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2013年7月

2013年7月28日 (日)

言い切りと言い足り無さ

●考えの浅い人はすべてを言い切り、深く考える人はいつも何かが言い足りない。

●自分を守ろうとする人は、自分の弱さによって滅ぼされる。
自分を守ろうとしない人は、自分の弱さから身を守ることが出来る。

●過程が結果を生み出すのではなく、結果が過去に遡って過程が顧みられる。
すなわち、結果が出せないのは過程が不十分か間違っているためにではなく、まず無理やりにでも結果を出して、その後でそこに至る過程は適切だったと認識すること。
これによって、あらゆる不十分や間違いや時間の無駄や後悔は消え失せる。

●能ある鷹はノーマルな基礎に忠実で、そうでない鷹は我流に固執する。

●ノーマルな鷹は自己流にこだわり、能ある鷹は他人のアドバイスで飛躍する。

●目標を小さく持つと、すぐ到達して燃え尽きてしまう。生き延びるためには、なるべく大きな目標を持つこと。

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2013年7月26日 (金)

第180回気体分子ギャラリー『《一流アート》と《超一流アート》オークション』糸崎公朗個展

気体分子ギャラリーのオークションに、ぼくのフォトモ作品が2点出品されています。
1点は、金沢21世紀美術館での個展出品作で、2008年に金沢に滞在しながら制作しました。
もう1点はモノクロですが、旧い写真を立体に加工した「復元フォトモ」で、2010年に開催された新潟市美術館での企画展のために制作しました。

作品の詳細と作品の落札は、下記の「彦坂尚嘉の《一流アート》と《超一流アート》」ブログの記事をご覧下さい。

http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-719.html

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作品名:フォトモ『金沢市寺町』
Artist:糸崎公朗 作品サイズ:w242×h203×d293㎜
素材:顔料インクジェットプリント、カラーケント、イラストボード
制作年:2007年
最低入札価格:10,000円
即決価格:50,000円
終了日:7月30日(火)

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作品名:復元フォトモ『新潟新聞社と丸越デパート(1940年代)』
Artist:糸崎公朗
作品サイズ:w296×h122×d210㎜
素材:顔料インクジェットプリント、イラストボード
制作年:2010年
最低入札価格:4,999円
即決価格:50,000円
終了日:7月30日(火)

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2013年7月21日 (日)

芸術と庶民

しばらく毛沢東の『実践論』読みながら、抜き書きや思い付きを書きます。

●テキストの断片を抜き取りそれで他人を脅す人と、自分の断片的な経験にしがみつく人がいる。

●人類の生産活動が最も基本的な実践活動であり、他のすべての活動を決定する。

●人間は様々な生産活動に従事し、各自の生産様式を持っている。
人間関係は、生産活動の関係でもある。

●“階級社会では誰もが一定の階級において生活しており、どんな思想でも階級の烙印を押されていないものはない”と毛沢東は書いているが、一億総中流と言われた現代日本人の多くは階級をあまり意識しないようだが、そのこと自体、階級闘争に巻き込まれていることの表れで、つまり「庶民」であるよう仕向けられているように思える。

●ぼくが読みとったフロイト『機知』では、庶民から上流階級についての上昇の可能性が示唆されているように思えたが、現代日本人の多くにとってその道は隠されることによって閉ざされ、芸術の本質理解が取り上げられている。
これは他ならぬ自分の問題でもある。

●階級について理解せず、意識せず、自覚しないこと自体、そうするように「庶民」に対し仕向けられている。
しかし、これは上流階級、支配階級が一方的に庶民に仕向けているのではなく、庶民も自分が庶民のままでいることを強く望み、上流階級への上昇を強く拒む。
自己反省すると、そう思えてしまう。

●「階級闘争」という言葉を使うなら、少なくとも現代日本においては上流階級と庶民とが敵対しているのではなく、お互いが協調して階級差を形成してるように思える。
そして、異なる階級に移行しようとする者、階級差そのものを打ち破ろうとする者に対し、全力で闘争をし掛ける。

