« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013年4月

2013年4月25日 (木)

認識と主張

他人の苦しみを全く理解しようとせず、そもそも自分以外の人間がなぜ存在するのかが決定的に理解できない人間が存在する。

自然が好きな人の何割かは、実のところ人間関係から逃げている。

というふうに、何事も決めつけると嘘になる。

思い込みの強い人は思い込みが強いが故に自らの思い込みの強さを自覚出来ない。

優秀な人は「ダメな自分」と日々戦い、ダメな人は「ダメな自分」と連んでいる。

遅ればせながらわかってきたのだが、芸術とは主義主張ではなかった。
印象派とか、立体派とか、超現実主義とか、主義主張をするのが芸術かと思い込んでいたのだが、どうやらそれは勘違いらしい。
それらが何であったかはともかく、少なくともぼく自身が「非人称芸術」を主張するのはやり方が間違っていた

主義を立てるとその範囲でしかものを見なくなり視野が狭まる。
従って自分とは異なる他者を知ろうとすることもなくなり、一方的に主張するだけになり、必然的にそれは誰にも受け入れられることがない。
自分の主義主張を虚しいものと見てこれを断念すれば、そこから他者に対する認識が始まる。

芸術が主義主張でないのは、例えば哲学が主義主張でないのを見ればわかる。
ソクラテスは主義主張のために死を選んだのではなく「無知の知」を唱えた。
初期仏典においてもブッダは互いが異なる見解を主張あうことの無意味さを唱えている。

哲学の基本が「無知の知」だとすれば、芸術の基本は「芸術についての無知の知」だと言えるかもしれない。
哲学について決めつけや主張や知ったかぶりが無意味であるように、「芸術とは○○である」という決めつけや主張や知ったかぶりは無意味であると知らなければならない。

何事も知れば知るほど「自分がいかに知っていないか」が知れてくる。
しかし例えば芸術に関して独自の主義を建て主張しようとする人は、芸術の認識を何処かで終わらせようと望んでおり、認識を終えたところから自分独自の主義主張が始まると思いなしている。

「無知の知」を追い続ける人と、認識を終えたところから自分独自の主張が始まると思いなしている人がいる。
認識の際限の無さを知る人と、主義主張のために認識を終えようとする人とがいる。

際限の無い認識を続けることで常に自分を作り続ける人と、認識を終えることで自分を作り終えようとする人がいる。
認識を終えることで自分が完成し、あらゆる事柄について「これは○○である」と自分独自の見解を示すことができる、と信じている人は実に多い。

認識と消費とは異なっており、認識を終えたところから消費が始まる。
認識とは別の角度からの認識の比較に他ならず、従って自分主義主張に固執する人は認識しない。

自分の地図を完成させた人は自分の知らない道で迷い、立ち往生する。
認識を終え、自分の智慧を完成させた人は、自分の知らない道を避けて通る限り迷うことが無い。
認識を終えず智慧を完成を終えない人は、知らない道に入ってもその先の道筋を見つけることができる。

賢者が「私は何も知ってない」と真実を告白すると、世間の人はそれを文字通り受け取り蔑む。
これを見て社会的成功を望む者は、知ったかぶりをして世間の人が望む通りにこれを欺く。

大切な「自分」を保持する人は認識の扉を閉ざし鍵をかけている。
外部認識すると壊れてしまうような「自分」を大切に守っている人々がいる。

同調バイアスに生きる人と、主義主張に生きる人と、認識に生きる人とがいる。
「同調バイアスに生きる人」と「主義主張に生きる人」は共に自分の事しか考えず、「認識に生きる人」だけが他者の事を思う。

| | コメント (0)

2013年4月21日 (日)

糸崎公朗写真展『盆栽ツギラマ Before and After』

こちらのブログでのお知らせが遅くなって大変申し訳ありません。
個展が始まってますのでお知らせします。

S_36

S_37

糸崎公朗写真展『盆栽ツギラマ Before and After』

会場:ストアフロント
東京都台東区池之端2-1-45 パシフィックパレス池之端103(1階ロビー奥)
http://www.storefront-art.com/
info@storefront-art.com
03-3824-1944

会期:2013年4月20日(土)~2013年5月5日(日)
時間:12時~18時30分
休廊:4月23日(火)、4月24日(水)、4月30日(火)、5月1日(水)
レセプション:4月20日(土)17:30〜20:00

