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2012年10月

2012年10月16日 (火)

法華経と共倒れ

現実は理不尽で過酷で複雑で、これを直視すると重い荷を背負い込む事になる。
そうなるとみんなが乗る大船は重さで沈んでしまい、大乗仏教は成立しない。
だから現実から目を背け、何も背負わない方が良いのだと、法華経は説いている。

3.11の津波被害で明らかになったように、助かりたい時は他人に構わず自分だけ助かろうとしなければ、助かる命も助からない。
みんなで助かろうとすると、お互いに頼り合って判断や反応が鈍り、みんなで逃げ遅れてしまう。

自分を助けることができるのはあくまで自分だけであり、本質的には誰も頼りにならない。
また、人は自分だけを救うのが精一杯であり、他人を助けるだけの余裕は持ち合わせていない。
そして、自分自身を助けることができる者同士だけが、協調して逃げることができ、そうで無い場合は共倒れになる。

結局のところ、法華経とは何かと言えば、共倒れ路線なのである。
何か危険があった場合、自分だけ助かろうとするのではなく、みんな一緒に共倒れすることを、法華経は勧めているのだ。

他人に情けをかける誘惑は共倒れに通じている。
共倒れに結びつく誘惑を断ち切り、他人を見捨て、自分だけが助かろうも思わなければ、自分さえ助けることができなくなる。
助け合いの精神は共倒れに通じている。助け合いの精神は、他人に頼る精神に通じ、自分を棚に上げ他人に干渉する精神に通じている。

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2012年10月15日 (月)

法華経の毒

日本人である自分は、生まれながらにして法華経の毒素に冒されているのだが、この毒抜きをして、果たして「非人称芸術」が残り得るかが問題だと言える。
もしかすると自分のいう非人称芸術とは、法華経の産物でしかなかったのかもしれない、という疑いを立てることが毒抜きとなる。

日本という国は全体が法華経の毒に冒されて、毒抜きをした人だけが助かり、そうでない人は自分が恐ろしい毒に冒されているとも知らず、幸福に寿命を全うし安らかに死を迎える。

幸福に寿命を全うし、何の問題があるのだろうか?と思えてしまうところが法華経の毒素の恐ろしさである。恐ろしい、と気付かなければ恐ろしいことは何も無い、というところが最高に恐ろしい…

毒が毒として恐ろしいのは、毒に侵されている自分が、毒を毒として認識できず、毒が産み出す幸福感に包まれ、毒に依存しながらどんどん毒に侵され、取り返しのできない状態になってなお気付かずに、結局は幸福に人生を終えてしまうことにある。

法華経の毒素の中心は「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムにある。
この行動プログラムは親から子へ、人から人へ感染する形で、古来から受け継がれ日本中に蔓延し続け、人々の思考、感情、行動などのあり方を規定しきた。

当然自分も生まれながらに「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムに感染しており、法華経の毒素が体の奥にまで染み込んでいる。
これを取り除くのは並大抵ではないが、まず毒素を毒素として認識することが、毒抜きの基本となる。

「凡夫は難しいことを知る必要が無い」のだから、哲学も思想も宗教も、入門書を読んで知った気になればそれで十分なのである。
「凡夫は難しいことを知る必要が無い」のだから、アーティストは他人に影響されず、自分の感性でオリジナルな表現をすべきなのである。

しかし、毒素を毒素として認識し我が身を振り返ると、入門書の知識だけで「非人称芸術」の概念を打ち立てるなどの行為は、自分が凡夫だからそうせざるを得なかったのではなく、「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムに感染していたことが、その原因があったことに気付くのだ。

そもそも、自分が見出した「非人称芸術」のコンセプトは、「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムを打ち破る、小さな突破口であったのだ。
しかしせっかくの突破口を、入門書の知識て補強しても、かえって穴を塞ぐだけであり、愚行でしか無いのである。

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2012年10月10日 (水)

視点と心

どんなに優れていると思える人でも「この人はダメなんだ」という思いで見据えるとダメな面が見えてくるし、どんなにダメと思える人でも「この人は優れている」という思いで見据えると、優れた面が見えてくる。

