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2013年1月

2013年1月15日 (火)

数学と脳の構造

● 自分の体験の強烈さに引っ張られ、それを特別なものだと思い込むと、小さく凝り固まって応用範囲を限定してしまう。
それは特別に思えて実のところ多くの人が体験している事に過ぎず、だからこそ広く応用できる事に気付かなければならない。

●自分の能力を低く見積もる人ほど伸びる。
自信に満ちた人は下降してもそれに気付かない。

●自分がいかにダメなのかを構造的に把握できれば、自分が後どれだけ伸びる事ができるかの目安となる。
一方社会は、人々を一定のレベルに保つため、ある一定 の満足を平等に与えようとする。
そして世間では、社会から与えられる満足の不平等について論じられ、それは自分を伸ばす事とは無関係なのである。

●人間の脳の構造と、世界そのものとは構造が異なり、だから人間にとって世界は複雑なものとして現れる。
そしていわゆる「分かりやすい説明」とは、脳の構造 と同様の構造物に過ぎず、世界そのものの構造とは必ずしも一致しておらず、だから注意と警戒が必要なのである。

●数学が難しいのは、人間の脳の構造を対象化してそれを見る事が難しいから。
脳の構造を対象化するには、脳の構造の外に出る必要があり、それが難しい。

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正しい意見と選択肢

同じ事柄について、人によって意見がバラバラなのは、それらの意見のどれもが正しいからである。
だからどんな意見を採用しようとも、その選択は正しいのであり、何を選択しようとも、どうにかして正しさを成立させることはできる。

同じ事柄について、人々の間で様々に意見が異なるのは、そのどれもが等しく正しいからであり、だからこそ自分の意見を折り曲げて、大多数の意見や、強者の意見に従うことに意味があり、反対に自分の意見を何処までも押し通すことに意味がある。

つまり「どのように異なる意見も等しく正しい」と知る者には、常に状況に応じた「選択肢」が用意されているのであり、これによってどんな局面からでも「正しさ」をいかようにも導き出す事ができるのである。

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2013年1月11日 (金)

幸福と人生の無意味

難解な本を読んで、全く理解できないと絶望的になるが、これは娯楽だと思えばいい。
あらゆる娯楽は無意味な気晴らしでしかなく、ただその無意味さが隠蔽されてるに過ぎない。
いやそもそも人生そのものが無意味であり、娯楽はそれを隠蔽し、理解不能の読書はそれを顕在化させる、という違いがあるだけ。

人生そのものが無意味であることを隠蔽しながら幸福に生きる人と、人生の無意味さに対面し絶望しながら生き続ける人がいる。
自分に足りないものは幸福か絶望か…

くだらないネットサーフィンで時間を潰すのも、分かりもしないのに難解な哲学書を読むことも、全く意味がないことに違いはない。
ただし前者には人生の無意味さに対する隠蔽があり、後者はそれを顕在化させる。
あえていえば、隠蔽に意味を見出すか、顕在化に意味を見出すか、その違いがある。

ソクラテスの説く「無知の知」は、「人生の無意味さについての知」だとも言えるかもしれない。
少なくとも現代日本社会においては、人生の無意味さは実に大規模に、巧妙な形で、何重にも隠蔽されている。

この「無知の知」に従えば、知らない者は幸福であり、知る者は不幸になる。
幸福の追求とは無知の追求であり、人生の無意味さから目を逸らすためのさまざまな手段が、手を替え品を替え次々に登場し、幸福を求める人々に提供される。

つまり、現在言われている「価値観の多様化」とは、「人生の無意味さから目を逸らす手段」が多様化している事を指している。
例えば、AKB48に入れ込んで人生の無意味さを忘れることができる人がいる一方、AKB48のあまりのくだらなさにかえって人生の無意味さに対面してしまう人もいる。

AKB48でもエヴァンゲリオンでも村上隆でも会田誠でも、人は好きなものに惚れ込んで夢中になるほどに、人生の無意味さから遠く目を逸らすことができる。
しかし自分の嫌いなもの、興味がないものに対面させられると、人生の無意味さに対面することになって不快感が生じる。

人は好きなものに夢中になるほどに人生の無意味さを忘れ、その逆に嫌いなもの、興味のないものに接すると人生の無意味さに対面してしまう。
と考えると、真実は自分の好きなものの内には存在せず、自分の嫌いなもの、興味のないものの中にこそ真実は存在する。

別の言い方をすれば、真実は幸福や満足とは無縁であり、不幸や絶望の中に真実は隠されている。
幸福を求めるべきか、真実を求めるべきか、その選択肢自体が、幸福を求めることに特化した社会では隠蔽されている。

自分が好きなもの、夢中になれるものの内に真実は存在しない。
真実は自分が興味を持たないもの、嫌いなものの中にこそ存在する。
好きなものに夢中になる気持ちを抑え、そのものが何であるかを冷静に知ろうとすること。
そうすれば好きだったものへの興味が失われて行き、その中にこそ真実が見えてくる。

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道と「我が道」

何でも体験して見た方がいい、という意味では、会田誠さんの「宇宙の全てが分かってしまった」という神秘体験は無意味ではないだろうし、ぼく自身の「アヒルを通して神を見た!」という神秘体験も、ないよりはあった方がいいと言えるだろう。

しかし問題はそれをどう捉えるかで、それによって体験したことの意味や価値は変わるだろう。
端的に言えば、自分の体験の強烈な衝撃に引きずられて、これを絶対視してしまうと、間違いが生じる。
いや、それが間違いでないと思えばそれでいいのだろうが、ぼく自身は会田誠さんの作品を通し、自分が間違っていたことに改めて気づいたのだった。

自分の強烈な体験は、それが何なのかを考えて検証しなければ、意味がないものに終わる。
検証がない直感は「呪術」でしかなく、科学の時代において何ら有効性を持ち得ない。
ぼく自身の体験で言えば、ろくに知識もないのに「神は存在する!」と直感し、それ自体は結構なことなのだとしても、この直感だけを根拠に「神」を語り、そこからさらに展開して「芸術」を語ることには無理がある。

この発想から生み出されるものは、何ら普遍性を持たないローカルな「呪術」に過ぎない。
そうではなくて、「神を見た!」と何の知識もなく直感したのだったら、だからこそ、聖書や仏典などを読み、神や宗教についてのちゃんとした知識を仕入れるべきなのである。

また現代はもはや宗教が主流の時代ではないだけに、現代思想や哲学や科学の知識も、宗教に絡めて学ぶ必要がある。
そのように外部の知識を取り入れれば、自分の絶対的と思えた体験も、徐々に相対化されてくる。
相対化されるということは、自分の体験がより大きな意味体系の中に位置づけられるという事である。
そのようにして、自分の体験は意味や価値を持ち得るのである。

そしてぼく自身は、自分の直感を絶対視しながらも、一応は宗教書や思想書や哲学書も読んではいたのだが、それらはことごとく入門書であって、どうにも中途半端に行き詰まっていたのだった。
この行き詰まり突破のきっかけは、何と言っても彦坂尚嘉さんとの出会いによるもので、「考えること」のちゃんとした道筋を示してくれる人は、そうザラにはいないのである。
もちろんその道筋は決して平坦ではなく、未だ行き詰まりを突破できたとは言い難いが、ともかくそこに道は示されたのだった。

しかし思い起こせば彦坂尚嘉さんとの付き合いも丸四年を過ぎたのであるが、そこに示された道を道として認識するまでにはそれなりの時間が掛かってしまった。
やはり自分の体験を絶対視した状態では、道は道として認識出来ないのである。
なぜかと言えば、自分の体験を絶対視する人はそれに満足しているのであり、それ以外に何処かに行くための道を必要としないのである。

しかしぼくは自惚れがある一方で、その先の行き詰まりも予感していたのである。
端的に言えばぼくは飽きっぽい性格で、飽きれば政策のモチベーションが下がりクォリティーも落ちるのみで、そのような未来が見えてしまっていたのだ。

この「飽き」を回避するには「充実させること」が有効なのだが、その方法が自分だけでは今ひとつ分からず、不安に思っていたのだった。
しかし、自分以外の多くの人はどうかと言えば(ぼく自身が飽きっぽいと言われるだけあって)飽きっぽく無いのである。

ぼく以外の多くのアーティストは、その道一筋で同じことを飽きずに続けているように思える。
飽きない、ということは行き詰まりもないということで、誰も不安に思ってないし、困ってもいないのだ。
多くのアーティストが自分に満足し、従ってそこから移動するための道を必要とせず、道を道として認識することも無い。

いや、多くのアーティストは会田誠さんをはじめとして、それぞれに異なる「我が道」を行くのであって、それ以外に道を必要としない。
しかしぼくはどういうわけか「我が道」の行き先に一抹の不安を感じており、道が道として示されることを無意識のうちに望んでいたのだった。

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2013年1月10日 (木)

宇宙の全てとアヒルの神様

会田誠展の感想というか、これを観て自己反省する続き。

会田さんの作品は、芸大時代の神秘体験が根拠になっていることを改めて知ったのだが、これもずいぶん大きな収穫だった。
それは『河口湖曼荼羅』という作品に描かれているが、本人の解説によると、本来は描くことも言葉にすることもできない体験だそうで、ともかく突然として「宇宙のすべてが分かってしまった」なのだそうだ。

会田さんは美大時代、友人の車に同乗して河口湖畔の山道を登ってたところ、突然「宇宙のすべて」が分かってしまうという、それ以上言葉にできないような神秘体験をし、それ以来、芸術作品と哲学的思考を結びつけるようなことはしない、と決めたそうだ。

つまり会田誠作品は、彼独特の宗教観に基づく宗教美術という側面を持つ。
そして何を隠そうぼく自身も、実は会田さんと似た神秘体験があったのだ。

ぼくの神秘体験は美大卒業後しばらくしてからだが、埼玉県志木市の住宅地を歩いていたら、玄関先でアヒルを飼っている家があったのだった。
そしてその数ヶ月後だったか、バイトで派遣された板橋区の何処かの街で、またしても庭先でアヒルを飼っている家があったのだ。

そして、そのように別々の場所で飼われた二羽のアヒルを見て、ぼくは突然「神は存在する!」という事が分かってしまったのだった。
いや別にアヒルが神だったわけではないのだが、ともかくアヒルを通して「神」の存在をありありと感じたのだった。

と書くと、自分でもアホらしく思えてしまうが、それがどういうことなのかそれ以上の言葉ではなかなか説明できず、この点で会田誠さんの神秘体験と似ている。
もちろんぼくの体験と、会田さんの「宇宙のすべてが分かってしまった」体験とはニュアンスが異なる。

ぼくが体験した「神は存在する!」という感覚は、つまりは「認識の外部が存在する」という明確な実感でもあった。
人間は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、の五感で「世界」を認識するが、逆に言えば五感で捉えられない「認識の外部」も存在する。
これが抽象的な理屈としてではなく、ありありとした「実感」として体験できたのだった。

そして五感でキャッチ出来ない「認識の外部」がつまりは「神」なのだと、その時はそう思ったのだった。
「認識の外部」は文字通り人間には認識し得ないが、しかし認識世界には時として「認識の境界面」が立ち現れ、それが「神」として認識される。
だから「神」は遍在し、一つであり同時に多数なのだと考えた。

ぼくは当時、これを説明するために、円筒形を二次元平面に投影するモデルを考えてみた。
まず平らな紙の上に、茶筒のような円筒の物体をかざし、上からライトで照らす。

すると紙の上に円筒の影が投影されるが、その影は円筒の角度によって四角形、円、楕円、などの形に変化する。
つまり、三次元空間では「一つのもの」である円筒は、二次元平面では四角形、円、楕円、などの「異なるもの」として立ち現れる。

以上のモデルの二次元平面は「認識世界」、三次元空間は「認識の外部」に相当する。
円筒形の物体は「神」であり、投影される影が「異なる姿で立ち現れる神」であり、「遍在する神」である。

例え「神」が「一つの神」であっても、人間の認識世界には必然的に「神々」として立ち現れる。
そして「神」は教会などの中に存在せず、アニミズム的にどこにでも存在しうるのだ。

