信仰という籠
信仰という籠に閉じ込められた人は、籠の扉が開いても外に逃げようとせず、籠が取り去られてもその場に居着いている。
ストレスに満ちた大空を自由に飛び回る人と、ストレスがなく安全な籠の中を自由に飛び回る人がいる。
書いたことは書いた先から忘れるので何度も読み返すこと。
書いたことは実現しないから何度でも読み返すこと。
信仰という籠に閉じ込められた人は、籠の扉が開いても外に逃げようとせず、籠が取り去られてもその場に居着いている。
ストレスに満ちた大空を自由に飛び回る人と、ストレスがなく安全な籠の中を自由に飛び回る人がいる。
書いたことは書いた先から忘れるので何度も読み返すこと。
書いたことは実現しないから何度でも読み返すこと。
他人の気持ちが理解できない人、他人の痛みを自分の痛みとしてリアルに受け止められない人がいる。
そう言う人は、相手が何を訴えようと「対症療法的な生返事」を繰り返すしか術かなく、それによって相手をますます怒らせる。
万能感に満ちた人は「自分の力の及ばない範囲」を認識しないよう、目を逸らし続ける。
自分を知ることは、自分の力の及ばない範囲を認識することでもある。
自分の力の及ばない範囲は、これは他人の領域であるから、尊重しなければならない。
万能感に支配された人は、これと逆のことを行う。
他人の気持ちを尊重せずその痛みを理解できない人は、その報いをある時まとめて受ける事になる。
しかしその人にはそれが自分の行いに対する報いである事自体、理解する事ができない。
もしその人が本当に悔い改めるべきだと考えるらなば、報いはすべて当然の事として受け入れなければならない。
他人に「泥棒」だと言われたら、自分にそのつもりがなくともこれを認めるべきである。
この例えは大げさだとしても、自分自身の悪行や欠点について、他人の方がより多くを知っている。
あらゆる苦難を他人のせいにするか、自分のせいだとして引き受けるか、これにより世界の見え方も、人生観も大きく変わる。
唯女子と小人とは養い難しとなす。これを近づければ則ち不遜なり。これを遠ざくれば則ち恨む(論語)
万能感に満ちた人は、相手と自分のとレベルの差を認めず、結果として最下層に落ちて行く。
言葉は行動の一部であり、行動は言葉の一部だと考える事ができる。
だから立派な言葉を並べても行動が伴わない人はその人格が疑われ、黙って行動する人は尊敬を集める。
行動する人の言葉だけが生きており、行動しない人の言葉は幽霊のように死んでいる。
有言実行と不言実行だけが、言葉としての意味を持つ。
「やります」といえば安心して何もやらなくなるし、「やります」と言わなければ何をやるのかを忘れてしまう。
例えどれだけの困難があろうとも、人類史を見れば実に様々な人々が自分以上に困難な状況に直面してきたのであり、そう考えれば何が起きても何でも無いのである。
視覚を意識し、見えないことを意識しなければ、多くのものを見落とす。
視覚は死角。視覚は視覚と共にある。死角を忘れこれを意識しなければ、視覚もまた失われる。
相手を傷付けて反撃されると「自分が相手を傷付けた」と言う意識もなく、「相手が突然怒り出して一方的に攻撃された」と思い込む人がいる。
自分が加害者であることを忘れ、反撃した相手を加害者に仕立て上げ、被害者面する人がいる。
自分の足元は見えないが、他人の足元はよく見える。
しかしそれも錯覚であって、自分の足元から目を背け、他人の足元ばかり見る人は、お節介に走り疎んじられる。
現実に即さない、偽の問題解決方法がある。
偽の問題解決方法は、偽の感情をもたらすためにある。
子供の頃の経験に閉じ込められている人は、目の前の現実から遊離して、偽の感情、偽の問題解決方法に囚われる。
ハングリー精神と飢餓感は異なる。
ハングリー精神のある人は、満足によって退屈することを恐れ、安寧の中で生きながら死ぬことを恐れる。
飢餓感を抱えた人は親の「条件付きの愛情」によって育てられ、常に飢餓状態であるよう条件づけられている。
子供から大人へと生まれ変わることのない、水子の霊のような人達がいる。
野蛮な子供から文明人としての大人へと生まれ変わることがない、水子の霊のような人達がいる。
水子の霊のような人達は、子供の心のまま大人の世界をさまよう。
自分の原点を否定しては生まれ変わることはできないが、原点に立脚して新しく生まれ変わることはできる。
同調バイアスは他人からかけられるだけでなく、自分で自分にもかけている。
世の中なんでもスピードアップしてるのだから、自分のペースを守っている人は引き裂かれる。