「見る」とは両目で見て、 さらに体を移動して異なる角度から見ることに他ならない。
一つだけの視点で固定して見る事は「見る」とは言えない。
人間の視点は、実は心によって対象物に張り付き固定されてしまう。

相手に行為を抱く心に視点が張り付くと、相手のダメな面を見逃すし、相手に嫌悪を抱く心に視点が張り付くと、相手の好い面を見逃す。
相手を両目で、様々な角度で認識するには、自分の心に視点を張り付かせないよう、常に警戒しなければならない。

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2012年10月 8日 (月)

ストレスと創造力

確信に満ちて躊躇しない者は圧縮率が高く、優柔不断で躊躇する者は圧縮率が低い。
勇気の源は圧縮率の高さにあり、臆病の源は圧縮率の低さにある。
圧縮率は、経験と知識の入力によって高められ、表現により放出される。

いや、表現には圧縮と放出の二種類があると言えるのかもしれない。
ストレスの圧縮として表現するか、ストレスの放出として表現するか…?

ストレスは、放出するより溜め込んで圧縮率を高める方が、クリエイティブと言えるかもしれない。
ストレスに疲弊することなく、ストレスをどんどん溜め込んで破裂することの無い、圧力容器のような精神を構築すること。

あらゆるストレスの源流を辿ると、死への恐怖に辿り着く。
人間は誰でもいずれ死ぬ、という理不尽な運命への恐怖が、あらゆる種類のストレスへと分岐する。
多くの人は「自分はいずれ死ぬ」という恐怖を和らげるため、それを様々な種類のストレスに変えて分散させ、それらの放出で気を紛らわせている。
「自分はいずれ死ぬ」という理不尽な運命を直視し、その恐怖によるストレスをどこまでも溜め続け、その圧縮率の高さが創造力の源となる。

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反転と許容

究極のリラックスは、究極の許容によって生じる。
これを得るには反転の技を使う必要がある。

自分の願望を反転し、相手の願望を満たすこと。
承認されたい気持ちを反転し相手を承認し、許容されたい気持ちを反転し相手を許容すること。
かなりのところまで自分を許容して欲しい、という気持ちを反転し、かなりのところまで相手を許容すること。

ダメな自分を許容して欲しい、という願望を反転し、自分を許容しない相手を許容すること。
自分を含めて人は誰でも気が狂っているのであり、そのような狂人相手に承認を求める事は無意味であり、相手の狂人的な打撃に打ち返す事も無意味であり、何もかもただひたすら許容することだけに意味がある。

狂人はひたすら承認と許容を求めて暴れまわる。
自分の中の狂人的願望を反転し、相手の強靭的願望を満たし、何もかもを承認し許容すること。

刃物を振り回す狂人に対し、自分も刃物を持った狂人として立ち向かうと、血みどろの地獄が生じる。
これを回避するには、自分の狂気を反転し、相手の狂気に同調させ、その力を無化させること。

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承認とストレス

他者の承認を得られない事がストレスになる。

自分はなぜ他者に承認を求めなければならないのか?目の前の他者は、自分の承認を得るに足る人物なのか?目の前の他者は自分の承認の基準となりうるのか?自分の承認は自分自身でしなければならないのか?なぜ自分の承認より、相手の承認を信頼するのか?

他者の承認を得られない事がストレスになる人は、自分で自分を承認することができず、だから他者に承認を求めるようになる。
自分で自分が信頼できず、自分よりも他者を信頼し、その他者に自分が信頼に足る人間であることを、認めさせようとしているのである。

願望は認識を曇らせる。
だから他者の認識を得ようとするのは間違いで、誰が自分の承認を拒否するのかを認識し、観察する必要がある。
誰が自分を軽んじ、蔑み、嫌悪し、差別し、誤解し、成果を認めず愚者と決めつけているのか、その事実を事実のまま発見し、観察する必要がある。

