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2013年5月20日 (月)

唯女子と小人とは養い難しとなす。

他人の気持ちが理解できない人、他人の痛みを自分の痛みとしてリアルに受け止められない人がいる。
そう言う人は、相手が何を訴えようと「対症療法的な生返事」を繰り返すしか術かなく、それによって相手をますます怒らせる。

万能感に満ちた人は「自分の力の及ばない範囲」を認識しないよう、目を逸らし続ける。

自分を知ることは、自分の力の及ばない範囲を認識することでもある。
自分の力の及ばない範囲は、これは他人の領域であるから、尊重しなければならない。
万能感に支配された人は、これと逆のことを行う。

他人の気持ちを尊重せずその痛みを理解できない人は、その報いをある時まとめて受ける事になる。
しかしその人にはそれが自分の行いに対する報いである事自体、理解する事ができない。
もしその人が本当に悔い改めるべきだと考えるらなば、報いはすべて当然の事として受け入れなければならない。

他人に「泥棒」だと言われたら、自分にそのつもりがなくともこれを認めるべきである。
この例えは大げさだとしても、自分自身の悪行や欠点について、他人の方がより多くを知っている。

あらゆる苦難を他人のせいにするか、自分のせいだとして引き受けるか、これにより世界の見え方も、人生観も大きく変わる。

唯女子と小人とは養い難しとなす。これを近づければ則ち不遜なり。これを遠ざくれば則ち恨む(論語)

万能感に満ちた人は、相手と自分のとレベルの差を認めず、結果として最下層に落ちて行く。

言葉は行動の一部であり、行動は言葉の一部だと考える事ができる。
だから立派な言葉を並べても行動が伴わない人はその人格が疑われ、黙って行動する人は尊敬を集める。
行動する人の言葉だけが生きており、行動しない人の言葉は幽霊のように死んでいる。

有言実行と不言実行だけが、言葉としての意味を持つ。

「やります」といえば安心して何もやらなくなるし、「やります」と言わなければ何をやるのかを忘れてしまう。

例えどれだけの困難があろうとも、人類史を見れば実に様々な人々が自分以上に困難な状況に直面してきたのであり、そう考えれば何が起きても何でも無いのである。

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コメント

他人の気持ちが理解できるだけでなく、
他人がこれからしようとしてる行いが予測できてしまう場合に、
KYを装わなくてはならなかったり、
定期的な記憶喪失がないと生きられないケースを考えました。

前日にどの個体の中に一緒に入ってみたのかが分かってしまう「他人の記憶を持ち出せるタイプ」の個体の主人格に対しては、
「何だこのドロボー!」と、
怒りたくなる気持ちも分からなくありません。

ですが
声を大にして言うと、精神の病を疑われてしまったりするのかなー・・

なんて考えました。

(・∀・)

投稿: (・∀・)? | 2013年7月28日 (日) 11時49分

コメントありがとうございます。
そういう設定で漫画を書くと面白いかもしれませんね。

投稿: いとさき | 2013年7月29日 (月) 05時27分

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