仕事ができない人は何事も慎重に先送りにし、そのすべてが手遅れになる。

人は、仕事ができない人を目の当たりにしても「目の前にいるこの人が、こんなにダメなはずがない」という正常バイアスによって認識を歪める。
この作用によって、仕事ができない人は、仕事ができる人のふりをしながら生き永らえることが出来るのだ。

仕事ができなくて仕事ができるフリだけをする人に対し、改善を望むことはできず、かと言って社会から排除することは人道上問題がある。
そのような人は、結局は周りの人が欠陥を理解した上でいたわって、ケアしながら仕事を成立させるしかない。

困った相手、嫌な相手に対して、障がい者認定してあげると、誰に対してもほっこり優しい気持ちになれる。
人は誰でも(自分をも含め)なんらかの障害を抱えているのであり「正常バイアス」を外してこれを見極め、誰に対してもほっこり優しい気持ちにることが、ビジネス成功のカギとなる。

自分自身が障がい者であることが自覚できれば、あらゆる他人もまた障がい者であることが理解できて、ほっこり優しい気持ちになれる。
自分は正常だという認識は正常バイアスの産物に過ぎず、普通の人は障がい者ではないという認識は同調バイアスの産物に過ぎず、これらに惑わされると心が荒んでしまう。

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2012年9月14日 (金)

変わり者でヘンな人

母親の話だと、ぼくは子供のころから学校の先生に「糸崎くんって変わってるわね〜」などと言われてて、確かにその通りなのだが、あらためて考えると完全に騙されていた。
実のところ、ぼくだけが変わり者なのではなく、みんなも同等以上に変わり者で、ヘンな人で、病的なのだった。

しかしなぜ、周囲の人間がぼくを変わり者扱いするのかと言えば、その誰もが無反省に、自分を棚に上げて、そのように他人を指摘しているに過ぎなかったのだ。
言い換えると「自分は正常だ」と思いたいが為に、ぼくのような人間を変わり者として祭り上げているのだった。
言ってみれば、ぼくは周囲の人間が「自分は正常だ」と思い込むための「生贄」だったのである。

多くの人間の精神には、自分だけは正常だと思い込む「正常バイアス」と、みんなと同じであることが正常だと思い込む「同調バイアス」が掛かっており、どちらも人間の精神として健全とは言えない。
だからこのような人々は、反省して正常に戻るまで、檻の中に閉じこめられているのだ。
檻の中に閉じこめられている人は、自分がそのような状況にあることを自覚できず、
反省して外に出た人間だけがそれを認識する。
そして、そのように反省して檻の外に出ると、檻の中の人々から「あの人は変わり者だ」などと言われるのだった。

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2012年9月11日 (火)

言葉と意味

人間は言葉の意味を知らずに言葉を使っている。
言葉というものは、その意味を知らなくとも使うことができる。
例えば人は「芸術とは何か?」という意味を知らずに「芸術」という言葉を使っているし、「芸術とは何か?」という意味を知らなくとも「芸術」という言葉は使うことができるのだ。

「人は言葉の意味を知らずに言葉と使っている」と言うことは、「人は自分の顔を直接見ることはできない」や「人は誰でもいずれは死んでしまう」などと並ぶ大きな問題と言えるかも知れない。
問題が大きすぎて、人は問題から目を背け、知ったかぶりをする。

「人は言葉の意味を知らずに言葉を使っている」という事実から目を逸らすため、人は自分の認識世界を様々な「知ったかぶり」で埋め尽くそうとする。
だから「芸術とは何か?」や「哲学とは何か?」や「宗教とはなにか?」などといったあらゆる言葉の定義は、単なる知ったかぶりに過ぎない。

人は言葉の意味を知らずに言葉を使っている。つまり言葉の意味を知るには、その言葉が実際にどのように使われてきたのかを、知る必要がある。
言葉が人類の経験の圧縮であるならば、言葉の意味は、歴史的な使われ方のうちにこそ存在する。