臆病な人は、誰にも邪魔されないように、自分だけの場所を作ろうとする。
相手はあなたに反省ではなく成果を求めていることに気づかなければならない。
他人の心が分からない人に、芸術は分からない。
芸術が分かってるつもりの人に芸術は分からない。
知ってるつもりの人はそれ以上何も知り得ず、分かってるつもりの人はそれ以上何も分かり得ない。
客観的にどう見ても落ち込んでいる本人がふとそれに気がつくから落ちこむ。
れぞれ一点だけがしっかりとまともで、総合力に欠ける人達がいる。
それぞれに異なる部分がまともな人達と、総合的にまともな人達とがいる。
問題に答えは存在しない。それがあるのは高校の勉強まで。
答えのある問題以外から目を背ける人がいる。
器の大きな人は、他人のために自分のスペースを空けている。
自分の中に自分がいっぱい詰まっている人と、自分の中に他人を入れるスペースを空けている人がいる。
絶望していない人は、自分の絶望から目を逸らしてるに過ぎない。
他人の拒絶を恐れている人は、他人を頑なに拒絶している。
他人に興味がない人に芸術は理解できない。
「自分の好きなもの」が好きな人は芸術を理解することはできない。
他人に興味がない人は、他人からの拒絶を恐れている。
大人になっても子供のままでいる人は、子供の好奇心が死んでいる。
幼い頃、愛情豊かに育ってない人の多くは、大人になって安定した対人関係を持つのは難しい。
こう言う人は、そもそも自分が相性不足で育ったこと自体を意識していない。
他人と交流しないから、他人と比較することで自分の状況を客観視することが出来ないのだ。
自分で自分を騙せば、その自信に満ちた振る舞いによって他人は騙される。
しかし騙しは所詮本物ではなく、やがて自分に裏切られ、さらに自分が騙し続けていた他人から報復される。
実力は「現実」だが、万能感はファンタジーでしかない。
その人の実力とは、その人の持つ人間関係であり、人間関係こそが現実だと言える。
それに対しファンタジーは頭の中だけに存在し、現実の人間関係はことごとくないがしろにされ、何も構築されず、独り相撲の自己満足に終わる。
ファンタジーである万能感は、現実の人間関係を損ない、人間関係が損なわれると万能感はますます肥大する。
調子に乗って油断してる時が一番危ないのだが、そんな時だからこそ「調子に乗って油断してる」という意識は全くなく、失敗は必然となる。
人は生まれながらにして貴賎の違いなくみな平等なのだが、努力して尊くあろうとする人と、楽をして卑しくあろうとする人がいる。
この平等と差異とを、混同してはならない。
本来、臆病な人はアーティストには向かない。
自分だけを見て自分を取り巻く関係性を見ない人は、何を見てもその対象物だけを見て、それを取り巻く物事の関係性を見ようとしない。
ファンタジーの世界を生きる人には、他人に質問して現実を知ろうという発想がない。
「脱錯覚」について。
どんな生物にも価値があるように、どんな人間にも価値がある。
価値のある生物と無価値な生物の区別が本質的に無いように、価値のある人間と無価値な人間の区別は本質的に存在しない。
どんなに醜悪に思える生物であっても、それはその人の先入観に過ぎず、本来的にどんな生物にも尊い価値が等しくある。
どれだけ人に害を与える生物であっても、それは人間の勝手な都合に過ぎず、本来的にどんな生物にも尊い価値が等しくある。
条件付きでしか自分を愛さない両親を、無条件に愛することが親孝行。
子供のままの両親を、親の気持ちで愛するのが親孝行。
自分の欠点を治そうとする人は、欠点を持つ自分を嫌っているのであり、そういう人に自分の欠点を治すことはできない。
自分の意思をはっきり示さず、何も行動しない人は「そのうち誰かが何とかしてくれるだろう」という幼児的万能感を持っている。
そもそも自分の意思を示すためには意思そのものを創り上げる必要があり、そのようなクリエイティビティを発揮できない人は、すべてを他人任せにしてやり過ごす。
自分の事しか考えない人に対し「あなたは自分の事しか考えない」と怒っても無駄である。
他人の事を考えない人にはその発想がなく「自分の事しか考えない」という自覚もできないからである。
そんな場合「あなたは自分の事だけを考えればいい」と言う方が、まだ効果があるかもしれない。
自分の事しか考えない人は、その自覚がないままに自分の事だけを考えて周りに迷惑を与える。
だからそんな人に対し「あなたは自分の事だけを考えればいい」と言う事は、無自覚なその思いを対象化し、自覚するきっかけを与える事につながる。