最も重要なことは、自分を軽んずる他者を観察するとともに、他者を軽んずる自分を発見し、これを観察することである。

我慢して他者の言いなりになり、ストレスを溜めても意味はない。
我慢するのは自分の「思い」に囚われているからで、その思いとは「思いの原因となる他者」の言いなり状態に他ならない。
この状態を観て、究極のリラックスによって全てを「他者の言いなり」に任せることで、あらゆるストレスは消え去る。

「他者の言いなり」に行動すると、その結果どのように失敗しようとも、自分で責任を負う必要がなくなり、ずいぶんと気が楽になり、どんどん行動できるようになる。
自分の思いのままに他人を動かすと、他人の行動の責任まで自分が負うことになり、そのプレッシャーがストレスとなり行動も萎縮する。

「他者の言いなり」に行動すると、その結果どんな失敗がもたらされようと、自分は一切責任を追う必要がない。
一方、命令を下した他者は、自分の犯した失敗に慌てふためきストレスを溜める。

他者に軽んぜられたり、誤解されたり、才能や成果が認められなかったり、無視されたり、そのように承認されないことが、ストレスの要因となる。
しかし「他者の承認を求める」という欲求は、多くの場合自覚されずに抑圧され、知らぬ間にストレスを溜め込むことになる。
だから「自分は今、他者の承認を求めている、他者の承認を求めている、他者の承認を求めている…」と呪文のように唱えると、他者の承認を求める気持ちが消え、ストレスも消え去る。

「他者の承認を求める」という欲求は、自覚しないからこそストレスとなる。
「他者の承認を求める」という自分の欲求を自覚し対象化すれば、「こんな相手に承認を求めても仕方が無い」あるいは「こんな事で誰かに承認されても仕方が無い」ことが理解でき、ストレスを溜めることもなくなる。

自分自身の「他者の承認を求める」欲求は、相手の「他者の承認を求める」欲求と対になっている。
つまり、自分が相手に承認して欲しいのと同様、相手も自分に承認を求めている。
そして時として、「相手の承認を拒否する」ことと、「相手に自分を承認してもらう」こととが結びついている場合がある。

相手がダメな人間であるからこそ、自分が優れた人間であると自覚できる場合がある。
その思いが高じると、自の優秀さを自覚したいがために、相手にダメ人間であって欲しいと望むようになる。
そのような人は、つまりは相手にダメ人間であって欲しいという「言いなり」を求めている。

自分の事を軽んじたり、誤解したり、無視したり、そのような相手は自分に「言いなり」を求めているのであって、だからいくら弁解し誤解を解く努力をしても意味がなく、余計ストレスを溜め込むことになる。

自分の事をダメな人間だと軽んじている相手は、そう思いたい事情があるからそうしているのであって、そんな相手は自分の承認を得てもらうだけの価値のない人間で、だから余計な弁解などせず、相手の言いなりになって、そう思わせておけばいいだけの話である。

ストレスの原因は、自分自身の無自覚な「力み」にある。
この「力み」の存在をよく観察し、その根源を見抜くことができれば、究極のリラックスによりあらゆるストレスに対抗する消力(シャオリー)を体得することができる。

自分より優れた(と思える)相手に自分の自由を預け「言いなり」になることは、確かに楽だしストレスもない。
対して自分より愚か(と思える)人間の言いなりになることが、ストレスになる。
それを反転し、積極的に愚か者に自由を預け、言いなりになるという技が必要となる。

優れた人間の言いなりになるファシズムへの心酔も、愚者の言いなりになるストレスの発生も、ある種の盲目性から生じる。
だから自分の愚かさを見据え、他者の愚かさを見据え「愚者の言いなり」という人工的な技の開発に至る。

ストレスは心と体に来るのであり、両方の対応策は必要である。
とりあえず他者の言いなりに体を動かせば、心身共にスッキリする。

他者の言いなりになることは、他者をコントロールする技でもある。
ストレスで他者に振り回されるのは、コントロール以前の問題である。

自分を軽んずる相手に腹を立てる人は、実は相手に同調し、自分自身で自分を軽んじている。

自分を軽んずる他者に腹を立てる人は、実は他ならぬ自分自身で自分を軽んじているのであり、それをごまかすために日頃からに別の他者を軽んじており、それを見抜かれ指摘されたことに腹を立てている。

