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2012年12月

2012年12月28日 (金)

知らずして知る能力

いわゆる「本当の事」や「正しい事」は、古今東西に書かれた膨大な書物の中に、それぞれに異なる見解としてすでに示されている。
しかし人の寿命には限があり、どれほどの博学を誇る人であっても、全人類の知識の蓄積からすると、本の氷山の一角を知るに過ぎない。

だが一方、世間一般の多くの人は、全人類の知識の蓄積を、知らずして知る能力を備えている。
多くの人はあらゆる事柄について「知らずして知る」ことができ、それぞれ独自の見解を持っている。
その見解とは実は感覚的なものなのだが、しかし感覚的なものだからこそ、明快かつ的確な見解として主張される。

感覚とは実に馬鹿にならないものなのである。
例えば多くの人は蛇や虫類を忌み嫌うが、それは蛇には多くの毒蛇が、虫類には多くの毒虫が、それぞれ含まれている事を「知らずして知る」からである。

しかし、ぼくはどうもこの「知らずしてし知る」能力がどうも不足しているらしく、蛇でも虫でもまず「かわいい」と思ってしまう。
そしてその上で毒蛇や毒虫について調べなければ、実際にそれを危険視して退けることができない。

哲学についても同様で、世間の人は自分がいかに生きるべきかを「知らずして知る」ことができている。
「本当の事」や「正しい事」についてもみな「知らずして知る」能力があり、自信と確信に満ち迷いが無い。

また、宗教についても多くの日本人は無宗教で無関心でありながら、実のところ意外にしっかりとした宗教観をそれぞれに備えているように観察される。
キリスト教にしても仏教にしてもその他の新興宗教にしても、それらが何であるかを感覚的に捉え、そのうえで宗教的なものを遠ざけているように見受けられる。

実はぼくも以前は世間並みに「知らずして知る」能力に自信を持ち、自分の感覚に全信頼を置いていた。
しかしどう言う訳か、人生を重ねるうち徐々に自分の感覚に疑いを持つ様になり、最近はすっかり迷い人になってしまった。
それで、哲学や宗教について関心を持たざるを得なくなり、本来苦手なはずの読書などを無理してするようになったのだ。

そんな自分に対し友人の写真家たちは「最近の糸崎さんは頭でっかちでつまらなくなった」と批判するのだが、実に彼らは世間並みに「知らずして知る」能力を備えているのである。
そして写真学校や美大で学んだ以上の「写真とは何か」について熟知し、揺るぎない見解を持ち、各自の「写真」制作に迷い無く励んでいる。

つまり世間とは「知らずして知る」感覚が基準となり、その上に成り立っているのであり、それは写真をはじめとするアートの世界も同じなのだろう。
ともかく自分は無駄に知ろうと悪あがきするしか無く、何も知る必要の無い世間の人々を羨むことなく、あるがままを受け止めるしかないのである。

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2012年12月27日 (木)

河原乞食とインサイダー

何かを分かろうとする態度は間違っているのであって、そこには「何事かが分かり得る」という前提があり、それが間違っているのである。
例えば書店や図書館に行けば膨大な本が置いてあり、一生かかってもそのすべてを読むことはできない。

まして古今東西の書物の量は途方も無く、自分がいくら本を読んだところで、知ることができるのは常に何事かの氷山の一角に過ぎず、これを持って何事かを分かったつもりになることは到底できない。

だからと言って何も知る必要など無い、と言う事でもないが、いや、知れば知ったで何事かが前進するのであるが、その歩みはナメクジの様にのた〜っと遅過ぎで、地べたをのたくるだけであり、これが果たして前進と言えるのかどうかは不明なのだが、いやこれは世間の人を指してるのではなく、自分のことを言っているのである。

自分は世間の落ちこぼれだという前提があって、だから世間の人々は皆優秀で、自分だけが劣っているのであり、そこにぼく自身の芸術の根拠がある。
芸術家にもいろいろなタイプがあるだろうが、ぼく自身は典型的な河原乞食タイプで、世間に対するアウトサイダーなのである。

友人のアーティスト達からは「糸崎さんは無駄な事で悩んでる」と思われてる様だか、インサイダーな立場からは確かにそう見えるのかも知れない。
ともかくもナメクジの様に這って、行けるところまで行って、そこで死ぬしか無いのである。
スタートが遅れ、歩みも遅く、世間に反して余計なところを迂回して、絶望の中で歩み続ける他は無い。

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2012年12月22日 (土)