「自分の事しか考えない」に無自覚である事と、「自分の事しか考えない」を自覚的に行おうとする事は異なる。
自ら意図して積極的に自分の事だけを考えて行動しようとすれば、やがてその行為がいかに愚かであるかが分かってくるかもしれない。
ダメな人に対し「ダメな自分を変えろ」と要求するのは無理な話しで、それよりも「ダメな自分になり切る」事を勧める方がいい。
ダメな人はダメな自分に自ら意図してなり切る事で、ダメな自分を対象化し、ダメな自分から乖離し始める。
自分のダメなところを他人に指摘され、それを治そうとするのは無駄であり、何度も同じ失敗を繰り返す事になる。
そうではなく、他人から指摘されたダメな自分に、自ら意思してなり切ろうとしなければならない。
どんな場合であっても他人に変われと要求するのは無意味であり、自分が変わるしかない。
しかし自分を変える事もまた不可能であり、だから他人に指摘された「ダメな自分」に自らなり切るしか無い。
無自覚にダメな自分から、より積極的に「ダメな自分」のままでいようとする自分に変わる事はできる。
人はどんな状況に遭遇しても誰とでも親密になれ新しい力を発揮する能力を備えている。
なぜなら人は誰でも存在価値があり、考える能力を持ち、自分の運命を自分で決め、またその決定を変える事ができるから。
これにより周囲や他人に責任転嫁せず、自分自身を柔軟に変えることで、難局を突破できる。
想像や概念ではなく、あくまで事実中心主義で、理性的、合理的に物事を処理し、現実を直視、それに即した判断を下す力が「現実検討能力」と呼ばれる。
逆に言えば、現実検討能力が弱い人は、自分勝手な想像や概念による決めつけを現実と取り違え、判断を誤る。
関係の認識には対象の分離が先立ち、関係が認識出来ない人は対象物を分離して認識することが出来ない。
万能感のある人は、人間関係が認識出来ず、つまり認識対象の分離が出来ない。
そのような人にとって様々な他者たちは分離不能の「一塊の他者」として認識され、それはさらに「一塊のファンタジー」として自分の内に融合される。
状況判断能力が低下して、ついには消失してしまった人が存在する。
あるいは、子供から大人になるに従って形成すべき状況判断能力を備えていない人間が存在する。
万能感は独我論と結び付いている。
自分が認識しなければ世界は存在せず、自分の存在が世界の存在を左右する。
人は五感によって世界を認識し、五感によって認識する以前の世界は、そもそも存在しないのと同じなのである。
万能感を持つ人はこのような独我論の世界に浸っている。
万能感を持つ人は、状況の変化に対応できない。
状況の変化は、他者によってもたらされる。
他者の都合で状況が変われば、それに応じて自分の都合も変えざるを得ない。
万能感を持つ人はそれが理解できず、いかに状況が変わろうとも、最初に設定した自分の都合を変える事なく、変化した状況との齟齬を生じる
あらゆる状況は、他者の都合によって刻々と変化する。
状況が変われば、はじめに設定した自分の都合も、それに応じて変化させなければならない。
他者の都合によって状況が変われば、はじめに設定した自分の都合は無効になる。
万能感を持つ人は、自分の都合を刻々と変化させるという発想を持たない。
万能感を持つ人は、状況の変化に対応しない事によって、状況そのものを支配しようとし、他者との間にトラブルを生じさせる。
状況の刻々と変化する様を捉え、それに応じて自分の都合を変化させなければ、自分の居場所がそこにはなくなるということを、万能感を持つ人は認識できない。
自分の想像や思い込みを超えて、他者は自分に反応し、それによって状況は自分の思惑を超えて変化する。
そのようにすっかり変化してしまった状況を、万能感を持つ人は全く認識せず、既に無効になってしまった過去の状況に対応するため、無駄な努力をして他人に迷惑をかけてしまう。
何でも自分一人で抱え込む人は、他人に何かしてもらうことに慣れていない。
何かしてもらってもお礼の一つも言えず、迷惑かけてもきちんと謝罪ができない。
それがわかってるから他者となるべく関わらず、どんなに非合理であっても全て一人で抱え込み、それこそがストイックなのだと自己満足に浸る。
自分の都合が悪いことを認識しないようにしてる人は、自分の都合をどんどん悪くする、という都合を認識しないようにしている。
仕事を依頼されることの意味が理解できない人がいる。
依頼された仕事を自分がミスした場合、そのミスをカバーする主体は自分ではなく、仕事を依頼した他者にある。
