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2012年12月15日 (土)

イメージと言葉

初めに言葉があった。
全てのものは言葉によってできた。
できたもので、言葉によらずできたものは何一つなかった。

言葉はイメージを内包する。
イメージは言葉によって分解される。
分解された言葉は、言葉に分解されないイメージを内包する。
言葉に内包された、言葉に分解されたイメージは人を騙し惑わす。
何故ならイメージを言葉に分解することが認識だからである。

すべては言葉であり、言葉で言い当てることが認識となる。
そして、あらゆるものは複数の言葉で言い当てられる。
故に、言葉とものの一対一の固定は認識の停止であり、これによって人は惑わされる。

イメージは石のように硬く、しかし石は言葉によって亀裂を生じ破壊され認識される。

イメージは石のように硬く、何も読み取ることができない。言葉によって石はひび割れ、認識がしみ込む。

言葉だけが硬い石のようなイメージを打ち砕き、意味を生じさせる。

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思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

逆に思えるのですが、、、日本語は少し特殊ですが本質的には言葉は「切り分けて固定する」ためのものだと思います。
ぼくは言葉よりも視覚的なイメージやその他の感覚イメージを動員して動かして考えることが多いです、つまり、アタマの中でいろいろアニメーションして、それを固定するために言葉に置き換えます。
「切り分けて固定する」のは古典科学の手法であり限界でもあったと認識していますが、その裏にはロゴス信仰が強く働いていたはずです、言い換えれば動的な現象を静的に解釈していたのであります。
古典科学は量子論や生命科学や気象学や人類学のような初期条件の違いが大きく影響する確率的な現象は「切り分けて固定する」という手法が成り立たないところからほころびたわけで、それは観察事実が言葉の本質的な志向とは合わないことを露呈したのだと思います。

言葉とはそういうものなのではないかと思います。。。

投稿: 遊星人 | 2012年12月18日 (火) 18時16分

ご無沙汰してますがコメントありがとうございます。

>逆に思えるのですが、、、日本語は少し特殊ですが本質的には言葉は「切り分けて固定する」ためのものだと思います。

言ってることは同じだと思います。
新約聖書のヨハネによる福音書の通り、「はじめに言葉があった」ですから、言葉がなければイメージもありません。
言葉による「切り分けて固定する」が無ければ、イメージも存在しないのです。
しかし言葉はイメージを内包して固定し、それ以上の切り分けを阻害します。
ですから別の言葉によってこのイメージを、さらに切り分ける必要があるのですね。

例えば目の前の人に対し、ただ漠然と「いい人そうだ」という言葉を当てはめるだけでは、そのイメージに騙されてします。
しかし服装や身振りや表情など、細かな言葉を様々に当てはめていけばイメージに亀裂が入り、「なんだかこの人怪しいぞ?」というふうに、認識が改まったりします。

科学について言えば、現在の新しい科学は「複雑系科学」で、それ以前の科学は「単純系科学」です。
「単純系科学」は実験室など閉じた系に基盤を置く科学で、「複雑系科学」は開いた系に基盤を置く科学で、気象学も前者から後者へと移行してきました。
これら新旧の科学の違いは、リテラシーの変化と解釈できます。
リテラシーとはつまり言葉と言うことで、その使い方が違うのです。
そもそも科学そのものが、世界を読み解くためのリテラシーですね。

投稿: 糸崎 | 2012年12月18日 (火) 21時01分

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