しばらく毛沢東の『実践論』読みながら、抜き書きや思い付きを書きます。
●テキストの断片を抜き取りそれで他人を脅す人と、自分の断片的な経験にしがみつく人がいる。
●人類の生産活動が最も基本的な実践活動であり、他のすべての活動を決定する。
●人間は様々な生産活動に従事し、各自の生産様式を持っている。
人間関係は、生産活動の関係でもある。
●“階級社会では誰もが一定の階級において生活しており、どんな思想でも階級の烙印を押されていないものはない”と毛沢東は書いているが、一億総中流と言われた現代日本人の多くは階級をあまり意識しないようだが、そのこと自体、階級闘争に巻き込まれていることの表れで、つまり「庶民」であるよう仕向けられているように思える。
●ぼくが読みとったフロイト『機知』では、庶民から上流階級についての上昇の可能性が示唆されているように思えたが、現代日本人の多くにとってその道は隠されることによって閉ざされ、芸術の本質理解が取り上げられている。
これは他ならぬ自分の問題でもある。
●階級について理解せず、意識せず、自覚しないこと自体、そうするように「庶民」に対し仕向けられている。
しかし、これは上流階級、支配階級が一方的に庶民に仕向けているのではなく、庶民も自分が庶民のままでいることを強く望み、上流階級への上昇を強く拒む。
自己反省すると、そう思えてしまう。
●「階級闘争」という言葉を使うなら、少なくとも現代日本においては上流階級と庶民とが敵対しているのではなく、お互いが協調して階級差を形成してるように思える。
そして、異なる階級に移行しようとする者、階級差そのものを打ち破ろうとする者に対し、全力で闘争をし掛ける。
●自分の反省として書きますが、自分が好きな作品だけを愛する態度は、芸術の理解の拒絶であり、庶民が上流階級へと上昇することの拒絶であるように思える。
庶民は、芸術を理解することを拒絶するよう仕向けられていると同時に、自らも芸術の理解を拒絶することを望んでいる。
●芸術を理解したくないという気持ちにおいて、そう仕向けられていることと、そのように望むことは、一体となっている。
こうした一体感を解体しようとする者は嫌われる。
●生産規模の小さな者は視野が限られているのであり、視野の拡大をもたらす活動が生産だと言える。
●社会的実践としての芸術と、自己消費としての芸術とがある。
●社会的実践を目的とした芸術家と、自己消費を目的とした芸術家が存在する。
●社会的実践の成果はひとつの「基準」になるのであり、自己消費する者はその意味での「自己評価基準」を手放している。
●“認識あるいは理論が真理であるかどうかは、主観的にどう感じるかによって判定するのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによって判定するのである”と毛沢東は書いてるが、前者は庶民の感覚で、後者は上流階級の方法論であることは、デカルトも書いている。
●主観的にどう感じたかで何事も判断するのは楽であり、実践し社会的に結果を出してから客観的に判断するには忍耐が要求される。
庶民はあくまで楽を望み、忍耐を退ける。
忍耐し、上流階級へと上昇し、芸術を理解することを、庶民は拒む。
●美味しいものを食べるには忍耐が必要であり、安楽を求める人は不味いものを食べて満足する。
良い場所へいくには忍耐が必要であり、安楽を求める人は悪い場所にいて満足する。
安楽を求める人は、美味しものを食べ、良い場所へと行くことを望まない。
●自分の感性による認識は、物事の一面的なもの、現象的なもの、外部のつながりのもの、に属している。
それらの要素ですべてを判断することは、実にたやすく安楽で、それゆえに間違いに気づけない。
●「経験を積む」とは「負け戦を積み重ねる」ことであり、安楽を求める者はこれを避ける。
●認識は経験に始まり、理論の源は感性にある。
●認識は深化させたい者だけがそうすればいいのであって、安楽を求める人にそれを勧めることは間違っている。
●経験的認識から理性的認識への飛躍には苦痛が伴うのであり、安楽を求める人にこれを勧めることは間違っている。
つまり、理性的認識へ飛躍することは必ずしも正しいこととは言えず、感覚的認識に留まることは必ずしも間違っているとは言えない。
●禁欲的であることや、努力することだけで評価出来ないのは、多くの人が自分に我慢のできることだけを我慢し、自分に努力できることだけを努力し、満足しているからである。
自分に我慢出来ないことを我慢し、努力できないことを努力しなければ、つまりは自己変革しなければ、創造的とは言えない。
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