« 「正しい人」と「罪人」 | トップページ | 段取りと永遠の生命 »

2012年11月22日 (木)

反芸術と反父親

S_0010365

最近、またいろいろ分かってしまったのだが、先日、個展開催中の大宮盆栽美術館に実家の母と、亡くなった父の友人の菊池さんがきてくれた。
それでぼくはこの二人に、亡くなった父について、改めていろいろと聞いてみたのだが、実のところぼくは自分の父親がどんな人だったのか、ほとんど知らずにいた。

もちろん父の仕事や人となりの概要くらいは知っていたが、逆にいえばそれ以上のことは何も知らずに済ませてきた。
と言うのもぼくは父親と折り合いが悪く、嫌悪と軽蔑と畏怖の対象であって、自分が大学時代に自殺したと知った時も、特になんの悲しみも生じず、むしろザマーミロ的な気持ちになっていた。

有り体に言えば、ぼくは父親を嫌って反抗し続けてきたのだが、ふと気が付くと、実が父親がどんな人で何をしてきた人なのかほとんど知らないまま、嫌悪し反抗していたのだった。
これは実のところ、ぼくの「芸術」や「写真」に対する態度と全く同じなのであった。

ぼくが提唱する「非人称芸術」は、いわゆる人称芸術を全面否定した「反芸術」の思想なのだが、しかし実のところぼく自身「芸術」についてよく知らないままそれを嫌悪し否定していたに過ぎなかった。

「フォトモ」や「ツギラマ」など独自の「反写真」的表現も同じで、実のところ「写真」とは何かをろくに知らないまま嫌悪し、否定していたに過ぎなかった。
自分の父親を嫌うことは、どの家庭でも有りがちだろうし、自分が嫌いな父親について何も知りたくない気持も自然なものと言えるだろう。

しかし、そのような父親に対する態度は自分の中でパターン化し、世界に対する様々なものの見方、接し方に深く影響を与える。
そう考えると、ぼくの「非人称芸術」も実は「父親への反抗心」の変奏曲に過ぎなかったのだ。

いや、自分の父親に反抗する事も、既成の芸術を否定する事も、一概に悪い事だとは言えず、むしろ芸術家にとっては必要な資質だと言えるだろう。
父親に従順なだけの子供は父親を越えられないし、既成の芸術に従順な作家は既成の芸術を超えて大成する事が出来ない。

だが父親が何者であるかを知らず、芸術が何物であるかを知らずして、闇雲に反抗してもそれらを超える事は叶わない。
そして、子供の行く手に父親が立ちはだかるように、芸術家の行く手には芸術が立ちはだかる。
芸術とは「偉大なる象徴的な父」であり、よく認識してそれを乗り越えなければならないのだ。

|

« 「正しい人」と「罪人」 | トップページ | 段取りと永遠の生命 »

思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「正しい人」と「罪人」 | トップページ | 段取りと永遠の生命 »