幸福と人生の無意味
難解な本を読んで、全く理解できないと絶望的になるが、これは娯楽だと思えばいい。
あらゆる娯楽は無意味な気晴らしでしかなく、ただその無意味さが隠蔽されてるに過ぎない。
いやそもそも人生そのものが無意味であり、娯楽はそれを隠蔽し、理解不能の読書はそれを顕在化させる、という違いがあるだけ。
人生そのものが無意味であることを隠蔽しながら幸福に生きる人と、人生の無意味さに対面し絶望しながら生き続ける人がいる。
自分に足りないものは幸福か絶望か…
くだらないネットサーフィンで時間を潰すのも、分かりもしないのに難解な哲学書を読むことも、全く意味がないことに違いはない。
ただし前者には人生の無意味さに対する隠蔽があり、後者はそれを顕在化させる。
あえていえば、隠蔽に意味を見出すか、顕在化に意味を見出すか、その違いがある。
ソクラテスの説く「無知の知」は、「人生の無意味さについての知」だとも言えるかもしれない。
少なくとも現代日本社会においては、人生の無意味さは実に大規模に、巧妙な形で、何重にも隠蔽されている。
この「無知の知」に従えば、知らない者は幸福であり、知る者は不幸になる。
幸福の追求とは無知の追求であり、人生の無意味さから目を逸らすためのさまざまな手段が、手を替え品を替え次々に登場し、幸福を求める人々に提供される。
つまり、現在言われている「価値観の多様化」とは、「人生の無意味さから目を逸らす手段」が多様化している事を指している。
例えば、AKB48に入れ込んで人生の無意味さを忘れることができる人がいる一方、AKB48のあまりのくだらなさにかえって人生の無意味さに対面してしまう人もいる。
AKB48でもエヴァンゲリオンでも村上隆でも会田誠でも、人は好きなものに惚れ込んで夢中になるほどに、人生の無意味さから遠く目を逸らすことができる。
しかし自分の嫌いなもの、興味がないものに対面させられると、人生の無意味さに対面することになって不快感が生じる。
人は好きなものに夢中になるほどに人生の無意味さを忘れ、その逆に嫌いなもの、興味のないものに接すると人生の無意味さに対面してしまう。
と考えると、真実は自分の好きなものの内には存在せず、自分の嫌いなもの、興味のないものの中にこそ真実は存在する。
別の言い方をすれば、真実は幸福や満足とは無縁であり、不幸や絶望の中に真実は隠されている。
幸福を求めるべきか、真実を求めるべきか、その選択肢自体が、幸福を求めることに特化した社会では隠蔽されている。
自分が好きなもの、夢中になれるものの内に真実は存在しない。
真実は自分が興味を持たないもの、嫌いなものの中にこそ存在する。
好きなものに夢中になる気持ちを抑え、そのものが何であるかを冷静に知ろうとすること。
そうすれば好きだったものへの興味が失われて行き、その中にこそ真実が見えてくる。
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