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2012年9月 9日 (日)

言いなりか、拒絶か

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
他人に命令する者は、別の他人から命令を受けそれを引き継いでいるに過ぎず、命令者の自発性や自由意志といったものは存在しない。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
自分の意思には何の価値もなく、そもそも自分には何の意思もない。
他者の欲望を読み込んでそれを実行するか、何も読み込まず何もしないか、どちらかしかない。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
世界とはあらゆる他者の欲望に満ちており、自分はその反応によってのみ行動する。
そして他者の欲望の拒絶、反応の拒絶、行動の拒絶としてのみ自分の自由意志は成立する。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
言いなりになることは楽であり、無駄な拒絶は疲れをもたらす。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
言いなりになる者は楽をしながら和をなし富を得る。
拒絶する者は苦を背負いながら不和をなし富を失う。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
今日一日、どれだけ無駄な拒絶をし、他人の言いなりで楽をすることを棒に振ったのかを、反省すること。

他人の言いなりか、拒絶か、二つに一つしかない。
同じ他人の言いなりを続けて、他の他人の言いなりを拒絶し続けると、マンネリに陥る。

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人間と無能

自分だけが無能なのかと思ったら、そもそも人間が無能なのだった。
自分がなぜ「自分だけが無能だ」と思い込んでいたかと言えば、子供の頃から親や先生に「お前は無能だ」と言われ、今でもなお他人にそう言われ続けていて、それでいたたまれなくなってアーティストの立場に何としてでも逃げ込まざるを得なかったのだった。
しかし、3.11をきっかけに遅ればせながらあらためて気づいたのは、人間とはそもそも無能であり、それを自覚して黙っている人と、自分の無能を棚に上げて他人を無能呼ばわりする人の、二種類がいると言う事なのだった。
そして、実のところ自分自身にも「自分を棚に上げて他人の無能を責める」性質があるのであり、それは他人を自分の鏡として見る事で、発見できるのだった。

誰もが自分と同様に無能なのであり、誰をも恐れる必要は無い。
自分は無能だとか、あいつは無能だとか、そう言うことで悩んだり腹を立てたりする必要は全くない。なぜなら人間そのものが無能だから。
人間が無能だと言うことは、人間は無能がベースになっているということだ。
つまり、どんなに有能な人でも、それ以上に大きな無能を抱えている。

能力は人それぞれなのと同様、無能もまた人それぞれである。
ゆえに、他人の能力に驚くのと同様、他人の無能にもまた驚く。

実は、ぼくはこれまで政治の話に今ひとつ興味が持てなくて、そこも欠点なのだったが、それは政治家というのは自分に比べ格段に能力が高い専門家集団で、ぼくのような無能な人間が興味を持って首を突っ込める領域であるはずがないと、思い込んでいたからなのだった。
あるいは、昔読んだ呉智英の本に、ある漫画に無学な漁師が政治についてしたり顔で語る描写を引き合いに出して、庶民が政治について語るとは、だいたいがこんなもんだというように書かれていて、それももっともだと思ったからなのだった。
しかし、自分に限らず人間そのものが無能なのであれば、高学歴の政治家も、漫画に描かれた無学な漁師も、凡庸な一般庶民も、社会から落ちこぼれてアーティストになった自分も、無能であるという点では何も変わらない。
つまり政治とは、そのように無能な政治家によって行われているものに過ぎない。
だから、自分がいかに無能であっても、政治については何も恐れることなく、気後れしたり遠慮する必要もなく、堂々と興味を持って首を突っ込み、したり顔で何か言ったとしても、それで何が悪いということは、全くないのである。

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2012年9月 5日 (水)

