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2013年6月

2013年6月29日 (土)

主張と行き詰まり

量産された偽物の知識、により組み立てられた主張が存在する。

本物の知識は量産できず、だからこそ量産可能な偽物の知識が存在する。

同じ理屈によって、ファーストシンキングによるファーストアートが存在する。

ところで、何事かに行き詰まった時は、これまで自分が興味を持たなかったことに興味を持ち、これまで自分が拒絶していたものを受け容れることが、有効である。

そもそも行き詰まりの原因は、それらをしてこなかったことにある。

そしてあらゆる主張は、コミュニケーションを拒絶した、偽物の知識により組み立てられている。

その証拠に、主張する人はコミニュケーションを拒絶し、認識を拒絶する。

主張する人は、コミュニケーションも認識も必要とせず、本物の知識も必要としない。

だから主張する人は行き詰まるのであり、行き詰まりが繰り返しの主張となって現れる。

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2013年6月27日 (木)

分からないことと知らないこと

「分からない」と言うことを「知らない」と言い換えること。分からないことは永遠にわかり得ないが、知らないことは調べれば知ることができる。

「芸術が分からない」と思えば分からず仕舞いだが、「芸術を知らない」と思えば調べることはいくらでもある。

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2013年6月21日 (金)

鏡のトンネルと第一の鏡

他人の欠点やそれによる失敗を見つける方が、自分の欠点や失敗を認めるよりも簡単だし楽しい。

自分の欠点やいつもの失敗が認識できないのは、他人の欠点や失敗に目を奪われるからである。
他人の欠点や失敗には、自分の目を惹きつける効果があることを認めなくてはならない。

他者が自分を映し出す鏡だとすれば、自分に直接向けられた他者の意見は「第一の鏡」であり、これはストレスが高い。
ストレスを下げるには、鏡のトンネルのように、鏡としての他者を幾重にも反射させ、認識に間接生を持たせること。

例えば、他人から直接自分の欠点を指摘されることはストレスが高く受け入れることが難しい。これに対し、自分から見える他人の欠点は、間接的な認識であるが故にストレスが少ない。

自分に見える他人の欠点は「他人とは自分を映す鏡である」という意味において、自分の欠点の映しだが、鏡としての反射を幾重にも繰り返した間接的な認識なのでストレスが少ない。
これに対し、他人が直接指摘する自分の欠点は、それが「第一の鏡」として間接性が一面しかないのでストレスが高い。

判断や選択のエラーを突き止め理解する能力を高めるために、他人を利用すること。
しかし人はしばしば間違っていながら自信たっぷりで、他人の意見や反応をシャットダウンする。
自分の意見や判断に自信がある時こそ、これを疑い他人の反応を見て意見を求める必要がある。

判断や選択のエラーは常に誰かが何らかの形で指摘してくれるもので、それを修正するのは易しい。
しかし「自分にはエラーなど無い」と信じている人にとって他人の指摘は「信仰を揺るがす悪魔のささやき」なのであり、断固としてシャットダウンされる。

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2013年6月18日 (火)

一流性と思い付き

●一流とは抑制性であり、抑制することで一流のニュアンスが立ち現れる。

一流でないものはニュアンスが潰れて均質化し、エントロピーが増大している。

●引くべき時は潔く引き下がること。そのうち状況は変化するのであって、引き下がらなければその変化に飲み込まれてしまう。

自分が前に出る程に相手は引いてしまう。相手を惹きつけるためにも、自分が引かなければならない。

●多くの人が互いに「思いつき」を言いあっているだけであり、だからこそ自分は安易な「思いつき」が口をついて出ないよう、我慢する訓練が必要になる。

多くの人が互いに「思い付き」を言いながら状況をどんどん悪化させている。だからこそ自分では何も思わず、何も考えず、何も判断せず、何も決定しない訓練が必要になる。

下手に物事を考えないためには「考えること」と同等以上に、「自分で考えず自分で判断しないこと」を大切にしなければならない。

頭の良い人ほど「自分の考え」がいかにくだらないかをよく知っている。

頭の良い人ほど「自分の思い付き」がいかに無意味なのかを身に染みて知っている。

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2013年6月17日 (月)

