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2013年5月 1日 (水)

万能感と人間関係

●ゴールを決めて行動すべきだが、途中が大変すぎるとゴールが見えなくなり、大変な思いだけして何事もなさなくなる。
大変だと思う時こそ、ゴールを見据えて、実際にことをなす方法を考えなくてはならない。

●反省すれば変わることができる、と思うのは「万能感」の表れに過ぎない。

自分は何も知らないて生まれてくるから、教えてくれる人には敬意を持たなくてはならないのに、ある程度知識が身につくといつの間にかその前提を忘れてしまい、自閉して何も学ばなくなってしまう。

他者には常に自分には見えない物が見えており、自分の知らないことを知っているのが他者である。
だから常に自分は他者に教えられ、自分は他者に教える関係にある。

他者には自分が見落としている「自分の良いところ」が見えていて、それに期待しているのだけれど、そんな他者の期待に応えられないこと自体が、その人の欠点となる。

赤ん坊の欲望は何でも母親が満たしてくれるが、赤ん坊にはそんな母親の存在が認識できず、全ては自分自身の魔法的能力によって叶えられていると勘違いしており、その感覚が大人になっても残留していると「万能感」として現れる。

赤ん坊は「母親と自分との関係」を認識することが出来ない。
だから万能感の問題は、人間関係の認識の欠如の問題でもある。
自分を取り巻く人間関係の認識にロックをかけると、「魔法のような自分の能力」によって全てが叶えられるという「万能感」が立ち現れる。
そして母親にだかれる赤ん坊と同様、ストレスのない安寧に浸ることができる

自分自身の変化や成長は実に難しい問題である。
例えば人類の進化を見ても、原始時代人と現代文明人の精神は別物と言ってもいいほど違っているはずだが、しかし少なくとも生物学的には同じ人間なのである。
また源氏物語絵巻に書かれた文字を現代日本人が読むのは難しいが、かな文字であることに違いはない。

例えば江戸時代の浮世絵の文字が現代人に容易に読めないほど日本語は変化し、ネイティブな東北弁がそれ以外の日本人に容易に聞き取れないくらい方言は多様だが、それでも日本語であることに変わりはなく、日本語がまるっきり異なる英語に変化するわけではなく、それは自分自身の変化にも当てはまる。

「正しい自分は変化する必要がなく、間違っている他人こそが変わるべきだ」と思うのは万能感の表れだが、「ダメな自分」が全くの別人に変われると思い込むのもまた万能感の表れである。
自分が変わると言っても日本人が「生まれついてのアメリカ人」に変わることは出来ず、自分の全てを否定し変えることは出来ない。

正常な日本人であれば、誰でも自分が日本人であることを受け入れ、日本人であることを否定し例えば「生まれながらのアメリカ人」になることを望むことはしない。
同じようにいくらダメな自分であっても、その全てを否定することは出来ず、あらゆる意味で自分が自分であることを受け入れなければ何も始まらない

万能感が肥大した人は、現実検討能力が低下する。
この場合の「現実」とは、自分が自分として成立するための人間関係であり、「様々な人たちのおかげで現在の自分が成立している」という現実が、肥大した万能感によって見落とされる。

他人を支配するのも万能感の表れだが、何でも他人の言いなりになりそれで良しと思い込むのも万能感の表れなのである。

「過去と他人は変わらない」という前提に立てば「自分の対応だけに問題がある」という冷静なチェックと再検討が必要なことが理解できる。

万能感が肥大した人は視点が固定されている。
あたかも三脚で固定された一台のカメラで映画を撮るようなもので、当人には面白くても他人にとっては退屈で無意味なものでしかない。
だから普通の映画は複数のカメラを切り替えながら撮影され、カメラが一台でも手持ちにより様々なアングルから撮影される。

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