賢者と比較
自分かいかにダメなのかを知ることが喜びになる。
賢者は自分の愚かさを発見しては喜び、愚者は自分の賢さを発見しては喜ぶ。
賢者は自分の愚かさを知る度に賢くなり、愚者は自分の賢さを知る度に愚かになる。
賢い愚者は、自分が賢いと信じるからこそ愚者なのである。
賢者の認識は己の愚かさを知る事にあり、愚者の認識は己の賢さを知る事にある。
多くの人が、自分が既に知っていることを「自分はこれを知っている」と繰り返し確認しながら満足と安心を得ている。
多くの人が、自分の優れた点について「自分はこの点については優れている」と繰り返し確認しながら満足と安心を得ている。
多くの人が「自分が知っている事」を見付けては喜び、「自分にできる事」を見付けては喜び、「自分がやったことのある事」を見付けては喜び、「自分の優れた点」を見付けては喜んでいる。
同時に多くの人が「自分の知らない事」「自分にできない事」「自分がやったことのないこと」「自分の劣った点」を必死になって見ないようにしている。
そう言えば、ふと思い出したのだが、子供の頃、何か比較してものを言うと「比較するんじゃありません!」と、先生に怒られたような気がする。
そのようなわけで、日本人はおしなべて比較する事について嫌悪感を持っているのかも知れない。
比較するからこそ、良いものと悪いもの、優れたものと劣ったものの差が出てくる。
様々なものを比較すればするほど、良し悪しや優劣の序列が明確になり、物差しとなる基準が出来上がる。
比較が不十分な場合、物差しとなる基準が時と場合によって動いてしまい、公正な判断が出来なくなる。
比較をしない場合は、どんなものもそれなりによく思えるようになり、だからこそ小学校の先生が言うように「比較なんかするんじゃありません!」なのである。
比較さえしなければ、何でもそれなりに良いと思えるし、比較さえしなければ、目の前のものが常に最高だと思うことができる。
思えば、自分の主張する「非人称芸術」は上記のように「比較しないこと」によって成立するのであるが、芸術とは本来的に「比較」によって成立するのであり、そこに齟齬をきたしている。
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