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2012年9月 9日 (日)

人間と無能

自分だけが無能なのかと思ったら、そもそも人間が無能なのだった。
自分がなぜ「自分だけが無能だ」と思い込んでいたかと言えば、子供の頃から親や先生に「お前は無能だ」と言われ、今でもなお他人にそう言われ続けていて、それでいたたまれなくなってアーティストの立場に何としてでも逃げ込まざるを得なかったのだった。
しかし、3.11をきっかけに遅ればせながらあらためて気づいたのは、人間とはそもそも無能であり、それを自覚して黙っている人と、自分の無能を棚に上げて他人を無能呼ばわりする人の、二種類がいると言う事なのだった。
そして、実のところ自分自身にも「自分を棚に上げて他人の無能を責める」性質があるのであり、それは他人を自分の鏡として見る事で、発見できるのだった。

誰もが自分と同様に無能なのであり、誰をも恐れる必要は無い。
自分は無能だとか、あいつは無能だとか、そう言うことで悩んだり腹を立てたりする必要は全くない。なぜなら人間そのものが無能だから。
人間が無能だと言うことは、人間は無能がベースになっているということだ。
つまり、どんなに有能な人でも、それ以上に大きな無能を抱えている。

能力は人それぞれなのと同様、無能もまた人それぞれである。
ゆえに、他人の能力に驚くのと同様、他人の無能にもまた驚く。

実は、ぼくはこれまで政治の話に今ひとつ興味が持てなくて、そこも欠点なのだったが、それは政治家というのは自分に比べ格段に能力が高い専門家集団で、ぼくのような無能な人間が興味を持って首を突っ込める領域であるはずがないと、思い込んでいたからなのだった。
あるいは、昔読んだ呉智英の本に、ある漫画に無学な漁師が政治についてしたり顔で語る描写を引き合いに出して、庶民が政治について語るとは、だいたいがこんなもんだというように書かれていて、それももっともだと思ったからなのだった。
しかし、自分に限らず人間そのものが無能なのであれば、高学歴の政治家も、漫画に描かれた無学な漁師も、凡庸な一般庶民も、社会から落ちこぼれてアーティストになった自分も、無能であるという点では何も変わらない。
つまり政治とは、そのように無能な政治家によって行われているものに過ぎない。
だから、自分がいかに無能であっても、政治については何も恐れることなく、気後れしたり遠慮する必要もなく、堂々と興味を持って首を突っ込み、したり顔で何か言ったとしても、それで何が悪いということは、全くないのである。

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