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2012年12月18日 (火)

大乗仏教と関係論

講談社学術文庫『龍樹』のうちの『中論』を読んでるが、大乗仏教の説く《縁》や《空》は関係論で、関係論は認識論なのである。
そして認識論とは自ら認識そのものを対象化する行為であり、だから最古の仏典『スッタ・ニパータ』には「自分をよく観察すること」と繰り返し説かれている。

自らの認識を対象化しない者は、認識論に到達できず実在論に捉われる。
大小仏教では、認識論に到達できない実在論者を《凡夫》とし救済の対象とする。
凡夫には認識論をいくら説いても理解されず、覚者との間に埋め難い溝がある。
だから覚者は凡夫救済の方便として、浄土や悟りなど諸々の《実在》を説く。

龍樹の『中論』が自分にとって難解で読み辛いのは、これが書かれた当時は《実在論》が現代よりも強く信じられていて、これを論破するために晦渋な表現をせざるを得なかったからかもしれない。
自らの認識を対象化する認識論は、つまりは科学的思考なのであり、科学以前の時代において、仏教的な認識論を他者に説明するには非常な困難を極めたと想像できる。
まして、一般の人々(凡夫)にこれを理解させるのは絶望的に不可能で、だから方便としての実在論を大乗仏教は説くことになったのではないか。

と言うのが最近の自分の見解なのだが、しかし実のところ科学の時代である現代においてもなお、素朴な《実在論》に依拠している人は多く、《関係論》《認識論》の理解との間に埋め難い溝を認めざるを得ない。
これが一般の人々なら未だしも、その分野の専門とされている人の多くが《実在論》の信奉者ではないかと疑わざるを得ない状況で、驚いてしまう。

しかし自分が《関係論》を理解していると言う前提で解釈するならば、《関係論》を理解するのは単なる理屈ではなく、自然に身に付いた感覚からのジャンプを要するのである。

なぜなら《実在論》は人が持つ自然で素朴な感覚であり、これに対し《関係論》は極めて不自然な人工的概念なのであり、それなりの感覚的なジャンプがなければ、《実在論》を否定した《関係論》には到達し得ないのだ。

だからこそ、高学歴を有し精緻な理論を構築しながらも、根本において《実在論》に囚われている学者や大学教授などの専門家は、実に少なくないのではないかと想像できるのだ。
少なくとも、日本の受験戦争は《実在論》に依っても十分勝ち抜くことはできるし、思春期に《関係論》に陥るとかえって受験から落ちこぼれるだろうことも十分にあり得るだろう。

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コメント

たびたびお邪魔します。
「存在」が存在するという事からのジャンプなのですか?
「私」、究極の「私」、究極の目撃者… 認識… からのジャンプを指してますか?

投稿: kame2 | 2012年12月21日 (金) 00時20分

コメントありがとうございます。
例えばコップを手に持つと、そのコップは「存在」としてありありとして感じられます。
コップは手の中に、夢や幻ではなく実際に存在し、その事は疑いようがありませんね。
でも実は、そのコップは夢や幻と変わらずに、実際に存在するものじゃないんですね。
コップだけじゃなく、「私」を含めた世界の何もかもが、確かな存在ではなく、夢や幻と同じものに過ぎません。
このことが理屈で理解できるだけではなく、実感として「ホントにその通り!」と思えるようになったら、それがぼくが言うところの「ジャンプ」です。
いろいろ本を読んで自分であれこれ考えると、そのうちジャンプできるのではないかと思います。

投稿: 糸崎 | 2012年12月21日 (金) 01時19分

何もかも、考えた考えを見ているだけですね。

投稿: kame2 | 2012年12月21日 (金) 07時55分

色即是空の教えは現代思想の先取りですね。

投稿: 糸崎 | 2012年12月22日 (土) 11時26分

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