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2013年2月

2013年2月 5日 (火)

才能とアーティスト

アートに向かない人間が、その欠落感によりアートへと向かう。
才能のある若者は、自己満足に向かいアートにはそっぽを向くのである。
だからアーティストは、自分にできない事、向かない事、才能の無い事に向き合う必要がある。

才能は才能が無い状態から生じるのであり、それこそが新しい才能だと言えるのである。
新たな才能とは、才能が無い事への苦しみと絶望から生じる。
才能に満ち溢れた満足感からは、新しい才能は生じにくい。
これは才能が無い者の僻みかと自分でも思ったが、実際の例を見ると結構当てはまるのだ。

若者の多くは特有の優れた才能を示すが、それは世阿弥が『風姿花伝』で「時の花」と呼んだように、パッと咲いたと思うとやがて散ってしまうのである。
そしてぼく自身は、この「時の花」が咲かずに学生時代は随分と思い悩んでいたのだった。

中学から高校にかけてぼくは同級生の田中くんの才能に激しく嫉妬していた。
田中くんは絵が上手くて頭も良く、ニーチェから影響を受け独自の「大衆論」を展開していた。
だが彼は社会に適応できず、定時制高校を入学直後に退学し自宅に引きこもっていたところ、親によって精神病院に入れられてしまった。

田中くんは精神的には何ら異常があるとは思えなかったが、その当時は「引きこもり」や「ニート」と言った概念もなく、親による厄介払いで精神病院に強制入院させられたのだった。
そして田中くんも、精神病院はいやだと思う一方で社会に出るのが怖く、ぼくの呼びかけに応じて退院することはなかったのだった。

天才の田中くんは精神病院に入れられ、凡才のぼくは芸大に行けず、ほどほどのレベルの東京造形大学に入学したのだった。
しかし結局のところ、造形大の同級生の多くは自分よりも才能に溢れ、ここでも嫉妬に苦しみ、何もできない自分に苦しむことになった。

美大卒業後、ぼくは玩具メーカー「ヨネザワ」の商品企画部に入社するが、その同期の同僚も皆センスがあり自分より才能があるように思われた。
そしてぼく自身は何も企画できないまま、一年あまりで会社を辞めてしまった。
しかし振り返ると、あんなにも才能に溢れた友人たちは、皆消えてしまった。

いや、消えたと言っても死んだわけではないだろうが、才能に溢れた友人たちのうち、アーティストとして名を聞く人は誰もいない。
美大の同級生のうち、一番才能があってぼくが嫉妬していた井本くんは、数年前に会ったら全く「普通の人」になっていて驚いた。
まさに彼の才能こそが「時の花」だったのだ。

この辺りの事は以前も書いたのだが、アーティストとしての自分は「才能が無い事」を前提にスタートしている。
だから才能が無いところに新たな才能が生じ、才能のあるところからそれ以上のものは生じ得ないと、身に染みて思うのだった。
そしてまた、最近のぼくは作品制作に行き詰まりを感じている。

行き詰まりを感じているのは、今のぼくには才能があって、だからそれ以上のものが生み出せないからだ、と考える事ができる。
才能が無いところから新たな才能が生じ、そして今は才能がある状態に安住し、それ故に行き詰まっている。

行き詰まっているということは、つまりは才能が無いということであり、自分はそのような才能の無さに改めて向き合わなければならない。
なまじ、自分はものづくりの人間だと思うから、ものが作れなくなる。
しかしかつてを忠実に振り返れば、そもそも自分はものを作るのが苦手なのである。

ぼくは「フォトモ」を作り、それ以外にも写真家という肩書き以上に多彩な作品展開をし、カメラ改造の連載記事を書き、ずいぶん器用だと自分でも錯覚しているが、それらは皆「出来ない」事から出発していたのだった。
そして事実、自分は今でもあらゆる事が苦手で出来ないでいるタイプの人間なのだ。

