才能とアーティスト
アートに向かない人間が、その欠落感によりアートへと向かう。
才能のある若者は、自己満足に向かいアートにはそっぽを向くのである。
だからアーティストは、自分にできない事、向かない事、才能の無い事に向き合う必要がある。
才能は才能が無い状態から生じるのであり、それこそが新しい才能だと言えるのである。
新たな才能とは、才能が無い事への苦しみと絶望から生じる。
才能に満ち溢れた満足感からは、新しい才能は生じにくい。
これは才能が無い者の僻みかと自分でも思ったが、実際の例を見ると結構当てはまるのだ。
若者の多くは特有の優れた才能を示すが、それは世阿弥が『風姿花伝』で「時の花」と呼んだように、パッと咲いたと思うとやがて散ってしまうのである。
そしてぼく自身は、この「時の花」が咲かずに学生時代は随分と思い悩んでいたのだった。
中学から高校にかけてぼくは同級生の田中くんの才能に激しく嫉妬していた。
田中くんは絵が上手くて頭も良く、ニーチェから影響を受け独自の「大衆論」を展開していた。
だが彼は社会に適応できず、定時制高校を入学直後に退学し自宅に引きこもっていたところ、親によって精神病院に入れられてしまった。
田中くんは精神的には何ら異常があるとは思えなかったが、その当時は「引きこもり」や「ニート」と言った概念もなく、親による厄介払いで精神病院に強制入院させられたのだった。
そして田中くんも、精神病院はいやだと思う一方で社会に出るのが怖く、ぼくの呼びかけに応じて退院することはなかったのだった。
天才の田中くんは精神病院に入れられ、凡才のぼくは芸大に行けず、ほどほどのレベルの東京造形大学に入学したのだった。
しかし結局のところ、造形大の同級生の多くは自分よりも才能に溢れ、ここでも嫉妬に苦しみ、何もできない自分に苦しむことになった。
美大卒業後、ぼくは玩具メーカー「ヨネザワ」の商品企画部に入社するが、その同期の同僚も皆センスがあり自分より才能があるように思われた。
そしてぼく自身は何も企画できないまま、一年あまりで会社を辞めてしまった。
しかし振り返ると、あんなにも才能に溢れた友人たちは、皆消えてしまった。
いや、消えたと言っても死んだわけではないだろうが、才能に溢れた友人たちのうち、アーティストとして名を聞く人は誰もいない。
美大の同級生のうち、一番才能があってぼくが嫉妬していた井本くんは、数年前に会ったら全く「普通の人」になっていて驚いた。
まさに彼の才能こそが「時の花」だったのだ。
この辺りの事は以前も書いたのだが、アーティストとしての自分は「才能が無い事」を前提にスタートしている。
だから才能が無いところに新たな才能が生じ、才能のあるところからそれ以上のものは生じ得ないと、身に染みて思うのだった。
そしてまた、最近のぼくは作品制作に行き詰まりを感じている。
行き詰まりを感じているのは、今のぼくには才能があって、だからそれ以上のものが生み出せないからだ、と考える事ができる。
才能が無いところから新たな才能が生じ、そして今は才能がある状態に安住し、それ故に行き詰まっている。
行き詰まっているということは、つまりは才能が無いということであり、自分はそのような才能の無さに改めて向き合わなければならない。
なまじ、自分はものづくりの人間だと思うから、ものが作れなくなる。
しかしかつてを忠実に振り返れば、そもそも自分はものを作るのが苦手なのである。
ぼくは「フォトモ」を作り、それ以外にも写真家という肩書き以上に多彩な作品展開をし、カメラ改造の連載記事を書き、ずいぶん器用だと自分でも錯覚しているが、それらは皆「出来ない」事から出発していたのだった。
そして事実、自分は今でもあらゆる事が苦手で出来ないでいるタイプの人間なのだ。
「才能が無い」という自分の原点に立ち返って考えると、例えばぼくには金儲けの才能が無いと言える。
アーティストが新たなものを生み出す人間であり、作品のみならず、作品をお金に変える手立ても新たに創造するのがアーティストの仕事なのだとすれば、ぼくは明らかにアーティストには向いていない。
アーティストとは生き方であり、自分の生き方を創造するのがアーティストであり、自らの作品制作を支える経済基盤をも含めて創造するのがアーティストならば、ぼくにはアーティストの適性がなく、才能がなく、全くもって向いていない。
だからこそ、その地点からアーティストになるべく向かう事ができるはずだ。
もし、金儲けの才覚があれば、その人はアーティストにはならないし、なる必要もないだろう。
あるいは、金儲けの才覚がるアーティストは「あいつは商売人でアーティストではない」などと陰口を叩かれる。
しかしだからこそ、アーティストは「アートとお金」の関係を、それぞれ独自の仕方で創造しなければない
自分はものづくりが得意だと思えば、才能に満足しそれ以上のものが生み出せなくなる。
しかし苦手てあると認識すれば、ではどうやれば新たなものが作れるのか?という方向に頭が働く。
だが、自分には金儲けの才能がなく、金儲けと自分は無関係だともうと、やっぱり頭が働かなくなる。
要は欲望の持ち方なのだが、自分は作品だけを作りたいのか?それともアーティストでありたいのか?その違いだと言えるだろう。
つまり作品だけを作り、作品を売らず、生活基盤をバイトなので支えるのであれば、それは生き方としては趣味人に過ぎない、と見る事もできる。
もし自分がアーティストでありたいなら、その欲望は作品制作のみならず「アーティストであり続ける事」全般に向かってしかるべきなのである。
だからそれには、アートとお金の関係についての欲望も含まれるのである。
自分は純粋にアートを追求し、お金の事なんか考えたくない、と思うなら、それはアーティストではなく甘ちゃんのアマチュアでしかない。
というわけで以上、自分が未だ出来ない事について、みなさんに向けて語ってみたのでした(笑)
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コメント
糸崎公朗さん、こんにちは。
2年前、フォトモのワークショップでお世話になりましたマンガ家のみぎわパンともうします。
ツイッターでもご一緒させていただきました。
お金と作品の関係は、大きな制作をされるアーチストにとっては、なおさらでしょうね。
私は昔、原稿料の出ない雑誌に描いていた事があるので、お小遣いを少しでも稼げるように商業誌用の絵を研究してました。
それで少し解りましたが、絵がその雑誌のイメージから外れ過ぎない事は大切ですが、それ以上に締め切りを守る、連絡を入れるなど信頼関係が重要なのだと、遅いですが30歳の頃に気がつきました。
創るというのは何も物質的に作る事ばかりでなく、使いこなしたり関わったりコントロールできるかどうか(?)も、きっと創造なのですね。
投稿: migiwapan | 2013年2月 8日 (金) 01時22分
コメントありがとうございます。
twitterにも書きましたが、作品をお金に換えることとは、人間関係を作ることでもあるのですね。
お金とは何か?は難しい問題ですが、一つにそれは人間関係だと言うことができます。
お金にならない作品は孤独な作品で、純粋に名を借りた自己満足と言えるかも知れません。
誰にも理解されない孤高の作品とは、後に時代に評価され新たな人間関係を作ります。
それと、自閉的な精神が生み出した作品は根本が違うはずですが、峻別は難しいですね。
>それ以上に締め切りを守る、連絡を入れるなど信頼関係が重要なのだと、
結局こうしたことも人間関係で、ぼく自身もこれを蔑ろにしたり、蔑ろにされて腹を立てたりしてきたのです。
投稿: 糸崎 | 2013年2月 8日 (金) 12時12分