写真と非人称芸術

12月21日の昼間はニコンD700にタムロン20-40mmを付けて、近所で「写真」を撮影したのだが、パソコンでひらいて確認するとぜんぜんダメ。
http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20121221
画質がでは無くて、「写真」としてぜんぜんダメで、デジカメWatchの連載で書いたように「基準」を完全に見失っている。
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/review/labo/20121221_579854.html

そもそも「路上」であれは、どこを歩いても、何を見ても素晴らしくて堪能できるのに、それを写真に撮ると何もかもがつまらなくしか写らない。
この問題を解決するために「フォトモ」や「ツギラマ」の手法を始めたのだが、改めて「写真」と向き合おうとすると、その問題に立ち帰らざるを得ないのだ。

実は、今回のデジカメWatch連載の作品撮影は、路上観察ネタでごまかそうと思ったのだ。
そもそもこの連載の当初は、作品として路上観察的な写真を撮っていたのだ。それは自分の「非人称芸術」のコンセプトとも連動し整合性があったのだ。そこで…

そこで先週の日曜日、路上観察系の古い友人であるマスダ君を誘って、藤沢駅から大船駅まで、改造した30-60mmズームを装着したD700をぶら下げて歩いたのだった。
しかし行ってみると街は再開発が進み、路上観察的なネタは見つからず、作戦は失敗に終わった。

路上観察的なネタになる物件は、人々の意識の緩みによる、まさに非人称的な作用により発生する。
だからご近所同士がよそよそしく緊張し合うような状況では、そうしたものは発生しない。
再開発によって街が新しくなると、住む人にも「ちゃんとしなきゃ」という意識が生じ、古い街ならではの緩い空気は失われる。

つまり、路上観察的なネタ物件は、特定の時代の特定の地域に発生するもので、そして現在はもうそうした時代は過ぎ去りつつあるのだった。
そして実は、それと共に自分の中でも、路上観察的なネタに対する興味も薄れてきていたのだった。

そもそも路上観察的なネタとは、「非人称芸術」の要素の一つに過ぎないのである。
「非人称芸術」とはどんなものか?を一般向けに最もわかりやすく示すことができるのが、「超芸術トマソン」に始まる、いわゆる路上観察ネタなのだ。
こういうネタは昔はもっといくらでも見つかり、探す事自体が確かに楽しかった。

しかし、いつの間にか街の雰囲気も変わり、それと共に路上観察ネタの面白さが世間的に認知され一般化してきた。
そうなると視点の独自性も失われ、自分の興味も薄れてくる。
しかし「非人称芸術」はもっと大きなものを含む概念で、それが何なのかを説明したり、事例を示すのはかなり難しい。

つまり路上観察ネタとは説明生の問題であって、「非人称芸術」とは本来説明不可能な多くのものを含んでいる。
それは言葉にする先から消えてしまうようなもので、なかなか難しい。
ともかく、「非人称芸術」の視点で路上を観ると、何もかもが素晴らしものとして立ち上がってくる。

だから路上にカメラを向ければ、何もかもか素晴らしく写り、素晴らしい「写真」がいくらでも撮れる…ハズである。
ところが実際はそうではなく、何を写してもつまらない写真にしかならない。
それはつまり「非人称芸術」とは現実そのものではなく、現実に対する「視点」を指しているからなのである。

同じ目の前の現実でも、ただ漠然の眺めるのと「非人称芸術」という視点を通して見るのと目は、違うものとして受け止められる。
だからただ漠然とカメラを向けるだけでは、「非人称芸術」特有の価値は写らず、つまらない写真にしかならない。
そしてこの問題を解決するため、ぼくは「フォトモ」を開発したのだ

ぼくの「フォトモ」には、果たして本当に「非人称芸術」が写っているのか?ということを突き詰めれば疑問の余地はあるだろう。
そもそも「非人称芸術」というコンセプトが本当に成立しうるのか?ということ自体、疑いを持ちうるのである。
そして実際、ぼくは「非人称芸術」それ自体の否定をも視野に入れつつ、その考察を進めており、同時にこれまで否定してきた「芸術」そのものに興味を向けて来ている。
その一環として「反-反写真」の試みがあり、それを経て改めて「写真」と向き合う事となったのだ。

しかしそうしてみると、「写真」と言うものがいかに難しいかが実感できる。
それは実は「芸術」そのものの難しさだとも言えるだろう。
結局のところ「非人称芸術」とは世界に対するリテラシーの一つに過ぎないのだった。
そして「芸術」もまたリテラシーであり、さらに複雑で多くの要素を含んでいる。