認識と苦悩

他人に流され認識を怠ると津波に流される。

人間の視界は過去は見えても未来が見えない。人は目の前に広がる深い霧に、過去の幻影を映しながら歩んでいる。

深い認識は深い苦悩として現れるのであり、苦悩が無いのは認識を欠いている証拠だと自覚しなければならない。

あらゆる苦悩は、より深いレベルでの苦悩に移行することでしか解消され得ない。故に多くの人が苦悩の解消を拒み、現在のレベルの苦悩にこだわり続ける道を選択する。

あらゆる悩みはより深い悩みに移行することでしか解決し得ない。そのようにして、いよいよ自殺するしか無いところに追い込まれる地点から、初期仏典で解かれるところの解脱が可能となる。

語りえぬものについては、沈黙して調べなければならない。

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2012年9月 4日 (火)

犀の角

権力闘争は馬鹿らしい。自分に権力欲のあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

自分の心が移り変わるように、他人の心も移り変わることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

他人に失望した時は、同時に自分にも失望しなければ、認識を深めることはできない。犀の角のようにただ独り歩め。

自分を棚に上げて他人に失望することなく、他人への失望を自分へ折り返し反省しながら、犀の角のようにただ独り歩め。

認識の殻に閉じこもりながら群れるのではなく、他人をよく観察しながら、犀の角のようにただ独り歩め。

目の前の他者たちに惑わされることなく、広く社会との関係の中で生きながら、犀の角のようにただ独り歩め。

目の前の他者たちに執着することなく、広く社会性を生きながら、犀の角のようにただ独り歩め。

自分独りでは生きることはできず、目の前の他者たちとだけでも生きることはできない。自分とは社会システムの一端末であることを知って、犀の角のようにただ独り歩め。

現代日本は大乗仏教国なのだが、大乗仏教の外部に出ない限り、自分の置かれたその状況を認識することはできない。それを知るために犀の角のようにただ独り歩め。

仏教をはじめとするあらゆる入門書や解説書は全て大乗仏教の産物だと知って、犀の角のようにただ独り歩め。

象徴界はその代替物に転じ、大乗仏教が仏教に成り代わり、小乗の蔑称をこれに与える。自分の内にもそれが起きることを知って、犀の角のようにただ独り歩め。

人任せにしようとした事の全てが自分に跳ね返ってくる。犀の角のようにただ独り歩め。

悩みがないのは認識を欠いている証拠であり、そのような人はゆっくりと迫り行く大津波から逃れる事はできない。犀の角のようにただ独り歩め。

貪る人々に同調することなく、大目に見てこれを哀れみ、犀の角のようにただ独り歩め。

霧が晴れて視界が開けたと思いなし、人は霧に映し出された幻を見る。おぼろげな視界を恐れる事なくこれを見据え、犀の角のようにただ独り歩め。

人を見かけによって侮ってはならない。人を見かけによって侮りやすいことを良く知って、犀の角のようにただ独り歩め。

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2012年9月 3日 (月)

現実と幻

人生は夢幻だからこそ人はそれに固執する。

人は眠りから覚めた後、リアルな夢を見る。

世界はドロドロに溶けていて、自分だけが凝り固まっている。

明るい道は一寸先の闇を隠す。

永遠に続くと思えるものほどその終わりは近い、自分の命がそうであるように。

夢見心地の中で現実的処理をしなければ生き残ることはできない。

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反省と思い込み

多くの人が反省を嫌がるのは、悪いのは全て自分のせいだと思い込み、だからこそそれを認めたくないからに他ならない。
しかし実のところ全ては他者のせいなのであり、一切が自分のせいではない。

つまり、一切が自分のせいでないことを知るには、その原因となった他者が何であるか見極めることが必要であり、その認識行為が「反省」と呼ばれる。
反省しない人は、悪いのは全て自分のせいだと思い込みながら、その思い込みの中に閉じこもる。

あるいは、一切を他者のせいにして、一切の責任を自分で負う態度が「反省」と呼ばれる。
反省しない人は、悪いのは全て自分のせいだと思い込みながら、一切の責任を他者に押し付けようとする。

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