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

昨年の2012年10月にさいたま市大宮盆栽美術館で開催した『糸崎公朗作品展 盆栽×写真Vol.2』で発表した「盆栽ツギラマ」と、さらにそれを発展させた新作を加えた個展を開催します。
被写体はすべてさいたま市大宮盆栽美術館に所蔵された盆栽で、細部をマクロ的に分割撮影した「ツギラマ」の手法で表現されています。
長い年月を掛けて「芸術作品」としてしつらえられた盆栽ですが、春の芽吹きや開花の時期を狙って、生物としての表出も併せて捉える表現を試みました。

会場のストアフロントはアート系ブックショップも兼ねたギャラリーです。
上野公園の不忍池のすぐそばですので、ゴールデンウィークの行楽も兼ねて気軽にお立ち寄りいただければと思います。
ちょっと場所が分かりづらいですが、インド料理屋さんのあるマンションの、入り口を入って奥突き当たり手前右です。

33_2

 

| | コメント (0)

2013年4月20日 (土)

顔と顔つき

自分の顔が変えられないように、自分の欠点を変えることはできない。
と覚悟しなければ、自分の欠点を変えることはできない。
自分の顔は変えられないが、精神が変われば顔つきは変わる。
目の形は変えられないが、精神が変われば目つきが変わる。
同じように、自分の欠点は変えられないが、精神が変われば欠点の現れ方が変わる。   

マルティンブーバーの『我と汝』再読したが、「われーそれ」の対義語によって、他者を見下す「われ」とは、結局のところ自分が見下すところの「それ」なのである。
みんなが他人のことを考えてるのに、自分だけが自分のことを考えている。
知識としての地動説は認めても「それでも世界は自分を中心に回っている」と感覚的に思っている人は実に多い。

言葉か通じても話が通じない。
話が通じても心が通じない。
重要なのは、相手にとって、自分まさにそんな相手だと思われている可能性を考慮すること。

手負いの犬のように頑な人は、せっかくの他人の好意を無にする。

自分のレベルの低さを認めるのがステップアップの第一歩だが、多くの人はそれをやろうとしない。

自分も含め、多くの日本人は実は日本語をちゃんと使えていない。
日本語は、今の日本人が使うにはちょっと難しすぎるのかもしれない。

| | コメント (0)

2013年4月17日 (水)

内容と形式

内容から形式へ!

実行に内容は関係なく、形式だけが実行に関係する。

| | コメント (0)

2013年4月16日 (火)

単調さと固執

●我々は、単調さと鈍感さに脅かされている、とはファイアーベントの言葉である。
自分の中の、多様性が失われている。
自分を分裂し、拡張し、多様性を回復すること…
多様性は豊かさに繋がる。
多様性のある自然が豊かであるように、多様性のある文化は豊かであり、多様性のある個人もまた豊かである。
自分自身を多様化させればストレスを受けにくくなる。
単純な人間はストレスを受けやすく、鈍感になることでストレスを回避する。

●自分の主張は誰も興味を持たず、何を言っても聞く耳を持たれず、何を書いても読まれることは無い。
主張には意味がなく、他人の目を惹かず、喜びや満足を与えることはない。

●人間はお互いに真似し合っているだけであり、何と何と何を真似るかという組み合わせだけが、各自異なっているだけである。

●自分がコントロールできる範囲外の「現実」がストレスの要因であるなら、その「現実」を自分の内部に取り込むことでストレスを減らすことが出来る。
例えば他者と衝突した時、自分自身が「他者 = 現実」になり切ることでストレスを減らすことができる。
他者を自分の内部に取り込むことで、他者を支配しコントロールすることができる。
反対に、他者を排除しあくまで「自分」を保とうとする人は、実のところ他者の支配権、コントロール権を手放している。

●とても退屈な世界に、退屈なはずの世界に、なぜ逃げ込むのか?

●他者に接する態度の一つが、固執。
自分やり方は正しいのだから、それを変える必要はなく、聞く耳を持つ必要も無い。
現在の自分に固執し続け、他者の手の届かない自分の奥深くへと逃げ込む。
固執する人は、何でも自分がすでに知っていることに置き換えて説明し、理解しようとする。
自分のやり方に固執する独断主義に対する日和見主義者は、常に情報収集している。

●日和見とは情報の収集であり、日和見主義者には情報収集は欠かせない。

| | コメント (0)

2013年4月15日 (月)

存在と根拠

我(良いと)思う故に我あり、と言う考えは完全に間違いだと言える。

我(気持ち良いと)思う故に我あり、と感じる気持ちは幻想に過ぎない。

デカルト自身が「自分の感覚を基準にするのは間違っている」と書いているのだから「我思う故に我あり」は間違っている。

| | コメント (0)

2013年4月13日 (土)