●自分の反省として書きますが、自分が好きな作品だけを愛する態度は、芸術の理解の拒絶であり、庶民が上流階級へと上昇することの拒絶であるように思える。
庶民は、芸術を理解することを拒絶するよう仕向けられていると同時に、自らも芸術の理解を拒絶することを望んでいる。

●芸術を理解したくないという気持ちにおいて、そう仕向けられていることと、そのように望むことは、一体となっている。
こうした一体感を解体しようとする者は嫌われる。

●生産規模の小さな者は視野が限られているのであり、視野の拡大をもたらす活動が生産だと言える。

●社会的実践としての芸術と、自己消費としての芸術とがある。

●社会的実践を目的とした芸術家と、自己消費を目的とした芸術家が存在する。

●社会的実践の成果はひとつの「基準」になるのであり、自己消費する者はその意味での「自己評価基準」を手放している。

●“認識あるいは理論が真理であるかどうかは、主観的にどう感じるかによって判定するのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによって判定するのである”と毛沢東は書いてるが、前者は庶民の感覚で、後者は上流階級の方法論であることは、デカルトも書いている。

●主観的にどう感じたかで何事も判断するのは楽であり、実践し社会的に結果を出してから客観的に判断するには忍耐が要求される。
庶民はあくまで楽を望み、忍耐を退ける。
忍耐し、上流階級へと上昇し、芸術を理解することを、庶民は拒む。

●美味しいものを食べるには忍耐が必要であり、安楽を求める人は不味いものを食べて満足する。
良い場所へいくには忍耐が必要であり、安楽を求める人は悪い場所にいて満足する。
安楽を求める人は、美味しものを食べ、良い場所へと行くことを望まない。

●自分の感性による認識は、物事の一面的なもの、現象的なもの、外部のつながりのもの、に属している。
それらの要素ですべてを判断することは、実にたやすく安楽で、それゆえに間違いに気づけない。

●「経験を積む」とは「負け戦を積み重ねる」ことであり、安楽を求める者はこれを避ける。

●認識は経験に始まり、理論の源は感性にある。

●認識は深化させたい者だけがそうすればいいのであって、安楽を求める人にそれを勧めることは間違っている。

●経験的認識から理性的認識への飛躍には苦痛が伴うのであり、安楽を求める人にこれを勧めることは間違っている。
つまり、理性的認識へ飛躍することは必ずしも正しいこととは言えず、感覚的認識に留まることは必ずしも間違っているとは言えない。

●禁欲的であることや、努力することだけで評価出来ないのは、多くの人が自分に我慢のできることだけを我慢し、自分に努力できることだけを努力し、満足しているからである。
自分に我慢出来ないことを我慢し、努力できないことを努力しなければ、つまりは自己変革しなければ、創造的とは言えない。

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2013年7月19日 (金)

人生の脇役

ダメな自分ほど生きながら生まれ変わる余地がある、というのが唯一の生きる希望になる。

自分の弱さが自分自身を攻撃し屈辱を与える。

他人に対する弱さが自分自身へと強い力となり、敗北をもたらし、屈辱を与える。

なんだかんだ言って、自分にはまともで善良なところがある、と思っている事自体がファンタジーなのである。

ところで、自分が主人公で芸術が脇役だと考える芸術家と、芸術が主人公で自分が脇役だと考える芸術家がいる。

自分こそが人生の主役なのだと考える人と、自分は神様の脇役でしかないと考える人がいる。

自分は自分自身の人生の主役になり得ない、と言うことは、自分がどのように生まれ、どのように死ぬのかを考えれば、実に当たり前のこととして理解できるのである。

自分の弱さによって自分自身の正当性を失っても、それは主役ではない脇役の運命として受け入れる他ない。

漫画の主人公は、実のところ漫画家が生み出した彼自身にとっての脇役に過ぎない。
漫画家の主人公は、漫画家によって生み出され、漫画家の意のままに動かされ 、漫画家の都合で死んでゆく、漫画家の人生にとっての脇役にすぎない。