観察と即断

初めて見るものに対し、時間を掛けて観察しながらそれがなんであるか認識する態度と、「興味が無い」「無関係」「嫌い」などと即断して認識する態度とがある。

人間は十分に観察し、調査し、慣れ親しんだものを好きになるが、その手間を省いたものに対しては無関心、無価値、嫌悪などの感情を向ける。

自分に分からないものは価値がなく、意味がなく、興味もなく、だから嫌いで、そのような判断は瞬時になされる。

自分が理解できないものを、無価値、無関心、嫌悪、のバリアーによって徹底して排除すれば、自分が理解できるもの、慣れ親しんだもの、好きなもの、だけで世界を構成する事ができる。

分からないものを「分からない」と判断の保留をつけることができずに、何でも既知のカテゴリーに押し込んで即断する人がいる。

日頃から状況をよく観察しながら、いざという時に即断する人と、日頃から何も観察せず、いざという時に熟考し手後れになる人とがいる。

日頃から何も観察せず、あらゆる事物について概念的に即断する人と、日頃からあらゆる物事を観察し、いざという時のみ即断する人がいる。

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2013年6月 6日 (木)

臆病な善人は存在しない

善をなすには勇気が必要であり、従って臆病者は悪人となる。

善をなすには勇気が必要であり、従って臆病な善人は存在しない。

善をなすには勇気が必要であり、は臆病に導かれて自動的に悪事を成す悪人となる。

臆病者は自律する勇気がなく、他人に寄りかかるかたちで悪事を成す。

主体性がない人間は臆病であり、勇気を持って善をなさず、恐怖に駆られて悪に流れる。

臆病者の臆病さは、より弱い立場の人間への皺寄せとなり、その悪行は、勇気を持って対抗しようとする善と対峙する。

自分の中の臆病者は、悪人となって自分の中の善人を虐げている。善人とは勇気ある人でもあるのだから、勇気を持って悪に対抗しなければならない。

多くの人が自ら善人でありたいがために、自分の中の臆病からくる悪意から目を逸らしている。そもそも自らの悪を直視できないことが、臆病の証でもあるのだ。

臆病者は自分の臆病さと向き合う勇気を持たず、自分が成した悪事に向き合う勇気もなく、自分が臆病者だとも、悪人だとも思っていない。

自分自身とさえきちんと向き合えない臆病者が、どうして他者とコミュニケーションできようか。
実際に臆病者同士では話が噛み合っていない。

自己愛以外の愛情を知らない人がいる。
そのような人は、例えば知を愛することを知らず、知を自己愛実現の道具として扱う。

善意が無償で施されるが故に、それを当てにする邪悪な人間が存在する。

北野武監督『その男凶暴につき』終盤のセリフに「どいつもこいつもキチガイだ」と言うのがあるが、映画に出てくるような暴力団関係者だけでなく、実のところ一般の善良に見える人たちの多くも同様にキチガイで、それは自分も例外ではなく、そのこと自体に戦慄する!
何もかもが見せ掛けでまともではない‼

多くの人が、この社会に特有の精神病に罹っているのであり、この社会そのものが、特有の精神病を病んでいる。
社会を病から救い出す方法はなく、個人が病を克服しようと意思するしか道はない。

何もかもが東電と同じなのであり「人を見たら東電と思え」と、鏡に向かって言う他はない。

臆病者ばかりのこの国では、みんなが「みんなの森」に隠れて責任逃れをしようとしている。

責任を取ることには勇気が必要であり、勇気さえあればいくらでも責任を取ることができる。
この場合の勇気とは死を恐れない勇気であり、どれだけ恐れてもいずれ死は免れ得ないのであり、臆病に死を恐れる必要はなく、いつでも死ぬ覚悟で責任を取れば良いだけなのである。

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2013年6月 3日 (月)

死んだ人のように何も持たずに生きる

何を手に入れたとしても、いずれは死んで全てを手放すことになるから虚しい。

たとえ輪廻転生して生まれ変わったとしても、また何かを手に入れた後に死んで全てを手放すことの繰り返しに過ぎず、空しいことに変わりはない。

この虚しさから解放されるためには、生きているうちから死んだ人のように、全てを捨て去って生きること。

死んだ人のように何も持たずに生きること。

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