認識と主張
他人の苦しみを全く理解しようとせず、そもそも自分以外の人間がなぜ存在するのかが決定的に理解できない人間が存在する。
自然が好きな人の何割かは、実のところ人間関係から逃げている。
というふうに、何事も決めつけると嘘になる。
思い込みの強い人は思い込みが強いが故に自らの思い込みの強さを自覚出来ない。
優秀な人は「ダメな自分」と日々戦い、ダメな人は「ダメな自分」と連んでいる。
遅ればせながらわかってきたのだが、芸術とは主義主張ではなかった。
印象派とか、立体派とか、超現実主義とか、主義主張をするのが芸術かと思い込んでいたのだが、どうやらそれは勘違いらしい。
それらが何であったかはともかく、少なくともぼく自身が「非人称芸術」を主張するのはやり方が間違っていた
主義を立てるとその範囲でしかものを見なくなり視野が狭まる。
従って自分とは異なる他者を知ろうとすることもなくなり、一方的に主張するだけになり、必然的にそれは誰にも受け入れられることがない。
自分の主義主張を虚しいものと見てこれを断念すれば、そこから他者に対する認識が始まる。
芸術が主義主張でないのは、例えば哲学が主義主張でないのを見ればわかる。
ソクラテスは主義主張のために死を選んだのではなく「無知の知」を唱えた。
初期仏典においてもブッダは互いが異なる見解を主張あうことの無意味さを唱えている。
哲学の基本が「無知の知」だとすれば、芸術の基本は「芸術についての無知の知」だと言えるかもしれない。
哲学について決めつけや主張や知ったかぶりが無意味であるように、「芸術とは○○である」という決めつけや主張や知ったかぶりは無意味であると知らなければならない。
何事も知れば知るほど「自分がいかに知っていないか」が知れてくる。
しかし例えば芸術に関して独自の主義を建て主張しようとする人は、芸術の認識を何処かで終わらせようと望んでおり、認識を終えたところから自分独自の主義主張が始まると思いなしている。
「無知の知」を追い続ける人と、認識を終えたところから自分独自の主張が始まると思いなしている人がいる。
認識の際限の無さを知る人と、主義主張のために認識を終えようとする人とがいる。
際限の無い認識を続けることで常に自分を作り続ける人と、認識を終えることで自分を作り終えようとする人がいる。
認識を終えることで自分が完成し、あらゆる事柄について「これは○○である」と自分独自の見解を示すことができる、と信じている人は実に多い。
認識と消費とは異なっており、認識を終えたところから消費が始まる。
認識とは別の角度からの認識の比較に他ならず、従って自分主義主張に固執する人は認識しない。
自分の地図を完成させた人は自分の知らない道で迷い、立ち往生する。
認識を終え、自分の智慧を完成させた人は、自分の知らない道を避けて通る限り迷うことが無い。
認識を終えず智慧を完成を終えない人は、知らない道に入ってもその先の道筋を見つけることができる。
賢者が「私は何も知ってない」と真実を告白すると、世間の人はそれを文字通り受け取り蔑む。
これを見て社会的成功を望む者は、知ったかぶりをして世間の人が望む通りにこれを欺く。
大切な「自分」を保持する人は認識の扉を閉ざし鍵をかけている。
外部認識すると壊れてしまうような「自分」を大切に守っている人々がいる。
同調バイアスに生きる人と、主義主張に生きる人と、認識に生きる人とがいる。
「同調バイアスに生きる人」と「主義主張に生きる人」は共に自分の事しか考えず、「認識に生きる人」だけが他者の事を思う。
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