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ストレスに消力(シャオリー)

ストレスに対し、究極のリラックスによってこれを無化する消力(シャオリー)の技を開発し、身につける必要がある。
相手の打撃に対し対抗するとストレスになり、じっと耐えてもストレスになる。しかし究極のリラックスによって相手の打撃に完全同調すれば、その力は無化され何のストレスも生じない。

ストレスを感じた時、まず「自分は今ストレスを感じているな」と自分を観察すること。消力(シャオリー)の基本は相手の打撃を見切ることだが、相手も見えない打撃を繰り出すので判別は容易ではない。
と言うより、相手にそのつもりがなくとも勝手にストレスを感じてしまう自分自身との戦いになる。

ストレスは、自分がそれを感じていることを自覚しないからこそストレスになる。
だから「自分は今ストレスを感じている、自分は今ストレスを感じている、自分は今ストレスを感じている…」と念仏のように唱えると、ストレスはだいぶ軽減され、これがストレスに対する消力(シャオリー)の基本となる。

精神分析では、患者自身が無意識のうちに抑圧した要素を意識化することで治療に向かう。分かりやすくいえば、自分の欠点を意識しなければその克服もできず、ストレスもまた同じ。

「自分は今ストレスを感じている、自分は今ストレスを感じている、自分は今ストレスを感じている…」と唱え続けていると、そのストレスの元が案外つまらない、取るに足らない事柄にすぎないことに気付く事があり、そうなるとストレスも消滅する。

一般にストレスの要因の一つは、思うように自分が行動できない事にあり、その阻害要因として「他者」が立ち上がってくる。
有りていに言えば、他者が自分の言いなりにならならず、結果として自分が他者の言いなりになってしまうことが、ストレスの原因となる。

しかし、ストレスのない状態で、自分の思うがままに行動するところの「思い」とは、実のところそれが本当の自分の思いなのかどうか、疑う余地がある。

例えば、自分が何かを「欲しい」という思いの元を辿ると、みんながそれを持ってるから自分も欲しくなったり、誰も持ってなくてみんなに自慢できるから欲しくなったり、CMの影響だったり、いずれも純粋な自分の思いではない。

人間のあらゆる欲望には、それが起きた何らかの原因が必ずある。
人間はそれら原因の言いなりになって「○○がしたい」などと欲望するよう、仕向けられている。
つまり、人間はストレスなく自分の思いのままに行動する時でさえ、実のところ他者の言いなりになっているのだ。

他者が自分の言いなりにならならず、自分が他者の言いなりにならざるを得ない状況がストレスの一因だが、ストレスなく自分の思いのままに行動する時も、自分の「思い」が生じる原因となる他者の言いなりになっている。
つまりストレスの有無にかかわらず、自分の行動は常に「他者の言いなり」なのである。

だから「自分の思うがまま」という思いが幻想であることを観察し、それをを貫こうとする思いを打ち消し、あらゆる事柄について「他者の言いなり」となって行動すると、ストレスは消滅する。

「○○がしたい」「○○が欲しい」など自分の欲望の正体は、その欲望の原因となった「他者の言いなり」に過ぎないことよくを観察し、あらゆる自分の行動の動機を積極的に「他者の言いなり」に置き換えること。
これがストレスを生じさせないための行動原理である。

「他者の言いなり、言いなり、言いなり、言いなり…」と呪文のように唱えると、ストレスが消えるのはもちろん、自分でも驚くほど積極的に行動できるようになる。
これまで何と無く嫌で手につかなかった仕事も「他者の言いなり、言いなり、言いなり…」と唱えると、積極的に片付ける気になってくる。

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2012年10月 1日 (月)

死者と復活

人々の多くは、生きながらにして日々死んでいる。
そして、死を自覚した死者だけが、復活することができる。

生きながらにして死んでいて、自らの死を自覚しない死者たちは幸いである。
自らの死に気付き復活を目指す死者は、それゆえに不幸を背負い込む。

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