復讐型アート
現在、森美術館で開催中の会田誠展は、最近ある種の行き詰まりを感じている自分にとっても、ターニングポイントとなるような展示だった。
と言うのも、表現方法が全く違う合田誠の作品が、自分の姿を映し出す鏡のように見えたのだった。
実は最近、彦坂尚嘉さんが立教大学の授業で使ってるテオドール・アドルノ『音楽社会学序説』を自分も読んでるのだが、アドルノが示した音楽区分をアートに置き換えて考えると、会田誠作品には「復讐型アート」の側面があり、それは自分自身の作品も同じなのだった。
「復讐型アート」とは何かと言えば、早い話が「偉そうにしてる高級芸術」に対する反発、と言えるものだ。
会田誠作品が復讐型アートであることは、作品の素材としても現れている。例えば『戦争画リターンズ』は廃棄された襖を蝶番で屏風に仕立てた作品で、そのうちの代表作『紐育空爆之図』は新聞紙を貼りその上に描かれている。
この感覚は、ぼくの作品「フォトモ」が紙製であることと共通している。
まぁ、グダグダ書くのもめんどくさいので簡単に言えば「復讐型アート」の作家は、実のところ復讐する相手をよく認識しないまま復讐するのであって、そこに限界がある。
ぼくは会田誠作品を自分を映し出す鏡のように見て、あらためてこれに気付いたのだった。
ともかくぼくは、美術館やギャラリースペースで、勿体ぶって偉そうに展示されている現代アート作品が、非常につまらなく欺瞞に満ちているように思えて、非常な恨みを持っていた。
だから、それをおちょくるような会田誠作品には、親近感を持っていた。
ところが改めて考えてみると、偉そうにしている現代アート作品にも、本物と偽物があって、ぼくはその偽物の「偉そうにしている」ところに騙されて、それで復讐型アートに走った、と言えるかもしれないのだった。
ぼく自身は、世間に対する恨みと、権威に対する恨みと、二重の恨みがあり、自分のアートはその復讐であったのだ。
そして会田誠も哲学書に落書きしたり、難解な哲学書をわけもわからず読みながら絵を描いたり、アート作品を通して知的権威に対する復讐を行っている。
しかし考えてみれば、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」も、つまりは知的権威に対する復讐であったのだ。
それだけで無く、ぼくがこれまで読んできた哲学や思想、宗教などの入門書は、知的権威に対する復讐心によって書かれ、或いは知的権威に対する復讐心を満たすニーズによって書かれている。
世間でよく言われるのが「難しい概念を難しい言葉でしか説明できない人は、本当に頭が良いとは言えない。本当に頭の良い人は、難しい概念を誰にでも理解できる平易な言葉に置き換えられる。」と言うもので、ぼくもそう信じていたのだが、これこそ世間の知的権威に対する恨みの表れなのだった。
つまり、我々庶民にとって、知的権威の側にいる人々が、難解な言葉で哲学や思想なるものを語りながら、偉そうにしているのが大変に腹立たしい。
その構造は、理解不能の現代アート作品が、勿体ぶって偉そうに展示されているのが腹立たしく思えるのとよく似ている。
知的権威や、現代アートの権威は、それが理解できない我々庶民を疎外する。
その恨みから庶民はその権威に対し「偽物ではないか?」という疑いをかける事でバランスを取ろうとし、それが「偉そうにしている」という言い回しに現れる。
そして現に、権威の側には多くの偽物が含まれ、世間を惑わしている。
ぼくはど言う訳か、本物のアートを知る前に、本物の哲学や宗教を知りたいと思い、プラトンと対話編や初期仏典や、聖書や古代中国の諸子百家などを読んだのだった。
これらを読む事を勧めてくれてのは彦坂尚嘉さんと写真家の相馬泰さんだが、初期のものは意外に読みやすく、しかし本質的で奥深いのだった。
そのような、哲学や宗教のいわゆる古典的名著を何冊か読んでゆくと、なんというか人間の知的なあり方の基本がわかってくる。
そうすると、世間的には知的権威として認知されている人のうち、誰が本物で誰が偽物なのかが、だんだんに分かってくる。
それと共に、知的権威に対する恨みも薄れてゆくのだった
もちろん、知的権威の本物と偽物の区別が完璧につくようになったわけではないが、古典を読む事でひとつの「基準」が自分の中に形成されつつあるのは確かで、それにより漠然とした不安が解消され、恨みも消えたのだ。
つまり、知的権威に対する怨みや復讐心といったものは、「基準」を持たない不安がその根拠になっていたのだった。
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