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2013年1月 9日 (水)

復讐型アートとイデオロギー

大衆文化とは「お前はどうせダメなんだ」とお互いに言い合うことで安心を得ようとする文化であって、その中では高い場所へ行く道が隠されてしまう。
多くの人の資質は自分が思っているほどダメではないし、その意味で自分を高めることは誰にでも可能なはずなのだが、そのための道筋が隠されているのだ。

大衆文化にあっては「高い場所」へ行くことの諦めとセットで、「高い場所」そのものに対する恨みを植え付けられる。
「高い場所」に対する恨みを持つと「高い場所」が何なのかを認識することも無くなり、(能力的に可能であっても)そこにゆく道筋が隠されてしまう。

ぼく自身は「高い場所」を示されれば(自分の能力はともかく)そこへ行きたくなる質なのだが、その道筋がかなり巧妙な仕方で隠蔽されたことに対し、恨みを持つようになった。
新たな認識は新たな恨みを生じるが、究極的にその恨みは「自分」へと向けられる。
そして、恨みの対象となったものは、認識の対象から外れるのであり、だからこそ「自分」を認識するのは難しい。
しかし難しいとは言ってもたったこれだけのことであり、「高い場所」への道は誰にでも開かれている。

以上も会田誠展の感想なのだが、あれが何なのかを考えることは、自分とは何かを考えることに繋がる。
それだけ会田誠さんとぼくは似た要素を持ち、鏡のような他人を発見すると、自分を客観的に見ることができるのであり、それも万人に開かれたアートの大きな役目の一つだと言えるかもしれない。

その会田誠展では、作品がずいぶんイデオロギー的だった点も、改めてなるほど!と思えた。
例えば会田さんの描く美少女はどれも同じ顔、同じキャラの無個性で、概念的としての女性像が描かれているように思える。
『戦争画リターンズ』のシリーズも、会田さん個人の反戦への思いではなく、概念としての反戦が描かれている。

また、サラリーマンの死体が山と積まれた大作に今ひとつ悲壮感が無いのも、それが個人的な認識による想いからではなく、世間に流通している概念によって描かれているからではないか?
同じく電柱とカラスが描かれた大作が、不気味よりどうもよそよそしく感じるのも、同じ理由からではないか?

哲学を題材にした作品も、哲学を「何だか分からないけど難しくて偉そうなものだ」というような世間的概念で捉え、それをおちょくっているように思える。
会田作品は、いわゆる権威的なものをおちょくっているのだが、そのためには対象物を世間的概念で捉える必要があるのかも知れない。

この「権威的なものを概念で捉えおちょくる」という姿勢は、それ自体がイデオロギーであるように思える。
つまりこれは岡本太郎が『今日の芸術』で批判した「ハの字芸術」であり、「ハの字芸術」を批判する姿勢そのものが「ハの字芸術」となる二重構造になっている。

会田誠作品がなぜこうもイデオロギー的なのか?を考えると、そもそも岡本太郎の『今日の芸術』そのものがイデオロギー的なのだった。
岡本太郎はイデオロギーを批判するアーティストのように思えるが、実はその批判自体がイデオロギー化し、自らが「ハの字芸術」と化している。

岡本太郎の反イデオロギーは、実はそれが反転した「反-反イデオロギー」となり、結局はイデオロギー化している。
この岡本太郎的な「反-反イデオロギー」は会田誠も受け継いでいるのであり、他ならぬ自分も受け継いでいる。
そして、この「反-反イデオロギー」は「復讐型アート」の特徴でもあったのだ

権威的なものに復讐しようとする人は、実のところ憎しみのあまり復讐の対象物が何であるかを具体的に認識せず、概念としてそれを捉える。
嫌いなものは見たくもないし知りたくもないから「嫌いなもの」という概念で捉える。
そして一般に、人間にとって具体的に認識できないものは概念で捉えるしかない。

例えば東京に住んでいて大阪に行ったことがない人は、具体的な大阪を認識できないが概念で大阪を捉えるしかない。
美術館やギャラリーに行く習慣がない人は具体的なアートを認識せず、概念でアートを捉える。哲学書を読まない人は具体的な哲学を知りようもなく、概念としての哲学を語ろうとする。

一般に、具体的な事を何も知らない人ほど概念的で、イデオロギー的だと言える。
逆に言えば、具体的な事を知らずとも、それについて考えたり語ったりできるのが、概念やイデオロギーの機能なのである。
だからつい、イデオロギーの便利な機能に引きずられ、現実認識を怠ってしまうのだ。

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