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2013年7月17日 (水)

フロイト『機知』抜き書き05

●これで、敵意ある攻撃における基地の役割を究明する準備はできた。
我々は対立して障害となっているもののために、敵の笑うべき点を大きな声で、あるいは意識的に申し立てすることはできなかったのだが、機知のおかげでその笑うべき点を活用することができるようになるだろう。

●つまり、機知はまたしても制限を迂回し手の届かなかった快楽源への道を開いてくれるであろう。
さらに機知は聞き手に会を獲得させることで抱き込み、とことん吟味する我々を見方につけるだろう。

●機知には、表向きの面ーー我々の事例では滑稽なーー外見があり、そこに眼差しが止まってしまう者もあれば、その裏側を覗き込もうとする者もいるということである。
それにこの外見は吟味する眼差しをくらますためにあるのではないか。
つまりこういった小噺は何かを隠しているのではないかという疑念も芽生えてこよう。

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2013年7月16日 (火)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き04

●洗練され教養のある社会に成り上がって初めて、形式面での機知の条件が加わってくる。
猥談は機知的になり、機知的でないと大目に見てもらえない。
猥談がたいていの場合に用いる技術的手段はほのめかしである。

つまり、小さな事、遠く関連していることで代替し、聞き手がそれを表象して従前十全かつ直接的な猥褻さへと復元する。
猥談で直接口にされていることと、猥談によって聞き手の内に必然的にかき立てられるものとの間の不釣り合いが大きければ大きいほど、機知は洗練され、上流社会でも通用する。粗野または洗練されたほのめかし以外にも、機知を帯びた猥談は__例を挙げて簡単に示せるように__その他あらゆる語機知や思想機知の手段を用いる。

機知の傾向に対してその機知がどんな役割を果たしているか、ここでついに明らかになる。
すなわち妨げとなっている障害に負けずに欲動(好色な、あるいは敵対的な)を充足することが、機知によって可能となる。
機知はその障害を迂回することにより、生涯のために接近できなくなっていた快源泉から快をくみ出す。
妨げとなっていた障害とは、女性の教育水準や社会的階層が高くなればなるほど、剥き出しの性的なものには耐えられなくなると言う、その女性の事情のことに他ならない。

基本状況では、居合わせると考えられた女性は、その後も引き続き存在感を保つというか、女性がいなくなってもその影響は、男性たちに対して威嚇的に作用し続ける。
観察していると分かるが、身分の低い娘が同席すると、高い身分の男性たちはたちまち猥談のレベルを硬化させ、機知的ではないただの猥談をやりたがる。

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自己中心的と、自己周辺的

自己中心的の反対が、自己周辺的。自己をなるべく周辺に配することで器が大きくなる。

自己愛の反対は自己憎悪…では無く、強すぎる自己愛は自己憎悪の裏返し。

芸術家には、自分を中心に据え芸術を周辺に配する人と、芸術を中心に据え自分を周辺に配する人とがいる。

生活世界のみに生きる人と、生活世界と非生活世界との二重性を生きる人とがいる。

山の幸が豊かな森が切り開かれコンビニに置き換わると、狩猟採集生活してた原始人が万引き犯に置き換わる。

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2013年7月15日 (月)

他者排除と自己排除

他者排除の反対は自己排除。
自己を排除して他者を受け入れるスペースを設けること。
「他者排除する自己」を排除することで、器を大きくすることができる。

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2013年7月13日 (土)

社会の掟と自然の掟

「人を見たら泥棒と思え」とまず鏡に向かって言うことができれば、すべての人を公正に疑うことができる。

善良な人間は「社会の掟」に従うが、犯罪者は「自然の掟」に従って行動する。

人間社会は、社会の掟と、自然の掟とが重なり合っている。社会の掟を無視し、自然の掟のみに従って、社会内で行動すると犯罪になる。

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2013年7月12日 (金)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き04