もしかすると「非人称芸術」というリテラシーは、「芸術」というさらに大きなリテラシーの、ごく一部の構成要素に過ぎないのかもしれない。
ともかくあらためて「写真」を撮ろうとすると、「非人称芸術」のリテラシーだけではどうにもならないものがある。
そこで途方に暮れている、と言うのが現在の偽らざる自分の気持ちなのだ。

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2012年12月18日 (火)

大乗仏教と関係論

講談社学術文庫『龍樹』のうちの『中論』を読んでるが、大乗仏教の説く《縁》や《空》は関係論で、関係論は認識論なのである。
そして認識論とは自ら認識そのものを対象化する行為であり、だから最古の仏典『スッタ・ニパータ』には「自分をよく観察すること」と繰り返し説かれている。

自らの認識を対象化しない者は、認識論に到達できず実在論に捉われる。
大小仏教では、認識論に到達できない実在論者を《凡夫》とし救済の対象とする。
凡夫には認識論をいくら説いても理解されず、覚者との間に埋め難い溝がある。
だから覚者は凡夫救済の方便として、浄土や悟りなど諸々の《実在》を説く。

龍樹の『中論』が自分にとって難解で読み辛いのは、これが書かれた当時は《実在論》が現代よりも強く信じられていて、これを論破するために晦渋な表現をせざるを得なかったからかもしれない。
自らの認識を対象化する認識論は、つまりは科学的思考なのであり、科学以前の時代において、仏教的な認識論を他者に説明するには非常な困難を極めたと想像できる。
まして、一般の人々(凡夫)にこれを理解させるのは絶望的に不可能で、だから方便としての実在論を大乗仏教は説くことになったのではないか。

と言うのが最近の自分の見解なのだが、しかし実のところ科学の時代である現代においてもなお、素朴な《実在論》に依拠している人は多く、《関係論》《認識論》の理解との間に埋め難い溝を認めざるを得ない。
これが一般の人々なら未だしも、その分野の専門とされている人の多くが《実在論》の信奉者ではないかと疑わざるを得ない状況で、驚いてしまう。

しかし自分が《関係論》を理解していると言う前提で解釈するならば、《関係論》を理解するのは単なる理屈ではなく、自然に身に付いた感覚からのジャンプを要するのである。

なぜなら《実在論》は人が持つ自然で素朴な感覚であり、これに対し《関係論》は極めて不自然な人工的概念なのであり、それなりの感覚的なジャンプがなければ、《実在論》を否定した《関係論》には到達し得ないのだ。

だからこそ、高学歴を有し精緻な理論を構築しながらも、根本において《実在論》に囚われている学者や大学教授などの専門家は、実に少なくないのではないかと想像できるのだ。
少なくとも、日本の受験戦争は《実在論》に依っても十分勝ち抜くことはできるし、思春期に《関係論》に陥るとかえって受験から落ちこぼれるだろうことも十分にあり得るだろう。

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2012年12月17日 (月)

縁と無縁

生きている人と死んでいる人は本質的に変わりがない。
何となれば、生きた人は死んだ人の言葉を語っているのだから。
死んだ父親の子供は父の言葉を語り、父親は死んだ祖父母の言葉を語り、そのようにして生きた人間達は死者達の言葉を語り継いでゆく。

街には人があふれているのに、死体の山がどこにも存在しない。
と思ったら、街そのものが死体の山で出来ているのだった。
人は死者の屍を積み上げて街を築き、文明を築き上げる。
農業に始まる文明とは、大多数の屍を築き上げるためのシステムだった。
産業革命、情報革命もまた同じである。

生まれたばかりの子供は、死者達の屍を食べながら大人へと成長する。
なぜなら人の知恵や知識、文化や文明は死者達の屍の堆積物に他ならないからである。

人間が生きることは、死者達との《縁》によって成立している。
生きながらにして死者達との《縁》を失った人間は《無縁》の生ける屍となる。

人間だけが死者達のと《縁》をもつ。
人間以外の動物は死者達とは《無縁》の関係を持つ。
死者達のと《縁》を持たない人間は、動物的な《無縁》の人となる。

誰が真の意味で「生きた人間」なのか?
それはつまり、肉体的に生きているか死んでいるかに関わらず、あるいは肉体として存在しているか存在しないかに関わらず、《縁》のある人間は生きているのであり、《無縁》となった人間は死んでいる。

