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2013年1月11日 (金)

道と「我が道」

何でも体験して見た方がいい、という意味では、会田誠さんの「宇宙の全てが分かってしまった」という神秘体験は無意味ではないだろうし、ぼく自身の「アヒルを通して神を見た!」という神秘体験も、ないよりはあった方がいいと言えるだろう。

しかし問題はそれをどう捉えるかで、それによって体験したことの意味や価値は変わるだろう。
端的に言えば、自分の体験の強烈な衝撃に引きずられて、これを絶対視してしまうと、間違いが生じる。
いや、それが間違いでないと思えばそれでいいのだろうが、ぼく自身は会田誠さんの作品を通し、自分が間違っていたことに改めて気づいたのだった。

自分の強烈な体験は、それが何なのかを考えて検証しなければ、意味がないものに終わる。
検証がない直感は「呪術」でしかなく、科学の時代において何ら有効性を持ち得ない。
ぼく自身の体験で言えば、ろくに知識もないのに「神は存在する!」と直感し、それ自体は結構なことなのだとしても、この直感だけを根拠に「神」を語り、そこからさらに展開して「芸術」を語ることには無理がある。

この発想から生み出されるものは、何ら普遍性を持たないローカルな「呪術」に過ぎない。
そうではなくて、「神を見た!」と何の知識もなく直感したのだったら、だからこそ、聖書や仏典などを読み、神や宗教についてのちゃんとした知識を仕入れるべきなのである。

また現代はもはや宗教が主流の時代ではないだけに、現代思想や哲学や科学の知識も、宗教に絡めて学ぶ必要がある。
そのように外部の知識を取り入れれば、自分の絶対的と思えた体験も、徐々に相対化されてくる。
相対化されるということは、自分の体験がより大きな意味体系の中に位置づけられるという事である。
そのようにして、自分の体験は意味や価値を持ち得るのである。

そしてぼく自身は、自分の直感を絶対視しながらも、一応は宗教書や思想書や哲学書も読んではいたのだが、それらはことごとく入門書であって、どうにも中途半端に行き詰まっていたのだった。
この行き詰まり突破のきっかけは、何と言っても彦坂尚嘉さんとの出会いによるもので、「考えること」のちゃんとした道筋を示してくれる人は、そうザラにはいないのである。
もちろんその道筋は決して平坦ではなく、未だ行き詰まりを突破できたとは言い難いが、ともかくそこに道は示されたのだった。

しかし思い起こせば彦坂尚嘉さんとの付き合いも丸四年を過ぎたのであるが、そこに示された道を道として認識するまでにはそれなりの時間が掛かってしまった。
やはり自分の体験を絶対視した状態では、道は道として認識出来ないのである。
なぜかと言えば、自分の体験を絶対視する人はそれに満足しているのであり、それ以外に何処かに行くための道を必要としないのである。

しかしぼくは自惚れがある一方で、その先の行き詰まりも予感していたのである。
端的に言えばぼくは飽きっぽい性格で、飽きれば政策のモチベーションが下がりクォリティーも落ちるのみで、そのような未来が見えてしまっていたのだ。

この「飽き」を回避するには「充実させること」が有効なのだが、その方法が自分だけでは今ひとつ分からず、不安に思っていたのだった。
しかし、自分以外の多くの人はどうかと言えば(ぼく自身が飽きっぽいと言われるだけあって)飽きっぽく無いのである。

ぼく以外の多くのアーティストは、その道一筋で同じことを飽きずに続けているように思える。
飽きない、ということは行き詰まりもないということで、誰も不安に思ってないし、困ってもいないのだ。
多くのアーティストが自分に満足し、従ってそこから移動するための道を必要とせず、道を道として認識することも無い。

いや、多くのアーティストは会田誠さんをはじめとして、それぞれに異なる「我が道」を行くのであって、それ以外に道を必要としない。
しかしぼくはどういうわけか「我が道」の行き先に一抹の不安を感じており、道が道として示されることを無意識のうちに望んでいたのだった。

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