そして当時のぼくは、「芸術」というものも実は「神」と同じく、「認識の外部」の存在であると考え、それを「芸術そのもの」と仮に名付けたのだった。

人間の認識世界に立ち現れる個々の芸術作品は、認識の外部の存在である「芸術そのもの」影に過ぎない。
いや、影というより「認識世界」と「芸術そのもの」とが接触した「境界面」が、すなわち人間が認識する「芸術」なのだと、当時は考えたのだった。

認識世界における「芸術」が、認識の外部である「芸術そのもの」の影であり境界面だとすれば、「芸術」はいわゆる芸術作品としてだけではなく、様々な形で、様々な場所において立ち現れる可能性がある。
そしてそれが、芸術作品の外部である路上に芸術を求める「非人称芸術」の根拠になっているのだった。

当時のぼくは、橋爪大三郎『はじめての構造主義』などの影響も受けていたのだが、構造主義によると認識とは言葉であり、人間は様々な事物を言葉で言い当てながら、自らの認識世界を構築する。
逆に言えば、人間はただ言葉によってのみ、何もないところから存在を生み出す事ができる。

例えば目の前のアヒルに「これは神である」という言葉を投げかけると、それはアヒルを超えた「神」として立ち現れる。
「鰯の頭も信心から」とはまさにこのことで、当時のぼくが考える「神」とはそのように偏在し、言葉によっていかような姿にも立ち現れる「神」であった。

そして同じように、路上の一角に「これは芸術である」という言葉を投げかけると、目の前の対象物が何であれ、それを超えて「非人称芸術」が存在として立ち現れるのだった。
そのような感覚で、ぼくはひたすら路上を歩き回っていたのだ。

と、以上のように、自分の宗教観とそれに基づく芸術観をあらためて書いてみたのだが、今のぼくからはどうにも根拠が薄弱な、子供じみた理論に思えてしまう。
「神」とか「芸術」とか「構造主義」についてよく知りもしないのに直感だけで理論を組み立てると、このような結果になるのも当たり前だと言える。

しかし、当時のぼくにとって自分の得た直感はなかなか強烈なもので、だからついそれを絶対視してしまったのだ。
だが会田誠さんの神秘体験も、ぼく自身の神秘体験も、それ自体は無価値ではないとしても、それを根拠に芸術観や世界観を構築する事には無理がある。

会田誠さんについて言えば、彼は「宇宙のすべてがわかった」と言いながら、結局は難解な哲学が分からず「哲学が分からない」こと自体をテーマにした作品を制作している。
哲学に限らず、会田さんは何をテーマにしてもイデオロギー的で、それは具体的に何も知らないことの現れだと、前回の記事に書いた。

そして会田誠さんと同じように、ぼくの提唱する「非人称芸術」も、非常にイデオロギー的で具体性に欠ける側面があったのだ。
結局のところ、直感を軸に理論を構築しようとすると、知らないことはイデオロギーで補うことになり、全体としてイデオロギー的にならざるを得ない。

他人を見れば分かるのだが、イデオロギー的な人ほど自分はイデオロギーとは無縁だと思っている。
もちろん他ならぬ自分自身が、多分にイデオロギー的なのである。

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2013年1月 9日 (水)

復讐型アートとイデオロギー

大衆文化とは「お前はどうせダメなんだ」とお互いに言い合うことで安心を得ようとする文化であって、その中では高い場所へ行く道が隠されてしまう。
多くの人の資質は自分が思っているほどダメではないし、その意味で自分を高めることは誰にでも可能なはずなのだが、そのための道筋が隠されているのだ。

大衆文化にあっては「高い場所」へ行くことの諦めとセットで、「高い場所」そのものに対する恨みを植え付けられる。
「高い場所」に対する恨みを持つと「高い場所」が何なのかを認識することも無くなり、(能力的に可能であっても)そこにゆく道筋が隠されてしまう。