《縁》のある者は肉体が死んでこの世に存在しなくとも生きているのであり、《無縁》となった者は動物的な肉体は生きていても人間としては死んでいる。

人は死者達のと《縁》によって生きる。
人が生きるとは死者達との《縁》によって生きることを指す。
死者達と取り持つ《縁》によって、その人が生きる事の価値が決まる。
人には《縁》が豊かな者、《縁》が乏しい者、《無縁》の者があり、それぞれに生きることの価値が異なる。

死者達との《縁》が人を人として生かす。
ゆえに人にとってすべての事物は《縁》として存在する。
すべては《縁》であるにも関わらず、これを《実体》とみなして錯誤するならば、《縁》が損なわれて《無縁》となる。

反省すればまさに自分自身が《無縁》であることに気づくのであり、他人への批判は常に自分へと跳ね返り、それもまた《縁》なのである。

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2012年12月15日 (土)

イメージと言葉

初めに言葉があった。
全てのものは言葉によってできた。
できたもので、言葉によらずできたものは何一つなかった。

言葉はイメージを内包する。
イメージは言葉によって分解される。
分解された言葉は、言葉に分解されないイメージを内包する。
言葉に内包された、言葉に分解されたイメージは人を騙し惑わす。
何故ならイメージを言葉に分解することが認識だからである。

すべては言葉であり、言葉で言い当てることが認識となる。
そして、あらゆるものは複数の言葉で言い当てられる。
故に、言葉とものの一対一の固定は認識の停止であり、これによって人は惑わされる。

イメージは石のように硬く、しかし石は言葉によって亀裂を生じ破壊され認識される。

イメージは石のように硬く、何も読み取ることができない。言葉によって石はひび割れ、認識がしみ込む。

言葉だけが硬い石のようなイメージを打ち砕き、意味を生じさせる。

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正しい人と正しい態度

「正しい人」と「正しいこと」を主張し合っても話が噛み合わないだけ。

「正しい人」は「正しい意見」を聞いてもらいたがっている。

「正しい答え」を簡単に出せば、誰でも簡単に「正しい人」になれる。

「糸崎さんはアーティストなんだから、もっと偉そうにした方がいいですよ」とアドバイスをくれた相手を心底軽蔑したことがあったけど、実際その人物は表面だけのチャラチャラした人格で、ぼくの作品もろくに見ないでそう言うこというので呆れるのだが、しかしお互いを尊重し対等に付き合おうとフランクにしてると勘違いして増長し、上から目線で何か言ってくるような人も実際にいるから始末に悪い。

つまり「正しい人」は偉そうにしている相手を「あの人は偉い」と正しく理解し、フランクな態度の人を「あの人は自分より格下だ」とこれまた正しく理解し、そういう正しい世界に住む正しい人には、こちらも「正しい態度」を示してあげる必要があり、例えば政治家というのは皆それをやっている。

多くの人は表面上の「正しい態度」で人を判断する「正しい人」なのだが、もしかしたら「正しさ」とは物事の表面上に現れるのかもしれない。

いや、認識の表面上に現れるのが「正しさ」だと言いかえるべきだが、だから「正しい人」に対し「お前の考えは浅い」などと「正しいこと」を言っても無意味で、こうした場合はまともに取り合わず偉そうな態度を示す事が、相手にとってもわかりやすく親切なのである。

つまり偉い人が偉そうにしているのは世間に対する親切なサービスなのだ。しかし実際には多くの場合、他人にサービスしてるつもりが自分自身にもサービスしてて、実際には対してえらくないのに、偉そうにしてるから自分は偉いのだと、そのように「正しい人」になってしまいがちなので始末に悪い。

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言語と埋葬

現代は科学の時代で、宗教や呪術は過去のものとなってしまったが、だからと言って宗教や呪術を切り捨ててしまっていいものだろうか?
いや実際、日頃は宗教なんて馬鹿らしいと思っている人でも、結婚式の時は神主や牧師を、葬式の時は坊主を、宗教から借りてきて儀式を行う。

もし宗教を全く信じず純粋に科学にのみ従うならば、人が死んだ場合、その死体は意識のない抜け殻にすぎないのだから、生ゴミの日にでも捨てて回収してもらえばいいはずである。
そう言えばマンガ『寄生獣』で、寄生獣と精神を共用する主人公が、自分の介抱してた猫が死んだ直後、その死体をゴミ箱にぽいっと捨てる描写があったが、それこそが純粋に科学的態度と言えるだろう。