●まさに同じ方向を、思想的機知の諸技法、すなわち遷移、理論的誤謬、不条理、間接的呈示、反対物による呈示、も指し示している。これらはことごとくみな夢工作の技法でも姿を見せるからである。

●第一に、夢の様子が我々に違和感を与え、夢を覚醒時の思考の継続とみなすことを妨げるのは、遷移のためである。

●第二に、不条理や馬鹿げたことが夢で用いられるために、夢は心的所産が持つべき栄誉を失い、精神活動の崩壊、批判、道徳、論理の一時停止こそが夢形成の条件だと諸家に思い違い違いさせた。

●第三に反対物の呈示は夢ではごく普通なので、妄言ばかりの大衆向けの夢解釈本でさえ、反対物による呈示を計算にいれるのが常である。

●第四に、間接的呈示、夢思考をほのめかし、小さなこと、比喩と似た象徴表現で代替すること、これこそが夢の表現様式を覚醒思考のそれから区別するものである。機知工作の媒体と夢工作の媒体との間にこれほど大幅な一致があるということは、偶然ではあり得ないだろう。

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2013年7月10日 (水)

欲とバイアス

●精神が無くて欲だけがあり、欲が精神のフリをしている、という人間が存在する。

●精神が無くて小さなこだわりだけがあり、小さなこだわりが精神のフリをしている、という人間が存在する。

●精神が無くてただ臆病で、臆病が精神のフリをしている、という人間が存在する。

●少なくとも自分の意見には、自分の「欲」によるバイアスが掛かっている可能性があるが、他人の意見にはそれがない。
しかし他人の意見にはその人の欲によるバイアスが掛かっている可能性がある。
従って、自分の欲を差し引き、あらゆる他人の欲を差し引いた意見が「客観」と言えるのかもしれない。

●少なくとも自分の「欲」によるバイアスが掛かっていないという意味において、あらゆる他人の意見は傾聴に値する。

●自分は自分自身の「欲」の奴隷だが、その支配領域は他人にまでは及ばない。
だからもし自分自身の「欲」から逃れたければ、他人に従うことである。

● 自分のしたいことをするのではなく、他人が自分に何をさせたいのかを理解し、それを自分のしたいことに転化すること。

●屈辱を感じるのは、屈辱を与える相手に自分が賛同しているからであり、その意味で自分に屈辱を与えるのはいつも自分なのである。

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フロイト『機知』(1905年)抜き書き03

●これらの例では同一語が多重使用されると言っても、そこに二重意味的要素は全くない。等に私が強調したいのは意外な新しいまとまり_表象の相互関係、相互定義、あるいは共通の第三のものへの定義_がここでは生じていることである。この現象を私は「一体化」と呼びたい。

●続けて何度も同じように反応した人物が、その次に同じような仕方で答えるが、今回は不適切で裏目に出てしまう。彼は慣れ切って自動作用に身を委ね、状況の必要に合わせる事を怠ってしまう。

●どの例でも、思考と表現を目的に応じて変更する事がなおざりにされ、自動作用が勝利する。

●「いいえ」というしかないところ、その代わりに反対の答えをする点にこそ基地の手段があるということである。反対の答えができるためには「はい」と言った後で「ただ」と続けねばならず「はい」プラス「ただ」が「いいえ」と同じ意味になるのである。これを「反対物の提示」と名付けたい。

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2013年7月 9日 (火)

強い人の弱さ

物事には何でも二面性がある、という観点から「強い人の弱さ」や「頭の良い人の頭の悪さ」を疑ってみることはできるだろう。
実際、自分の知人にも、やたら体格が良いのに人一倍気の小さい男や、東大出てるのにある種の頭の悪さを露呈した人がいるのだった。