ぼく自身は「高い場所」を示されれば(自分の能力はともかく)そこへ行きたくなる質なのだが、その道筋がかなり巧妙な仕方で隠蔽されたことに対し、恨みを持つようになった。
新たな認識は新たな恨みを生じるが、究極的にその恨みは「自分」へと向けられる。
そして、恨みの対象となったものは、認識の対象から外れるのであり、だからこそ「自分」を認識するのは難しい。
しかし難しいとは言ってもたったこれだけのことであり、「高い場所」への道は誰にでも開かれている。

以上も会田誠展の感想なのだが、あれが何なのかを考えることは、自分とは何かを考えることに繋がる。
それだけ会田誠さんとぼくは似た要素を持ち、鏡のような他人を発見すると、自分を客観的に見ることができるのであり、それも万人に開かれたアートの大きな役目の一つだと言えるかもしれない。

その会田誠展では、作品がずいぶんイデオロギー的だった点も、改めてなるほど!と思えた。
例えば会田さんの描く美少女はどれも同じ顔、同じキャラの無個性で、概念的としての女性像が描かれているように思える。
『戦争画リターンズ』のシリーズも、会田さん個人の反戦への思いではなく、概念としての反戦が描かれている。

また、サラリーマンの死体が山と積まれた大作に今ひとつ悲壮感が無いのも、それが個人的な認識による想いからではなく、世間に流通している概念によって描かれているからではないか?
同じく電柱とカラスが描かれた大作が、不気味よりどうもよそよそしく感じるのも、同じ理由からではないか?

哲学を題材にした作品も、哲学を「何だか分からないけど難しくて偉そうなものだ」というような世間的概念で捉え、それをおちょくっているように思える。
会田作品は、いわゆる権威的なものをおちょくっているのだが、そのためには対象物を世間的概念で捉える必要があるのかも知れない。

この「権威的なものを概念で捉えおちょくる」という姿勢は、それ自体がイデオロギーであるように思える。
つまりこれは岡本太郎が『今日の芸術』で批判した「ハの字芸術」であり、「ハの字芸術」を批判する姿勢そのものが「ハの字芸術」となる二重構造になっている。

会田誠作品がなぜこうもイデオロギー的なのか?を考えると、そもそも岡本太郎の『今日の芸術』そのものがイデオロギー的なのだった。
岡本太郎はイデオロギーを批判するアーティストのように思えるが、実はその批判自体がイデオロギー化し、自らが「ハの字芸術」と化している。

岡本太郎の反イデオロギーは、実はそれが反転した「反-反イデオロギー」となり、結局はイデオロギー化している。
この岡本太郎的な「反-反イデオロギー」は会田誠も受け継いでいるのであり、他ならぬ自分も受け継いでいる。
そして、この「反-反イデオロギー」は「復讐型アート」の特徴でもあったのだ

権威的なものに復讐しようとする人は、実のところ憎しみのあまり復讐の対象物が何であるかを具体的に認識せず、概念としてそれを捉える。
嫌いなものは見たくもないし知りたくもないから「嫌いなもの」という概念で捉える。
そして一般に、人間にとって具体的に認識できないものは概念で捉えるしかない。

例えば東京に住んでいて大阪に行ったことがない人は、具体的な大阪を認識できないが概念で大阪を捉えるしかない。
美術館やギャラリーに行く習慣がない人は具体的なアートを認識せず、概念でアートを捉える。哲学書を読まない人は具体的な哲学を知りようもなく、概念としての哲学を語ろうとする。

一般に、具体的な事を何も知らない人ほど概念的で、イデオロギー的だと言える。
逆に言えば、具体的な事を知らずとも、それについて考えたり語ったりできるのが、概念やイデオロギーの機能なのである。
だからつい、イデオロギーの便利な機能に引きずられ、現実認識を怠ってしまうのだ。

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復讐型アート

現在、森美術館で開催中の会田誠展は、最近ある種の行き詰まりを感じている自分にとっても、ターニングポイントとなるような展示だった。
と言うのも、表現方法が全く違う合田誠の作品が、自分の姿を映し出す鏡のように見えたのだった。