「才能が無い」という自分の原点に立ち返って考えると、例えばぼくには金儲けの才能が無いと言える。
アーティストが新たなものを生み出す人間であり、作品のみならず、作品をお金に変える手立ても新たに創造するのがアーティストの仕事なのだとすれば、ぼくは明らかにアーティストには向いていない。

アーティストとは生き方であり、自分の生き方を創造するのがアーティストであり、自らの作品制作を支える経済基盤をも含めて創造するのがアーティストならば、ぼくにはアーティストの適性がなく、才能がなく、全くもって向いていない。
だからこそ、その地点からアーティストになるべく向かう事ができるはずだ。

もし、金儲けの才覚があれば、その人はアーティストにはならないし、なる必要もないだろう。
あるいは、金儲けの才覚がるアーティストは「あいつは商売人でアーティストではない」などと陰口を叩かれる。
しかしだからこそ、アーティストは「アートとお金」の関係を、それぞれ独自の仕方で創造しなければない

自分はものづくりが得意だと思えば、才能に満足しそれ以上のものが生み出せなくなる。
しかし苦手てあると認識すれば、ではどうやれば新たなものが作れるのか?という方向に頭が働く。
だが、自分には金儲けの才能がなく、金儲けと自分は無関係だともうと、やっぱり頭が働かなくなる。

要は欲望の持ち方なのだが、自分は作品だけを作りたいのか?それともアーティストでありたいのか?その違いだと言えるだろう。
つまり作品だけを作り、作品を売らず、生活基盤をバイトなので支えるのであれば、それは生き方としては趣味人に過ぎない、と見る事もできる。

もし自分がアーティストでありたいなら、その欲望は作品制作のみならず「アーティストであり続ける事」全般に向かってしかるべきなのである。
だからそれには、アートとお金の関係についての欲望も含まれるのである。
自分は純粋にアートを追求し、お金の事なんか考えたくない、と思うなら、それはアーティストではなく甘ちゃんのアマチュアでしかない。

というわけで以上、自分が未だ出来ない事について、みなさんに向けて語ってみたのでした(笑)

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2013年2月 3日 (日)

実は書くのが苦手なことの原因

はっきり言えることなのだが、自分は文章を書くのが基本的には苦手なのである。
ことに文章を書くのが非常に遅く、書き出しに迷って時間が掛かり、推敲にこれまた膨大に時間がかかる。
それだけ迷って時間をかけて、さぞや素晴らしい文章になるのかと言えばさにあらず、普通に読めるようになるまでのことでしかない。

ぼくが文章を書くのが苦手なのは、それ以前にしゃべるのが苦手だからである。
自分のしゃべりを分析すると、ともかく無駄な言葉が多く、つまりは「言いたいこと」とは別の言葉がどうしても出てきてしまって、「思っていること」を言葉によって的中させることができず、外れ弾を連発してしまう。

自分にはしゃべりたい気持ち、書きたい気持ちがあるのだが、その「気持ち」が強すぎるため、いつも「気持ち」ばかりが先行し、うまくしゃべれずまた書けないでいる。
いや改めて考えると、自分には「しゃべりたい事」があるからしゃべりたいのではなく、内容はともかくただしゃべりたいし、書きたいのである。
もちろんしゃべったり書いたりしたい内容が皆無ではないが、むしろしゃべったり書いたりするネタを仕入れる為に、読書をしたり、作品制作したり、考え事をしたりしてると言えるかもしれない。

まぁ「自分」とは新品のパソコンみたいに素の状態では空っぽで、いろいろインストールしないと作動しないのである。
だからしゃべりたい気持ちがあっても内容がなく、だから内容を後から仕入れるというプロセスはおかしいとは言えないだろう。

問題は自分の強すぎると思える「しゃべりたい気持ち」は一体どこからきたのか?という事である。
それこそが「素の自分」だと言われればそれまでだが、ちょっと掘り下げてみたいのだ。

