« 永遠の生命と詐欺師 | トップページ | 正しい人と正しい態度 »

2012年12月15日 (土)

言語と埋葬

現代は科学の時代で、宗教や呪術は過去のものとなってしまったが、だからと言って宗教や呪術を切り捨ててしまっていいものだろうか?
いや実際、日頃は宗教なんて馬鹿らしいと思っている人でも、結婚式の時は神主や牧師を、葬式の時は坊主を、宗教から借りてきて儀式を行う。

もし宗教を全く信じず純粋に科学にのみ従うならば、人が死んだ場合、その死体は意識のない抜け殻にすぎないのだから、生ゴミの日にでも捨てて回収してもらえばいいはずである。
そう言えばマンガ『寄生獣』で、寄生獣と精神を共用する主人公が、自分の介抱してた猫が死んだ直後、その死体をゴミ箱にぽいっと捨てる描写があったが、それこそが純粋に科学的態度と言えるだろう。

しかし結局は彼女からそんな事をするのは残酷で非常だと責められ、改めてしたいを土に埋めて埋葬するのだった。つまりこのマンガで描かれているように、「死」の問題は科学的態度のみで割り切れるものではなく、非科学的とも言える宗教的儀式を必ず必要とする。

人が死んだらその死体はその人自身ではなく、その人の抜け殻である肉の塊にすぎず、純粋に科学的に考えればゴミとして処分しても構わないはずである。しかしそれをするのは直感的にヤバイと感じ、何としても非科学的な弔いの儀式をしない事にはどうにも心が落ち着かない、というのが人間の特徴である。

いや、その特徴は人間に本質的に備わったものか、文化の産物なのか、今の自分には知識不足でよくわからない。いやしかし、人間が言語を使う事と、死者を埋葬することが結びついているのかもしれない。自分が使う言語は、自分で生み出したものではなく、先祖から即ち死者達から受け継いだものであり、このことと埋葬は深くつながっている。

つまり自分が言語を使うことの根拠が埋葬にはある。もし、非科学的だという理由で埋葬を廃止し合理的にゴミ処理するようになると、人間は言語を使う根拠を失って、壊れてしまうかもしれない。言語という贈与に対し、埋葬という形で返礼をしなければ、人は人でいることの根拠を失ってしまうのかもしれない。

また別の見方をすると、人間の死もしくは自分自身の死の問題は、科学では扱いきれるものではないのである。純粋に科学的に考えて、人間の死体はゴミに過ぎないのだからとゴミ処理したところで、死そのものの問題が解決するわけではない。

生きた人間はいずれ自分は死んでしまうという、理不尽な運命にあることにかわりはない。そして科学はこの問題に対し「死んだら無になるのだから何も考える必要なし」というニヒリズムを提供する。ところが実際は、科学的ニヒリズムに徹して埋葬を廃止してしまった文化なんて聞いたことがない。

一つの見方をすれば、多くの人は自分の死については考えたくもないと思っているが、そうした「死の問題を考えずに済む方法」として、科学的ニヒリズムはほとんど役立たずで、非科学的で宗教的な埋葬の方が、よっぽど効果的なのだと言える。つまり人は死者を埋葬する事によって、自分の死の問題から逃れる事ができるのだ。

いくら自分が神様や天国の存在を信じなくとも、自分の死の問題と真面目に向き合うのは面倒だから、ともかく埋葬してその想いをごまかす。死者の棺に蓋をする事は、「自分の死」という問題に蓋をする事と同じなのである。

人間は言葉を持つことで、自分の死とと向き合うことになった、と言えるかしれない。
言葉は祖先すなわち死者達からもたらされ、だからこそ言葉は人間に自分の死を自覚させる。
自分が生まれる以前から存在する「言葉」というツールを死者達から授かることで、自分もまたいずれ死ぬ運命にあることを知る。

人間はなぜ死者を埋葬しなければならないのか?の理由を知らずして、死者は必ず埋葬しなければならない事だけを知っている。
これに限らず人間は為すべき事の多くを知りながら、なぜそれを為さねばならないのか?その理由を知る事ができずにいる。

為すべき事の理由を知る事は、それを為さなくても良い事の理由を知る事につながる。
人はなぜ死者を埋葬しなければならないのか?その理由を知る事は死者を埋葬しなくても良い理由を知る事につながる。
だからこの思考をたどる回路には、かなり根源的なレベルでロックが掛けられているのかもしれない。

為すべき事の理由を探る知性は、為すべきことの破壊へと結びつき、それ故に知性は阻害される。

現代人の多くははテクノロジーの進歩と、変わらない平和な日常が続くことの、両方を求めている。
しかしテクノロジーの進歩とは環境の変化に他ならず、新しい環境にはそれに適応した者だけが生き残り、変化を拒む者は淘汰される。

人間は死ぬとその瞬間に存在は消えるが、死体だけはしばらく存在し続け、これは人間にとっての悩みの種の一つと言えるかもしれない。
例えば体重60kgの人が死ねば、その直後に何も無かったところから、60kgもの死体が突然発生するのである。
この理不尽さは「葬儀」によって丁重に蓋をされている

街には人があふれているのに、どこにも死体の山がないのが不思議だ。人は必ず死ぬのに、人だかりがあっても死体の山が存在しないのが不思議でならない。

人は必ず死ぬのであり、人の集まるところには見えない死体の山が築かれている。

|

« 永遠の生命と詐欺師 | トップページ | 正しい人と正しい態度 »

思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 永遠の生命と詐欺師 | トップページ | 正しい人と正しい態度 »