だから自分が犯したミスであっても、それをどうカバーするかの判断は、自分でするのではなく、依頼者に委ねなくてはならない。
会社組織は効率を優先するため、一人の社員の行動を他の社員全員がバックアップし、お互いがそのような関係で会社組織が成り立っているのだが、幼児的万能感を克服してこなかった人間は、そのこと自体が理解できず、独善的な行動により会社に不利益をもたらす。
問題は常に複数の原因の関係によって生じる。
だから問題を解決するには、複雑に絡み合った糸をほどくような心構えが必要になる。
問題を一つに絞り込む思考もまた万能感の現れに過ぎない。
●ゴールを決めて行動すべきだが、途中が大変すぎるとゴールが見えなくなり、大変な思いだけして何事もなさなくなる。
大変だと思う時こそ、ゴールを見据えて、実際にことをなす方法を考えなくてはならない。
●反省すれば変わることができる、と思うのは「万能感」の表れに過ぎない。
自分は何も知らないて生まれてくるから、教えてくれる人には敬意を持たなくてはならないのに、ある程度知識が身につくといつの間にかその前提を忘れてしまい、自閉して何も学ばなくなってしまう。
他者には常に自分には見えない物が見えており、自分の知らないことを知っているのが他者である。
だから常に自分は他者に教えられ、自分は他者に教える関係にある。
他者には自分が見落としている「自分の良いところ」が見えていて、それに期待しているのだけれど、そんな他者の期待に応えられないこと自体が、その人の欠点となる。
赤ん坊の欲望は何でも母親が満たしてくれるが、赤ん坊にはそんな母親の存在が認識できず、全ては自分自身の魔法的能力によって叶えられていると勘違いしており、その感覚が大人になっても残留していると「万能感」として現れる。
赤ん坊は「母親と自分との関係」を認識することが出来ない。
だから万能感の問題は、人間関係の認識の欠如の問題でもある。
自分を取り巻く人間関係の認識にロックをかけると、「魔法のような自分の能力」によって全てが叶えられるという「万能感」が立ち現れる。
そして母親にだかれる赤ん坊と同様、ストレスのない安寧に浸ることができる
自分自身の変化や成長は実に難しい問題である。
例えば人類の進化を見ても、原始時代人と現代文明人の精神は別物と言ってもいいほど違っているはずだが、しかし少なくとも生物学的には同じ人間なのである。
また源氏物語絵巻に書かれた文字を現代日本人が読むのは難しいが、かな文字であることに違いはない。
例えば江戸時代の浮世絵の文字が現代人に容易に読めないほど日本語は変化し、ネイティブな東北弁がそれ以外の日本人に容易に聞き取れないくらい方言は多様だが、それでも日本語であることに変わりはなく、日本語がまるっきり異なる英語に変化するわけではなく、それは自分自身の変化にも当てはまる。
「正しい自分は変化する必要がなく、間違っている他人こそが変わるべきだ」と思うのは万能感の表れだが、「ダメな自分」が全くの別人に変われると思い込むのもまた万能感の表れである。
自分が変わると言っても日本人が「生まれついてのアメリカ人」に変わることは出来ず、自分の全てを否定し変えることは出来ない。
正常な日本人であれば、誰でも自分が日本人であることを受け入れ、日本人であることを否定し例えば「生まれながらのアメリカ人」になることを望むことはしない。
同じようにいくらダメな自分であっても、その全てを否定することは出来ず、あらゆる意味で自分が自分であることを受け入れなければ何も始まらない
万能感が肥大した人は、現実検討能力が低下する。
この場合の「現実」とは、自分が自分として成立するための人間関係であり、「様々な人たちのおかげで現在の自分が成立している」という現実が、肥大した万能感によって見落とされる。
他人を支配するのも万能感の表れだが、何でも他人の言いなりになりそれで良しと思い込むのも万能感の表れなのである。
「過去と他人は変わらない」という前提に立てば「自分の対応だけに問題がある」という冷静なチェックと再検討が必要なことが理解できる。
万能感が肥大した人は視点が固定されている。
あたかも三脚で固定された一台のカメラで映画を撮るようなもので、当人には面白くても他人にとっては退屈で無意味なものでしかない。
だから普通の映画は複数のカメラを切り替えながら撮影され、カメラが一台でも手持ちにより様々なアングルから撮影される。
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