しかし結局は彼女からそんな事をするのは残酷で非常だと責められ、改めてしたいを土に埋めて埋葬するのだった。つまりこのマンガで描かれているように、「死」の問題は科学的態度のみで割り切れるものではなく、非科学的とも言える宗教的儀式を必ず必要とする。

人が死んだらその死体はその人自身ではなく、その人の抜け殻である肉の塊にすぎず、純粋に科学的に考えればゴミとして処分しても構わないはずである。しかしそれをするのは直感的にヤバイと感じ、何としても非科学的な弔いの儀式をしない事にはどうにも心が落ち着かない、というのが人間の特徴である。

いや、その特徴は人間に本質的に備わったものか、文化の産物なのか、今の自分には知識不足でよくわからない。いやしかし、人間が言語を使う事と、死者を埋葬することが結びついているのかもしれない。自分が使う言語は、自分で生み出したものではなく、先祖から即ち死者達から受け継いだものであり、このことと埋葬は深くつながっている。

つまり自分が言語を使うことの根拠が埋葬にはある。もし、非科学的だという理由で埋葬を廃止し合理的にゴミ処理するようになると、人間は言語を使う根拠を失って、壊れてしまうかもしれない。言語という贈与に対し、埋葬という形で返礼をしなければ、人は人でいることの根拠を失ってしまうのかもしれない。

また別の見方をすると、人間の死もしくは自分自身の死の問題は、科学では扱いきれるものではないのである。純粋に科学的に考えて、人間の死体はゴミに過ぎないのだからとゴミ処理したところで、死そのものの問題が解決するわけではない。

生きた人間はいずれ自分は死んでしまうという、理不尽な運命にあることにかわりはない。そして科学はこの問題に対し「死んだら無になるのだから何も考える必要なし」というニヒリズムを提供する。ところが実際は、科学的ニヒリズムに徹して埋葬を廃止してしまった文化なんて聞いたことがない。

一つの見方をすれば、多くの人は自分の死については考えたくもないと思っているが、そうした「死の問題を考えずに済む方法」として、科学的ニヒリズムはほとんど役立たずで、非科学的で宗教的な埋葬の方が、よっぽど効果的なのだと言える。つまり人は死者を埋葬する事によって、自分の死の問題から逃れる事ができるのだ。

いくら自分が神様や天国の存在を信じなくとも、自分の死の問題と真面目に向き合うのは面倒だから、ともかく埋葬してその想いをごまかす。死者の棺に蓋をする事は、「自分の死」という問題に蓋をする事と同じなのである。

人間は言葉を持つことで、自分の死とと向き合うことになった、と言えるかしれない。
言葉は祖先すなわち死者達からもたらされ、だからこそ言葉は人間に自分の死を自覚させる。
自分が生まれる以前から存在する「言葉」というツールを死者達から授かることで、自分もまたいずれ死ぬ運命にあることを知る。

人間はなぜ死者を埋葬しなければならないのか?の理由を知らずして、死者は必ず埋葬しなければならない事だけを知っている。
これに限らず人間は為すべき事の多くを知りながら、なぜそれを為さねばならないのか?その理由を知る事ができずにいる。

為すべき事の理由を知る事は、それを為さなくても良い事の理由を知る事につながる。
人はなぜ死者を埋葬しなければならないのか?その理由を知る事は死者を埋葬しなくても良い理由を知る事につながる。
だからこの思考をたどる回路には、かなり根源的なレベルでロックが掛けられているのかもしれない。

為すべき事の理由を探る知性は、為すべきことの破壊へと結びつき、それ故に知性は阻害される。

現代人の多くははテクノロジーの進歩と、変わらない平和な日常が続くことの、両方を求めている。
しかしテクノロジーの進歩とは環境の変化に他ならず、新しい環境にはそれに適応した者だけが生き残り、変化を拒む者は淘汰される。

人間は死ぬとその瞬間に存在は消えるが、死体だけはしばらく存在し続け、これは人間にとっての悩みの種の一つと言えるかもしれない。
例えば体重60kgの人が死ねば、その直後に何も無かったところから、60kgもの死体が突然発生するのである。
この理不尽さは「葬儀」によって丁重に蓋をされている

街には人があふれているのに、どこにも死体の山がないのが不思議だ。人は必ず死ぬのに、人だかりがあっても死体の山が存在しないのが不思議でならない。

人は必ず死ぬのであり、人の集まるところには見えない死体の山が築かれている。

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