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2012年10月15日 (月)

法華経の毒

日本人である自分は、生まれながらにして法華経の毒素に冒されているのだが、この毒抜きをして、果たして「非人称芸術」が残り得るかが問題だと言える。
もしかすると自分のいう非人称芸術とは、法華経の産物でしかなかったのかもしれない、という疑いを立てることが毒抜きとなる。

日本という国は全体が法華経の毒に冒されて、毒抜きをした人だけが助かり、そうでない人は自分が恐ろしい毒に冒されているとも知らず、幸福に寿命を全うし安らかに死を迎える。

幸福に寿命を全うし、何の問題があるのだろうか?と思えてしまうところが法華経の毒素の恐ろしさである。恐ろしい、と気付かなければ恐ろしいことは何も無い、というところが最高に恐ろしい…

毒が毒として恐ろしいのは、毒に侵されている自分が、毒を毒として認識できず、毒が産み出す幸福感に包まれ、毒に依存しながらどんどん毒に侵され、取り返しのできない状態になってなお気付かずに、結局は幸福に人生を終えてしまうことにある。

法華経の毒素の中心は「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムにある。
この行動プログラムは親から子へ、人から人へ感染する形で、古来から受け継がれ日本中に蔓延し続け、人々の思考、感情、行動などのあり方を規定しきた。

当然自分も生まれながらに「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムに感染しており、法華経の毒素が体の奥にまで染み込んでいる。
これを取り除くのは並大抵ではないが、まず毒素を毒素として認識することが、毒抜きの基本となる。

「凡夫は難しいことを知る必要が無い」のだから、哲学も思想も宗教も、入門書を読んで知った気になればそれで十分なのである。
「凡夫は難しいことを知る必要が無い」のだから、アーティストは他人に影響されず、自分の感性でオリジナルな表現をすべきなのである。

しかし、毒素を毒素として認識し我が身を振り返ると、入門書の知識だけで「非人称芸術」の概念を打ち立てるなどの行為は、自分が凡夫だからそうせざるを得なかったのではなく、「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムに感染していたことが、その原因があったことに気付くのだ。

そもそも、自分が見出した「非人称芸術」のコンセプトは、「凡夫は難しいことを知る必要が無い」という行動プログラムを打ち破る、小さな突破口であったのだ。
しかしせっかくの突破口を、入門書の知識て補強しても、かえって穴を塞ぐだけであり、愚行でしか無いのである。

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コメント

「宗派問いません」←で販売していた、お寺の横にある墓地を購入して墓を建てたところ、
「改宗してほしい」←と言い出し始めた法華宗のお寺の話を思い出しました・・・。

投稿: 宗教ってむずかしいです。 | 2012年10月19日 (金) 22時24分

コメントありがとうございます。
どうせ後から改宗してもらうんだから、はじめに宗派を問わないのは当たり前ですねw

というか、最古の仏典『ブッダのことば』を読むと、葬式や埋葬にこだわるのは愚かな事で、そんなものは他の宗教にまかせておけば良い、というように書いてあります。
そう考えると、葬式仏教と言われる日本仏教は、原型からかなり変化していると言えるのです。

投稿: 糸崎 | 2012年10月20日 (土) 01時01分

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