気の小さい人が、だからこそ人一倍体を鍛えたり、ある種の頭の悪さを抱えた人が、だからこそ自分に可能な受験勉強を人一倍頑張るとか、そういうことはあるかもしれない。
いや、基本的に人は誰もが大同小異で、その意味で誰もが弱く、その事をそれぞれの仕方でカバーしていると見ることが出来るかもしれない。確かに、人間の強さあるいは弱さにはには個人差はある。

しかし生物学的な「ヒト種」という観点でみれば誰もが大同小異であり、だからこそ人は誰でも弱いと言える。
そのような観点から、人間は実のところ誰もが弱い、と言えるかもしれない。

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2013年7月 8日 (月)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き02

●縮合の結果起こっているのは、一方ではまたしても顕著な短縮であり、他方ではそれも分かる合成語ではなく、二つの構成要素の諸部分の相互貫入である。

●こう言ったグループの機知をわずかな変更を伴う機知と言い表すことができるし、変更がわずかであればあるほど機知はさえているだろうと見当がつく。

●この変換過程の総体を私は「夢工作」と名付け、この夢工作の一部をなすある縮合過程を記述したが、それは機知技法の縮合過程と極めて大きな類似性を示すのであって、機知技法と同じく縮約へと導き、それと同質の代替形成を引き起こすような過程であった。

●還元の手続きとはつまり、表現を変えて機知を帳消しにし、その代わりにもともとあった十全な意味をそこに入れ込むことであり、機知がよくできていればその意味を推定することは確実に出来る。

●機知の技法は、同一の語が一方では全体として、他方では綴り当てゲームのように音節に分解されて(それぞれ意味を持つ語となり)、二重に使用されるところにある。

●一つの名前が二度使用されるが、一度は全体として、次に音節に分解して使用されているのである。分解されると、名前を構成していた音節はある別の意味を帯びてくる。

●「同一素材の多重使用」を拡張して、機知が密着している(一つまたは複数の)語をある場合は変更なしで、別の場合は小さな変更とともに用いることができれば、機知技法には豊かな活動領域が開けることになる。

●語は柔軟な素材であるから、それでもってあらゆることができる。語によっては、ある使い方をすれば元来の十全な意味を失ってしまうが、別のつながりにおいてはその意味はなお保たれている。

●機知はその技法によって何を節約しているのか。新しい語、すなわち大抵は労せずして成立したであろう後をいけつか繋ぎ合わせることを節約している。その代わりに機知が引き受けねばならぬ労苦とは、二つの思考をカバーしてくれるまさにその一つの語を探し求めることである。

●それらの機知とはふつう駄洒落と呼ばれるもので、語をめぐる機知の変種のうちで最も低次元とみなされている。恐らくその訳はこの機知が「最も安価」でいちばん労少なくして生まれるからであろう。実際本来の言葉遊びが表現の技法を最大限に要求するのに対して、駄洒落はそれを最小限にしか要求しない。

●私はそれを「遷移」と名付けることを提案する。なぜなら、その技法の本質は、思考過程の方向を逸らし、心的力点を当初のテーマとは別のテーマに遷移することだからである。

●この小噺もまた、見かけは理論を装っている。それが理論的誤謬を隠すのに格好の外見であることは、先刻承知の通りである。◯言ってみれば客は「の代わりに」という関係を二重的意味に適用している。というか、二重的意味を用いて、実際には根拠のない結びつきを作り出している。

●研究の結果として判断基準が生じてくるまでは、われわれに基準はないのである。言語慣用は当てにならず、それ自身が正当化どうか吟味される必要がある。決定に際して我々が頼れることができるのは、ある種の「感覚」だけである。

●この感覚は何かというと、我々が判断する時、まだ我々が認識できていない一定の基準に即して決定が行われることと解釈できるだろう。十分な証明のためには、こう言った「感覚」を引き合いに出すことをやめてはならないだろう。