実は最近、彦坂尚嘉さんが立教大学の授業で使ってるテオドール・アドルノ『音楽社会学序説』を自分も読んでるのだが、アドルノが示した音楽区分をアートに置き換えて考えると、会田誠作品には「復讐型アート」の側面があり、それは自分自身の作品も同じなのだった。
「復讐型アート」とは何かと言えば、早い話が「偉そうにしてる高級芸術」に対する反発、と言えるものだ。

会田誠作品が復讐型アートであることは、作品の素材としても現れている。例えば『戦争画リターンズ』は廃棄された襖を蝶番で屏風に仕立てた作品で、そのうちの代表作『紐育空爆之図』は新聞紙を貼りその上に描かれている。
この感覚は、ぼくの作品「フォトモ」が紙製であることと共通している。

まぁ、グダグダ書くのもめんどくさいので簡単に言えば「復讐型アート」の作家は、実のところ復讐する相手をよく認識しないまま復讐するのであって、そこに限界がある。
ぼくは会田誠作品を自分を映し出す鏡のように見て、あらためてこれに気付いたのだった。

ともかくぼくは、美術館やギャラリースペースで、勿体ぶって偉そうに展示されている現代アート作品が、非常につまらなく欺瞞に満ちているように思えて、非常な恨みを持っていた。
だから、それをおちょくるような会田誠作品には、親近感を持っていた。

ところが改めて考えてみると、偉そうにしている現代アート作品にも、本物と偽物があって、ぼくはその偽物の「偉そうにしている」ところに騙されて、それで復讐型アートに走った、と言えるかもしれないのだった。
ぼく自身は、世間に対する恨みと、権威に対する恨みと、二重の恨みがあり、自分のアートはその復讐であったのだ。
そして会田誠も哲学書に落書きしたり、難解な哲学書をわけもわからず読みながら絵を描いたり、アート作品を通して知的権威に対する復讐を行っている。

しかし考えてみれば、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」も、つまりは知的権威に対する復讐であったのだ。
それだけで無く、ぼくがこれまで読んできた哲学や思想、宗教などの入門書は、知的権威に対する復讐心によって書かれ、或いは知的権威に対する復讐心を満たすニーズによって書かれている。

世間でよく言われるのが「難しい概念を難しい言葉でしか説明できない人は、本当に頭が良いとは言えない。本当に頭の良い人は、難しい概念を誰にでも理解できる平易な言葉に置き換えられる。」と言うもので、ぼくもそう信じていたのだが、これこそ世間の知的権威に対する恨みの表れなのだった。

つまり、我々庶民にとって、知的権威の側にいる人々が、難解な言葉で哲学や思想なるものを語りながら、偉そうにしているのが大変に腹立たしい。
その構造は、理解不能の現代アート作品が、勿体ぶって偉そうに展示されているのが腹立たしく思えるのとよく似ている。

知的権威や、現代アートの権威は、それが理解できない我々庶民を疎外する。
その恨みから庶民はその権威に対し「偽物ではないか?」という疑いをかける事でバランスを取ろうとし、それが「偉そうにしている」という言い回しに現れる。
そして現に、権威の側には多くの偽物が含まれ、世間を惑わしている。

ぼくはど言う訳か、本物のアートを知る前に、本物の哲学や宗教を知りたいと思い、プラトンと対話編や初期仏典や、聖書や古代中国の諸子百家などを読んだのだった。
これらを読む事を勧めてくれてのは彦坂尚嘉さんと写真家の相馬泰さんだが、初期のものは意外に読みやすく、しかし本質的で奥深いのだった。

そのような、哲学や宗教のいわゆる古典的名著を何冊か読んでゆくと、なんというか人間の知的なあり方の基本がわかってくる。
そうすると、世間的には知的権威として認知されている人のうち、誰が本物で誰が偽物なのかが、だんだんに分かってくる。
それと共に、知的権威に対する恨みも薄れてゆくのだった

もちろん、知的権威の本物と偽物の区別が完璧につくようになったわけではないが、古典を読む事でひとつの「基準」が自分の中に形成されつつあるのは確かで、それにより漠然とした不安が解消され、恨みも消えたのだ。
つまり、知的権威に対する怨みや復讐心といったものは、「基準」を持たない不安がその根拠になっていたのだった。

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