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2012年12月17日 (月)

縁と無縁

生きている人と死んでいる人は本質的に変わりがない。
何となれば、生きた人は死んだ人の言葉を語っているのだから。
死んだ父親の子供は父の言葉を語り、父親は死んだ祖父母の言葉を語り、そのようにして生きた人間達は死者達の言葉を語り継いでゆく。

街には人があふれているのに、死体の山がどこにも存在しない。
と思ったら、街そのものが死体の山で出来ているのだった。
人は死者の屍を積み上げて街を築き、文明を築き上げる。
農業に始まる文明とは、大多数の屍を築き上げるためのシステムだった。
産業革命、情報革命もまた同じである。

生まれたばかりの子供は、死者達の屍を食べながら大人へと成長する。
なぜなら人の知恵や知識、文化や文明は死者達の屍の堆積物に他ならないからである。

人間が生きることは、死者達との《縁》によって成立している。
生きながらにして死者達との《縁》を失った人間は《無縁》の生ける屍となる。

人間だけが死者達のと《縁》をもつ。
人間以外の動物は死者達とは《無縁》の関係を持つ。
死者達のと《縁》を持たない人間は、動物的な《無縁》の人となる。

誰が真の意味で「生きた人間」なのか?
それはつまり、肉体的に生きているか死んでいるかに関わらず、あるいは肉体として存在しているか存在しないかに関わらず、《縁》のある人間は生きているのであり、《無縁》となった人間は死んでいる。

《縁》のある者は肉体が死んでこの世に存在しなくとも生きているのであり、《無縁》となった者は動物的な肉体は生きていても人間としては死んでいる。

人は死者達のと《縁》によって生きる。
人が生きるとは死者達との《縁》によって生きることを指す。
死者達と取り持つ《縁》によって、その人が生きる事の価値が決まる。
人には《縁》が豊かな者、《縁》が乏しい者、《無縁》の者があり、それぞれに生きることの価値が異なる。

死者達との《縁》が人を人として生かす。
ゆえに人にとってすべての事物は《縁》として存在する。
すべては《縁》であるにも関わらず、これを《実体》とみなして錯誤するならば、《縁》が損なわれて《無縁》となる。

反省すればまさに自分自身が《無縁》であることに気づくのであり、他人への批判は常に自分へと跳ね返り、それもまた《縁》なのである。

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コメント

そこに何か実体が在ると気がついたら逆にそここそが、実は何もない無かもしれないですね。
無は、ある人には生きた世界への出口として、また別のある人には死の世界への入り口として。

投稿: kame2 | 2012年12月18日 (火) 16時05分

コメントありがとうございます。
例えば「水面」は、水と空気との《縁》によって存在します。
この場合「存在」と言っても、「水面」という物質がどこかに存在するわけではなく、まさに《縁》としてそこに生じているわけです。
そして自分を含めた人間そのものも、物質として存在するわけではなく、水面と同じく《縁》として生じているのだと大乗仏教では説きます。
「自分」というものの存在は、主観的には確固として存在してますが、その自分の中心はどこにあるのか・・・?など考えを深めると、色んなことに気づいたりもします。

投稿: 糸崎 | 2012年12月18日 (火) 17時24分

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