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欲と認識

近所のブックオフに『老子』が置いてあったのでチラッと再読したのだが、欲があるから偏見が生じ、欲を無くせば偏見も無くなり、欲の無いところに認識が生じる。

欲が無い人は自分が損をすることを恐れず、損をする覚悟ができている。

欲が無い人は認識のために一切の言い訳をせず、自分への非難を甘んじて受け入れる。

欲が無い人は、欲が無い故に他人の欲望を知ろうとする。

大人は子供に比べ無欲であることによって、子供より優位に立っている。つまり、欲が無い人は欲が無いことによって他人より優位に立つことができるのである。

無欲な人は他人に誤解されることを損だとも惜しいとも思わず、一切の言い訳もせず、ただ相手の欲望を認識してこれを受け入れる。

欲がない人は他人からの誤解を恐れず、他人から誤解を受ける覚悟ができている。

欲がない人は、他人からの誤解に対し一切言い訳をせず、相手の「誤解したい気持ち」を認識しそれを受け入れる。

相手に誤解された場合、言い訳によってこれを解消することはできず、「誤解された自分に積極的になってゆく」事だけができる。

相手に誤解された場合、言い訳によってこれを解消することはできない。つまり「自分を誤解した相手」を変化させることはできない。しかし自分の方が「誤解された自分」に変化することはできる。そのように無欲な人は、欲によって生じる偏見に惑わされずに、認識を深めることができる。

「欲」というのは瞼であって、目を閉じれば自分の欲によって作り出された世界だけが見える。欲の無い人の目は開かれている。

「他人に誤解されている」と思うこと自体が「自分をよく見せよう」と思う「欲」から生じる誤解なのであり、欲がなく目の開かれた人にそのような偏見は存在しない。

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2013年7月 6日 (土)

アーティストと褒め言葉

他人の褒め言葉は疑ってこそ意味がある。

他人の評価が自分の支えになっている人は、それを自覚できないままでいることがアブナイ。

アーティストが他人の褒め言葉によって成長するのは、基本的に褒められるとアーティストはダメになるのであり、そのように褒め殺され、傷つき、それを乗り越え回復することによって成長する。

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2013年7月 5日 (金)

抑制と利益

●抑制が利益を生む。

●多くの人が、自分の小さな力の及ぶ範囲で他人を支配しよう躍起になっている。

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フロイト『機知』(1905年)抜き書き01

●機知とは遊戯的判断である。美的な自由が事物の遊戯的考察であるように、という類比を参照せよ。

●欲求の充足を切実に要求せず、見る喜びで満足する。

●美的態度は労働とは逆に遊戯的である。

●美的自由からは、日常的な束縛や基準から解き放たれた判断のあり方が生じるかもしれない。遊戯的判断。自由は機知を与え、機知は自由を与える。機知とは、単なる観念の遊戯である。

●機知とは似ていないものの間に類縁性を見出す、つまり隠れた類縁性を見出す技術である。機知とは、どんなカップルでも娶わせる変装した司祭である。その司祭は、その結合を親戚が認めたがらないカップルを最も好んで娶わせる。

●機知とは、内的な意味内容の点からしても相互関係の点からしても本来は異質であるいくつかの表象を驚くべき速さで一つに結びつける技術である。

●表象の対比、無意味の中の意味、意表を突かれて納得する。機知とは何らかの意味において、対照的な二つの表象を大抵は言葉を用いて勝手に結合ないし接合するものである。

●言葉と結びついた諸表彰があれこれと対比されているのではなく、言葉の意味と無意味との対比もしくは矛盾なのである。その言葉に意味があると最初は認めたものの、その後はまた認められなくなる…とき始めて対比が生じる。

●ある時意味があると思ったものが、全く無意味なものとして現れる。そこにここでいう滑稽な成り行きがある。

●滑稽の感情を生み出す心的過程は、言われた事にいったんは意味を与え、なるほどと思い、認めたのに、たちまちにして意味がないという意識や印象にとって代わられるというものである。