欲望とシェア

●欲望は「自分の欲望」としてクローズするのではなく、他人と欲望をシェアすること。
「自分の欲望」とはそもそも「他人の欲望」のコピーなのだから、自分の欲望は「自分の欲望」としてクローズ = 独占することなく、他人とシェア = 共有すべきものだと言える。
あるいは「自分の感情」を自分でクローズせず、感情を他人とシェアすること。
感情を自分でクローズすると、自分は自分の感情に支配される。
あらゆる「他人の感情」は、それぞれが固有のもので、自分には分かりようがない。
同じように「自分の感情」は自分だけの固有のものであり、他人には伝わりようがない。
だからこそ「自分の感情」を自分でクローズドするのではなく「他人の感情」を「自分の感情」としてシェアすべきなのである。
「自分の感情」を自分でクローズ(囲い込み)すると、「自分の感情」は絶対化されて、もはや当たり前のものとして自分の認識からは消え去る。
しかし「他人の感情」を「自分の感情」としてシェア(共有)すれば、「自分の感情」は「他人の感情」と比較され、対象化される。
絶対化した感情は人を支配し、人は絶対化した感情によってコントロールされ、振り回される。

●ストレスが高くなるのは、「自分」のコントロールの外にある「自分の外部」と接しているからである。
逆に自分のコントロールの及ぶ「自分の内部」に自分自身が潜り込むほどに、ストレスは無くなる。

●あらゆる他人にとって自分は脇役でしかなく、あらゆる他人と接する時は常に自分が脇役であることをわきまえる必要がある。
主人公より脇役は目立ってはならず、だからあらゆる目立つ脇役は、他人に疎んじられる。

●言葉では何を書いても嘘になるし、だから言葉は全く無力なのであり、嘘を前提にして言葉を使うしか無い。
何もかもが言葉にした途端ウソになるのであり、だから分かりやすく語られた言葉の全てがウソであり、他人を騙すことを目的に語ると何もかもが分かりやすく語られる。
機能主義的な言説は方便であり、従って口から出任せのデタラメに過ぎない。
口らで任せの言葉に従って行動し、フィードバックを重ねるのみ。

●言語には認識による創造と、強弁による創造との、二つの側面がある。

| | コメント (0)

2013年4月12日 (金)

感情と抹殺

感情を殺すとは、感情を押し殺して我慢することでは無く、文字通り自分の感情を抹殺して無にする事。
つまり、自分の感情には意味が無く、他人の感情だけが意味を持つ。

元より、自分の感情そのものが自分のコントロールの外にあり、自分のものでは無いのである。
自分の感情は、自分ではコントロールできず、その意味で自分のものではない。
だから自分の感情に振り回されるより、そのような感情は抹殺し、他人の感情に身を委ねる方が良い、という考えもあるかも知れない。

自分の感情は自分を振り回し、自分は自分の感情に振り回される。
自分の感情は自分のコントロール外にあり、自分は自分の感情のコントロール下にある。

自分から自分の感情を切り離し、これを抹殺する事で、自分の感情からのコントロールを逃れる事ができる。
自分の怒りの感情を抹殺し他人の怒りの感情によって怒り、自分の悲しみの感情を抹殺し他人の悲しみの感情によって悲しみ、自分の喜びの感情を抹殺し他人の喜びの感情によって喜ぶ事。

自分の感情に支配されるか、他人の感情に支配されるか、二つに一つしか無いのだとすれば、前者を殺し後者に従うと言う道がある。
自分の喜びではなく他人の喜びに生き、自分の悲しみに生きるのではなく他人の悲しみに生き、自分の怒りではなく他人の怒りに生きる。

自分の感情を抹殺し、他人の感情に生きる人は、他人が傷つくことによって自分も傷つくが、自分が他人から直接傷つけられることがない。

| | コメント (0)

2013年4月 9日 (火)

意味と強弁

自分は正直なところ、世界は充実し、人生には意味があり、しかしそれに応えるだけの能力が絶望的に不足している、と思いなしている。
だが冷静に考えると、その認識は間違っているかも知れない。

思い返すと以前の自分は自己の能力に満足した万能間に満ちていて、その状態はつまり、自分には能力があることを強弁していたに過ぎない。
強弁は自分の無能を覆い隠し、万能間による充実をもたらす。

ということの類推で考えると「世界は充実し人生には意味がある」と今の自分が思いなしていることも、強弁の可能性がある。
何故なら無前提にそう思いなしているだけであり、実際には世界は虚しく人生にはなんの意味も無く、それを強弁によって覆い隠している可能性がある。

強弁による虚偽であっても幸せならいいという考えもあるだろうが、自分はそう指摘されると、たとえ自分が自分に騙されているのだとしても、騙されるのは嫌だと思ってしまう。

| | コメント (0)

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »