写真と非人称芸術
12月21日の昼間はニコンD700にタムロン20-40mmを付けて、近所で「写真」を撮影したのだが、パソコンでひらいて確認するとぜんぜんダメ。
http://d.hatena.ne.jp/itozaki/20121221
画質がでは無くて、「写真」としてぜんぜんダメで、デジカメWatchの連載で書いたように「基準」を完全に見失っている。
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/review/labo/20121221_579854.html
そもそも「路上」であれは、どこを歩いても、何を見ても素晴らしくて堪能できるのに、それを写真に撮ると何もかもがつまらなくしか写らない。
この問題を解決するために「フォトモ」や「ツギラマ」の手法を始めたのだが、改めて「写真」と向き合おうとすると、その問題に立ち帰らざるを得ないのだ。
実は、今回のデジカメWatch連載の作品撮影は、路上観察ネタでごまかそうと思ったのだ。
そもそもこの連載の当初は、作品として路上観察的な写真を撮っていたのだ。それは自分の「非人称芸術」のコンセプトとも連動し整合性があったのだ。そこで…
そこで先週の日曜日、路上観察系の古い友人であるマスダ君を誘って、藤沢駅から大船駅まで、改造した30-60mmズームを装着したD700をぶら下げて歩いたのだった。
しかし行ってみると街は再開発が進み、路上観察的なネタは見つからず、作戦は失敗に終わった。
路上観察的なネタになる物件は、人々の意識の緩みによる、まさに非人称的な作用により発生する。
だからご近所同士がよそよそしく緊張し合うような状況では、そうしたものは発生しない。
再開発によって街が新しくなると、住む人にも「ちゃんとしなきゃ」という意識が生じ、古い街ならではの緩い空気は失われる。
つまり、路上観察的なネタ物件は、特定の時代の特定の地域に発生するもので、そして現在はもうそうした時代は過ぎ去りつつあるのだった。
そして実は、それと共に自分の中でも、路上観察的なネタに対する興味も薄れてきていたのだった。
そもそも路上観察的なネタとは、「非人称芸術」の要素の一つに過ぎないのである。
「非人称芸術」とはどんなものか?を一般向けに最もわかりやすく示すことができるのが、「超芸術トマソン」に始まる、いわゆる路上観察ネタなのだ。
こういうネタは昔はもっといくらでも見つかり、探す事自体が確かに楽しかった。
しかし、いつの間にか街の雰囲気も変わり、それと共に路上観察ネタの面白さが世間的に認知され一般化してきた。
そうなると視点の独自性も失われ、自分の興味も薄れてくる。
しかし「非人称芸術」はもっと大きなものを含む概念で、それが何なのかを説明したり、事例を示すのはかなり難しい。
つまり路上観察ネタとは説明生の問題であって、「非人称芸術」とは本来説明不可能な多くのものを含んでいる。
それは言葉にする先から消えてしまうようなもので、なかなか難しい。
ともかく、「非人称芸術」の視点で路上を観ると、何もかもが素晴らしものとして立ち上がってくる。
だから路上にカメラを向ければ、何もかもか素晴らしく写り、素晴らしい「写真」がいくらでも撮れる…ハズである。
ところが実際はそうではなく、何を写してもつまらない写真にしかならない。
それはつまり「非人称芸術」とは現実そのものではなく、現実に対する「視点」を指しているからなのである。
同じ目の前の現実でも、ただ漠然の眺めるのと「非人称芸術」という視点を通して見るのと目は、違うものとして受け止められる。
だからただ漠然とカメラを向けるだけでは、「非人称芸術」特有の価値は写らず、つまらない写真にしかならない。
そしてこの問題を解決するため、ぼくは「フォトモ」を開発したのだ
ぼくの「フォトモ」には、果たして本当に「非人称芸術」が写っているのか?ということを突き詰めれば疑問の余地はあるだろう。
そもそも「非人称芸術」というコンセプトが本当に成立しうるのか?ということ自体、疑いを持ちうるのである。
そして実際、ぼくは「非人称芸術」それ自体の否定をも視野に入れつつ、その考察を進めており、同時にこれまで否定してきた「芸術」そのものに興味を向けて来ている。
その一環として「反-反写真」の試みがあり、それを経て改めて「写真」と向き合う事となったのだ。
しかしそうしてみると、「写真」と言うものがいかに難しいかが実感できる。
それは実は「芸術」そのものの難しさだとも言えるだろう。
結局のところ「非人称芸術」とは世界に対するリテラシーの一つに過ぎないのだった。
そして「芸術」もまたリテラシーであり、さらに複雑で多くの要素を含んでいる。
もしかすると「非人称芸術」というリテラシーは、「芸術」というさらに大きなリテラシーの、ごく一部の構成要素に過ぎないのかもしれない。
ともかくあらためて「写真」を撮ろうとすると、「非人称芸術」のリテラシーだけではどうにもならないものがある。
そこで途方に暮れている、と言うのが現在の偽らざる自分の気持ちなのだ。
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