●滑稽なものが奇妙なのは、ただ一瞬しか我々を欺けないことだ。

●簡潔さが機知の肉体にして魂であり、いや機知そのものである。

●意表を突かれる事と納得することが踵を接して起こるために、機知の効果が生じる。

●機知の内容は、常に少ない言葉で語られるというより、常に少なすぎる言葉で、すなわち厳密な理論や普通の思考法、話法から言うと不十分な言葉で語られるのである。とどのつまり、機知はその内容について沈黙することにより、端的に語ることができる。

●機知は秘匿されたもの、隠されたものを引っ張り出してこなければならない。

●散乱した断片をある有機的全体へと結び合わせること。例えば一連の逸話を読んでもある人物の性格がわかることはなく、そのためには伝記を紐解く必要がある。

●成果を当てに出来るためには、新しい観点を仕事に持ち込むか、それとも注意力を一層研ぎ澄まし、関心を一層深めつつさらに前進するよう努めるか、そのどちらかであろう。

●あらゆる心の中の生起は内密に関連しあっているので、たとえどんなに人目を惹かぬ領域であろうと、それに関して心理的人しにが生ずれば、他の領域にとっても予見し得ないほどの価値を確実に持つということである。

●機知の性格と効果は、機知を他のものに代替してしまうと消え去る。

●勝利を呼ぶのは単なる配置。兵士のそれぞれあれ、文のそれぞれであれ。

●言葉の合成によって、機知の性格と笑の効果は結びついている。

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2013年7月 4日 (木)

認識と疑い

誰も教えてくれない事は自力で調べて解明するしか無い。

「良いもの」を見分けるのは大変で一生掛かって見分ける必要がある。

自分が「良い」と思う感情に溺れず、「良い」と思えるものに疑いの目を向ける能力を身に付けなければ、本当に良いものは認識できない。

自分が「正しい」と思ったことを疑う能力を身につけていない人は常に間違う。

自分の感性を疑うところから、学問としての芸術が立ち上がる。

自分の感性を疑うところを立脚点として、学問としての芸術が立ち上がる。

自分の感覚を疑うことを立脚点として、あらゆる学問が成立する。

芸術を認識しようと思ったら、自分の「自然な感覚」の外部に出ようとする事。

世間体の延長でものを見ても、芸術は認識できない。

生活に根ざして芸術を語ることはできないが、芸術に根ざして生活を語ることは出来る。

人は目覚めながら常に夢を見ているのであり、これを自覚しなければ現実を認識することができない。

盲人の群れの中で、自分が盲人であると自覚できる者だけが、見ることができる。

何の努力もなければ人は自らを有能だと思いなすのであり、だから無知の知には不断の努力が必要となる。

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2013年7月 3日 (水)

罪と手柄

自分の欠点は、元を辿れば親の育て方に原因がある。
という理屈に基づくと、自分の利点もまた元を辿れば親の育て方に原因があると言える。
つまり貶されても褒められても本質的に自分とは関係が無く、全ては親に原因がある。
自分には何の罪もなく、同時に何の手柄もない。

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デザインの定義

●デザインとは,現状を少しでも望ましいものに変えようとするための一連の行為である。

●デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。つまりデザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される 。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3…

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認識と環境変化

人間は未知のものを新たに認識できるが、昆虫はプログラム(本能)によって定められた「既知のもの」以外は認識出来ない。

人間は「知らないもの」「見えないもの」を新たに認識する能力を備えるが、昆虫は種に固有のプログラムによって定められた「知っているもの」「見えるもの」以外を認識することが出来ない。

ところが人間も子供から大人になるにつれて、昆虫のような固有のプログラムを自前で構築し、やがては「知っているもの」「見えているもの」以外を認識しなくなる。

「知らないもの」「見えないもの」の認識は「比較」によって可能となるが、昆虫はこの能力を持たない。例えばモンシロチョウの幼虫はキャベツに含まれるある種の化学物質だけを認識し、その葉を食べる。カマキリは動くものだけを認識し、だから獲物の虫が動きを止めるともうそれを認識出来なくなる。