さて、「自分」を知るためにその素材として、自分の親を観察することは非常に有効である。
そのために親には感謝しなければないのだが、しかし親のせいでこんな「自分」になって苦しんでるのも事実だから仕方が無い(笑)
そもそも親に対する憎しみが強すぎると、その気持ちにくっつき客観的な分析が不可能になる。

最近の自分はやっと親に対する憎しみが消え、親との関係を冷静に考えられるようになった…かもしれない。
ともかく、ぼく自身の「しゃべりたい気持ち」というのは親に原因のあるらしいことが最近の観察で分かってきた。
つまり自分の母親自体が「しゃべりたい気持ち」が強い人なのであった。

これは、母親の「しゃべりたい気持ち」が強い体質が遺伝した、という話ではない。
いや遺伝的要素もゼロではなさそうだが、それよりも母親はしゃべりたい気持ちが強すぎて、基本的に相手のしゃべりを遮って、自分の言いたいことだけをまくし立てるタイプだったのだ。

つい先日も母親に電話取材してみたのだが、母親は自分が言いたいことをしゃべるばかりで、他人の話を聞く習慣がないようだ。
他人の話を聞き、他人の言い分や気持を理解し、自分とは異なる「他者」が存在するという事を認識しようとする心構えがない。

母親は対外的には社交的で友人とは仲良くしてるようだが、家族に対しては甘えがあるのか自分と他者の区別がなく、子供の言い分を聞かず、子供の気持ちを理解しようとせず、子供の気持ちに歩み寄ろうとしない。
子供の他者としての存在を認めず、自分の一方的な愛情を押し付ける事しかしないのだった。

いや、今更親に恨み言をいうつもりはないのだが、ぼくとしては事態の改善のために原因は追求したいだけなのだ。
つまりぼくは子供の頃、自分の存在を親に認められず、自分の「しゃべりたい気持ち」を遮られながら育ってきたので、そのフラストレーションが根底にある、という気がする。

いや大学入学以後、親元を離れて暮らしてるのだから、親に気兼ねなく誰とでも話せばいいし、事実そうしてきたのだが、根底にあるフラストレーションは解消されないでいたのではないか?
ぼくの「しゃべりたい気持ち」とは一種の焦燥感で、だから「強すぎる」のであり、うまくしゃべれず書けないのだ。

重要なのは、自分がなぜしゃべりたいのか?なぜ書きたいのか?ということの根底的な原因なのだが「親によるフラストレーションの解消」という要素は全てではないが多いに関与してることは間違いなさそうだ。
こういう気持ちは無自覚なままでいると「無自覚な気持ち」そのものに意識がコントロールされてしまう。

しゃべったり書いたりするには「目的」があるはずだが、だからこそ「無自覚な気持ち」によって目的そのものを歪められたら損だ。
自分がブログを書き、Tweetをし、果ては雑誌などに原稿を執筆することの根底に「親によるフラストレーションの解消」があったとは自分でも驚いてしまう。

「親によるスラストレーションの解消」はとっくに終わってるはずなのだが、この気持ちは無自覚がゆえに自動化し、自分の行動を支配している。
無自覚な気持ちを自覚化することで、コントロールの支配権を自分に取り戻さなければならない。
そして書くことの「目的」について改めて考える必要がある。

ところで、自分の心理の「本当」は分かりようがなく、すべては仮定でしかない。
しかし仮定によって自らの精神治療効果を実証するしか手はなく、たから自分がしゃべること、書くこと、そして作品制作し自己表現すること全ての根底に「親からのフラストレーション解消」のあることを仮定し、その削除を試みるのだ。

自分は写真家・美術家を名乗っているのだが、つまりはアーティストである。
だからアーティストとして作品制作するのはもちろん、アーティストとしてしゃべったり書いたりしなければならない。
少なくとも、それを自分のフラストレーション解消のためにしてはならない。

