善をなすには勇気が必要であり、従って臆病者は悪人となる。
善をなすには勇気が必要であり、従って臆病な善人は存在しない。
善をなすには勇気が必要であり、は臆病に導かれて自動的に悪事を成す悪人となる。
臆病者は自律する勇気がなく、他人に寄りかかるかたちで悪事を成す。
主体性がない人間は臆病であり、勇気を持って善をなさず、恐怖に駆られて悪に流れる。
臆病者の臆病さは、より弱い立場の人間への皺寄せとなり、その悪行は、勇気を持って対抗しようとする善と対峙する。
自分の中の臆病者は、悪人となって自分の中の善人を虐げている。善人とは勇気ある人でもあるのだから、勇気を持って悪に対抗しなければならない。
多くの人が自ら善人でありたいがために、自分の中の臆病からくる悪意から目を逸らしている。そもそも自らの悪を直視できないことが、臆病の証でもあるのだ。
臆病者は自分の臆病さと向き合う勇気を持たず、自分が成した悪事に向き合う勇気もなく、自分が臆病者だとも、悪人だとも思っていない。
自分自身とさえきちんと向き合えない臆病者が、どうして他者とコミュニケーションできようか。
実際に臆病者同士では話が噛み合っていない。
自己愛以外の愛情を知らない人がいる。
そのような人は、例えば知を愛することを知らず、知を自己愛実現の道具として扱う。
善意が無償で施されるが故に、それを当てにする邪悪な人間が存在する。
北野武監督『その男凶暴につき』終盤のセリフに「どいつもこいつもキチガイだ」と言うのがあるが、映画に出てくるような暴力団関係者だけでなく、実のところ一般の善良に見える人たちの多くも同様にキチガイで、それは自分も例外ではなく、そのこと自体に戦慄する!
何もかもが見せ掛けでまともではない‼
多くの人が、この社会に特有の精神病に罹っているのであり、この社会そのものが、特有の精神病を病んでいる。
社会を病から救い出す方法はなく、個人が病を克服しようと意思するしか道はない。
何もかもが東電と同じなのであり「人を見たら東電と思え」と、鏡に向かって言う他はない。
臆病者ばかりのこの国では、みんなが「みんなの森」に隠れて責任逃れをしようとしている。
責任を取ることには勇気が必要であり、勇気さえあればいくらでも責任を取ることができる。
この場合の勇気とは死を恐れない勇気であり、どれだけ恐れてもいずれ死は免れ得ないのであり、臆病に死を恐れる必要はなく、いつでも死ぬ覚悟で責任を取れば良いだけなのである。
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