人間は本来「比較」の能力を持っているが、いちいち物事を比較してると時間がかかる。だから何事も比較せず、「知っているもの」「見えるもの」だけで判断する事は効率化に繋がる。逆に「知らないもの」「見えないもの」を認識する比較の能力は、適応力に繋がる。

適応と適応力は異なる。適応力の高い人は激変する環境に素早く適応できるが、そのような適応力を獲得するには時間が掛かる。適応力を養うには、様々な「知らないもの」「見えないもの」を比較によって、時間を掛けて認識する必要がある。

「知らないもの」「見えないもの」が認識出来ない昆虫は、その意味で適応力を持たず、環境が激変すれば絶滅するしかない。しかし実際には、ゴキブリやハエなど様々な昆虫が、都市という新たな環境に適応し繁栄している。しかしもしかするとゴキブリにとって、環境は何ら変化していないのかも知れない。

森林が取り払われて都市になろうとも、そこにすみ続けるゴキブリにとって、環境は全く変化していない、と見る事ができる。ゴキブリは狭く暗く適度に湿った空間を好むが、そのような場所は森林にも都市にも存在し、彼らにとってどちらの環境も同一であると認識される。

逆にいえば、ゴキブリは森林から都市への環境変化を認識できず、そのおかげで環境の変化を問題にせず、生き延びる事ができている、と考えられる。人間もまた同じであり「知らないこと」「見えないもの」から徹底して目を逸らす事によって、高い適応力を示す人は実に多いのかも知れない。

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2013年7月 2日 (火)

賢者と比較

自分かいかにダメなのかを知ることが喜びになる。

賢者は自分の愚かさを発見しては喜び、愚者は自分の賢さを発見しては喜ぶ。

賢者は自分の愚かさを知る度に賢くなり、愚者は自分の賢さを知る度に愚かになる。

賢い愚者は、自分が賢いと信じるからこそ愚者なのである。

賢者の認識は己の愚かさを知る事にあり、愚者の認識は己の賢さを知る事にある。

多くの人が、自分が既に知っていることを「自分はこれを知っている」と繰り返し確認しながら満足と安心を得ている。

多くの人が、自分の優れた点について「自分はこの点については優れている」と繰り返し確認しながら満足と安心を得ている。

多くの人が「自分が知っている事」を見付けては喜び、「自分にできる事」を見付けては喜び、「自分がやったことのある事」を見付けては喜び、「自分の優れた点」を見付けては喜んでいる。

同時に多くの人が「自分の知らない事」「自分にできない事」「自分がやったことのないこと」「自分の劣った点」を必死になって見ないようにしている。

そう言えば、ふと思い出したのだが、子供の頃、何か比較してものを言うと「比較するんじゃありません!」と、先生に怒られたような気がする。
そのようなわけで、日本人はおしなべて比較する事について嫌悪感を持っているのかも知れない。

比較するからこそ、良いものと悪いもの、優れたものと劣ったものの差が出てくる。
様々なものを比較すればするほど、良し悪しや優劣の序列が明確になり、物差しとなる基準が出来上がる。

比較が不十分な場合、物差しとなる基準が時と場合によって動いてしまい、公正な判断が出来なくなる。
比較をしない場合は、どんなものもそれなりによく思えるようになり、だからこそ小学校の先生が言うように「比較なんかするんじゃありません!」なのである。

比較さえしなければ、何でもそれなりに良いと思えるし、比較さえしなければ、目の前のものが常に最高だと思うことができる。

思えば、自分の主張する「非人称芸術」は上記のように「比較しないこと」によって成立するのであるが、芸術とは本来的に「比較」によって成立するのであり、そこに齟齬をきたしている。

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