つまりアーティストとは「公」の存在であって、作品も発言も公のものでなければならない。
もし公でなくプライベートに作品が制作され、プライベートに発言されるなら、それは公の存在としてのアーティストではなく、プライベートな趣味の範疇にすぎない。
その意味で自分はまったくの趣味とは言えないまでも、公私混同していたところがあり、反省しなければならない。

公の存在としてのアーティストというものを考えると、日本人アーティストの多くにはある「呪い」か掛けられている。
それは「アートにはお金に換算できない価値がある」という思い込みだ。

「アートにはお金に換算できない価値がある」と一旦思い込むとそれ以上考察するのをやめてしまい、だからそれが考えや行動を支配する「呪い」となってしまう。
それは実証や反省や考察を欠いた思い込みでしかなく、だから「呪い」として機能する。
もちろん、その「呪い」にかかっているのは他なら自分自身なのだが、他人の言動にそれを観察する事もできる。

例えば、ある写真家たちのシンポジウムにギャラリストが参加して「みなさんは作品に値段をつけて売らないの?」と質問したが、5人ばかり壇上にいた写真家は皆「値段はないし売ってもない」と答えた。
さらにそのシンポジウムの客席にいた写真家の一人は「写真そのものの話をしたかったのに、何で写真の内容に関係ない値段の話をするのか」というように怒っていた。

ぼくの知る限りの日本の多くの写真家は、写真作品そのものを売って生計を立てていない。
言わば販売を考えず純粋に「写真」の追求をしている。

日本の多くの写真家は作品として写真集を自費出版しているが、何年もかけて売り切ってもトントンで儲けは出ないらしい。
彼らはバイトなどしながら生計を立て、お金の価値とは無縁の写真的価値を純粋に追求している。
という構造なのだが、果たしてこれが「純粋」かどうか疑問の余地がある。

そもそも何が純粋なのかは非常に難しい問題であり、純粋について深く考える事なく、ただ自分の思い込みで純粋なつもりでいても、その態度は純粋だと言えるのか?
いや「純粋」という還元主義的な考えそのものが古いのであって、感覚や認識は多次元多様体に開かれなくてはならない、と言えるかも知れない。

アーティストが「職業」だとすれば、作品を売って生計を立てていなければおかしい。
日本人写真家の多くのように、お金に換算できない価値を持つ「写真」を撮る事は、本人は純粋なつもりでもそれはプライベートな行為であり、公のアーティストの活動とは言えない、という見方もできる。

しかしあらためて考えてみると「お金に換算できない価値を持つ」という事は、アートに限らず何にだって当てはまるのだった。
たとえ一玉のキャベツでも、お金に換算できないそれ以上の有難みは確かにある。
野菜が高騰してる今だからこそ、その事はなおさら感じられる。
ではその「お金の価値」とは何なのかと言えば、これがなかなか難しい。

「お金」とは人間が作ったものであるが、しかし「お金」が何であるかは専門家でも難しい問題であるらしい。
それは言葉とは何か?という問題と同じで、人間はそれが何であるかを知らずして使いこなす事ができる。
人々は言葉もお金も自在に使いこなしていながら、それが何であるかを説明できないでいる。

しかし少なくともアーティストであれば、作品と言葉、そして作品とお金についての新たな関係を創造しなければ、これからの時代を生きてゆく事はできないだろう。
アーティストは創造者であり、お金と作品とも関係も「こうあるべき」と固定するのではなく、関係そのものをアートのように創造すべきなのだと言える。

アーティストが創造する人であるならば、アーティストとして何を創造すべきか?という事自体も創造すべきなのかもしれない。
そのような枠組みの中で「アートとお金」の関係を考察する事には意味があるだろう。
つまりアートを作る事は、お金を含むアートを支えるあらゆる関係を作りあげる事と同意なのである。

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2013年2月 1日 (金)

130131「ひも宇宙」

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